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森鴎外の史伝に興味を持っているものです。

鴎外は『渋江抽齊』を書いているとき、抽齊の「痘科の師」である池田京水を詳しく知ろうとし、池田氏の墓の行方を熱心に捜します(『渋江抽齊』その十四~二十)。
菩提寺である嶺松寺は、折からの廃仏毀釈政策のために廃寺になっており、墓所の移転を警視庁に照会したり、付近の共同墓地に何度も足を運びます。

「わたくしは撰者不詳の墓誌の残欠に、京水が刺ってあるのを見ては、忌憚なきの甚だしきだと感じ、晋が養父の賞美の語を記して、ひとつの抑損の句をも著けぬを見ては、簡傲も亦甚だしいと感ずることを禁じ得ない。わたくしには初代瑞仙独美、二世瑞仙晋、京水の三人の間にあるドラアムが蔵せられているように思われてならない。わたくしの世の人に教を乞いたいと云うのは是である。(その二十)」

この探索は『抽齊』の連載終了後も、『伊澤蘭軒』でも引き続き行われます。
その結果京水の後裔と相まみえることになり、鴎外が求めてやまなかった京水の墓誌は永久に失われたことを告げるのですが、前置きはここまでにして、質問に入ります。

1.鴎外は何を求めて墓を探していたのでしょうか。言い換えれば、墓を見ると何がわかるのでしょうか。

2.墓誌がどのようなものかは、「お墓にある亡くなった人たちの名前が刻まれた石碑」である、という程度の理解を持っていますが、もう少し詳しく知りたいのです。

3.池田家のように「失われた」というのは、具体的にはどういうことなのでしょうか。先祖は菩提寺に祀ってある、というのが通常の感覚なのですが、その菩提寺が廃寺になった場合、お墓というのはどうなっていくのでしょうか。
以上の点、ご存じでしたら教えていただきたいと思います。

A 回答 (1件)

あまり有益な回答はできませんけれども書き込ませてもらいます。



1、 2について。
もともとの墓誌は、故人の事跡を彫った金板や石版を墳墓の石函に埋めるものでしたが、近世になってからは数が少なくなっています。実際に『渋江抽斎』で鴎外が探しているのも墓石そのもののように伺えますから、ここで墓誌とされているものの内実は「墓石に刻まれた(銘)文」だと考えてよいのでしょう。
(現代の「墓誌」はまた内容が違っていて、墓石とは別個の独立した石版で、埋葬されているホトケ各々の戒名や俗名、没年月日や享年などを順に記したものを指すことが多くなっています。これは先祖代々の集合墓が一般化して以降、個々のホトケを偲ぶために生まれた比較的新しい習慣ですから、個別墓が普通であった江戸~明治期の事例とは異なる性格のものです)

独立した墓誌に比べ、墓石に碑文を彫る場合には当然スペースに限りがありますから、いきおい情報量も限定されることになります。基本的には、故人の出自、主たる業績功賞、没年月日などのほか特筆すべき事項があれば記載される、という程度ではないでしょうか。もちろん、特に撰者があればその名前も記されますし、親筆である場合もあります。撰者は故人にとってもちろん因縁浅からぬ人物ですから、この類が発見できれば鴎外にとって有意な情報源となったことと思います。

ただ、概していうとやはり情報としては限定されたものだと思います。もちろん文字数の多いものもあって、例えば戦没・殉難の諸霊のために作られた忠魂碑などがそれにあたります。この場合には彫られた銘文それ自体に鎮魂の役割が期待されましたから、いかにその戦役が激烈であり、その中でいかに戦攻芳しきかったか、といった内容が仔細に述べられています。
しかしこういったものは例外で、個人の場合、多くは大なり小なり上に挙げた程度ではなかったかと思います。鴎外も実際そうしていたように、寺から過去帳記載の係累縁者情報を探りつつ、補完的に何かしらの情報を得ることができれば、という考えで墓誌を求めたのではないでしょうか。

3について。
『渋江抽斎』でもそうだと思いますが、維新後で廃仏政策と離檀運動が強かったために廃寺となった場合、恐らく境内地・墓地もろとも官有地として上地させられたのではないかと思います。この場合、鴎外と弘福寺住職の会話でまさに言及されているように、祭祀者である当該檀家が存続していればその家において墓を引き取って新たな墓地を求めるわけですし、祭祀者の不明なものは共同墓地へと遷されるというのが一応の原則となったでしょう。

ただし、この共同墓地への移遷はあくまで「原則」であって、現実には池田家の墓の行方を辿ることができなかったように、残念ながら無縁の墓が整理・処分されてしまうことも(かなり)しばしばあったようです。形式的にいわゆる除魂(撥遣)の儀式を行ったあと、墓石を埋めるなどした例は恐らく沢山あったことでしょう。

背景を言えば、この頃は無縁墓がかなり整理された時代でもあります。
もともと無縁墓は本来時間の経過とともに必然的に生まれるものではありましたが、明治から大正にかけての意識の変化の影響を直接間接に受け、無縁墓の数が増加するようになったのです。

まず明治初年の民法の整備をうけて、墓というものが土地の単なるいち利用形態に過ぎないことが裏書きされるようになります。またその所有権の売買についても、工作物(つまり墓石など)を適切に処分する限りにおいて何ら他の土地と変わらない、という認識が、宗教上はどうあれ、少なくとも公的には打ち出されてくる時期にあたります。要は墓の扱いが軽くなるわけです。

その一方で、是非はともかく廃仏に伴う離檀思想が強まり、これが結果として家族意識をも弱体化させることになってしまいました。このことが家督相続の要諦であった墓地の重みを総体的に軽くする方向に働いたことも当然でしょう。
明治7年ごろを皮きりに青山、谷中、雑司が谷、亀戸などに次々と公営墓地が開かれていきましたが、わざわざ費用をかけて無縁の墓地を移転し、一定のスペースを割り振ってこれを設置することは、むしろ公営であるからこそ難しい面があったことは想像に難くありません。

さらに明治中期からは都市計画上の要求が高まって、特に都心部の寺院墓地の整理が区画整理の重点項目となりました。
ちなみにこの流れを決定づけたのは『渋江~』の少しあとの関東大震災で、これがために200以上の寺が移転を余儀なくされ、30万基以上の墓が移転のために掘り返されたと言われますが、恐らくこのうち2割程度は無縁として処分の憂き目にあったのではないか、と個人的に推測しています。

要するに、墓地の底地管理者が、地域コミュニティという一蓮托生の運命共同体でもなく、また宗教に携わる寺でもなくなった時点で、無縁墓地の運命は決まっていたとも言えます。小奇麗にまとめると、鴎外の生きた近代日本の歴史は、一面で墓地整理の歴史でもあった、ということでしょうか。

この回答への補足

この場をお借りして。
本人の手跡を収集し、遺族親族を訪い、探墓を続けて故人の実像に迫ろうとした鴎外に、史伝を読むことを通じて接した後、いまいちど“余は石見の人、森林太郎として死せんと欲す。墓は「森林太郎墓」のほか一字も彫るべからず” との遺言を読むと、その言葉の深さ重さに襟を正さずにはおれません。やはり、理解というのは直観によって得られるものではなく、知識の裏付けによってこそなのだという認識を、あらためて強くしました。
不明な点、わからない点などあった際は、今後ともお導きいただければ大変うれしく思います。

補足日時:2004/02/21 08:28
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この回答へのお礼

大変勉強になるご回答、ありがとうございました。自分の知識の及ばない言葉のいくつかを調べつつ、メモを取りながら拝読させていただきました。
1及び2に関して。まず、墓誌という言葉の意味するところ、次いで、失われていなければ鴎外が得たであろうところのものを教えていただいてありがとうございました。十分に納得のいくものでした。その上で、きわめて限られた情報であろうと、それを得、直に接しようとする鴎外の姿勢に、改めて胸を打たれました。
3点目、これまで日本人の「家」意識をお墓という観点から見たことがなかったので、蒙を啓かれる思いでした。確かに墓は、家の統合のシンボルでもあり、同時に家督を継ぐことは、先祖の墓を守ることにほかならなかったのですね。廃仏政策・離壇運動が、このようなかたちで現在の家族意識にまで影響を及ぼしているとは思いもかけませんでした。鴎外の史伝を読むきっかけとなった森まゆみの『鴎外の坂』の「墓は死んだ人間と生きている人間を結ぶよすがである。何ら書き残さず書き残されなかった人間についてたどる唯一の手がかりである」という一節をあらためて思い出します。私事ではありますが、春から長い学生生活に区切りをつけることになります。この時期、鴎外の歴史的人物に対する姿勢に触れることができ、また、その理解を深めていくような回答を得られたことは、自分にとってきわめて有意義なことでした。重ねてお礼を言います。ありがとうございました。

お礼日時:2004/02/20 22:13

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