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長らく、日本の社会は平家(関白)と源氏(征夷大将軍)が交替に治めてきた、という解釈があるようです。そうすると、明治以降は平家の時代だったと解釈されるのでしょうか? また、昨今の政治の混乱と予測される激変は、再び世の中が源氏(的人材やビジョン、スタイル?)によって統治されようとしているのでしょうか?教えてください!

A 回答 (9件)

No.8 の回答者です。


「補足」が、12/12に書かれていたことに今まで気付かず失礼しました。
「お礼」が入るとメールで連絡があるので、すぐに確認するのですが、まさか「補足」での質問があったとは思いもよらなかったのです。

私の理解の範囲でお答えしてみたいと思います。

武家を統括して支配を確立するには、征夷大将軍の方が良かったのです。
関白というのは、あくまで朝廷を中心とする公家社会の中での役職です。
今年の大河ドラマで「平清盛」が取り上げられていますが、清盛は朝廷の中で権力を握るために、当時の公家の中での最高位の太政大臣になり、それまで公家に虐げられていた武家の世を作ることに力を注ぎ、平氏一門を朝廷内の高位の役職に次々に就けます。
朝廷内での内部権力の強化を図ったのです。
何故太政大臣かというと、摂政・関白には藤原摂関家しかなれなかったからです。

その後の源頼朝は、京・朝廷の外に独立した武家政権を承認させようとしました。
征夷大将軍は、その承認形式として、最も適当と考えたのです。
征夷大将軍という言葉を歴史的なものにしたのは頼朝でした。
頼朝はこの名において、幕府という形の武家政権を創始し、日本史上の中世を制度化し、700年にわたる封建制度の在り方を定めました。

その後、征夷大将軍というのは、鎌倉将軍はもとより、室町将軍、江戸将軍も通じて、頼朝のそれを承けるものとなりました。
新しい武家の棟梁としての支配の立場が、古代朝廷の権威のもとに正当化されるにしても、それは都における朝廷秩序とは体系をことにするもの、東国に独立した支配の体系であることを、京に対して主張するものだったのです。
都における権大納言・近衛大将・正二位相当の東国常任の武門支配権として、この征夷大将軍が必要でした。

豊臣秀吉の場合は、出自が出自ですので、はなから征夷大将軍になることは無理でした。
勿論なりたいとのいろんな工作はしたようですが、拒絶されます。
そこで困窮していた公家に金品の賄賂攻勢で丸め込み、藤原摂関家の猶子となることにより、関白職を手に入れ、のちに豊臣の姓を賜りました。
この結果、五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)に、豊臣も加わった訳です。

江戸幕府は、家康が頼朝を最大の政治的指導者と仰いでいました。
信長や秀吉のように廷臣武家の道をとらず、足利幕府のように京公方の先例に従わず、江戸幕府の将軍方式をとったのは、頼朝の鎌倉幕府の範に従ったものです。
幕府というものが、そのあるべき武家の要求に徹して、公家の正義と支配とを系統的に破壊し尽し、日本史上、天皇政治・公家政治に制度的に終止符を打つのは、江戸幕府の将軍政治と言えます。

明治維新のことをいうなら、むしろ天皇中心の公家政治に戻ったと言えるのではないでしょうか。
廃藩置県後の政府首脳の職名からして、太政大臣・三条実美、右大臣・岩倉具視、参議・木戸孝允、西郷隆盛、板垣退助、大隈重信などとなっています。
内閣制度が発足するまでは、このような古い職名が使われています。
尤も、職名がそうだというだけで、実際の政治や産業の内容には、革新的なものが多く、明治維新の名に値するのでしょうが。
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この回答へのお礼

こちらこそ、お返事が遅くなり大変失礼致しました。
ご丁寧な回答ありがとうございます。

最初に質問させて頂いてから時間が経過しているうちに、「維新」を叫ぶ人たちの勢いも大人しくなり、大河ドラマ「八重の桜」では元長州の人たちが悪者扱いされて怒っている、という記事も目にし、維新の妙なフィーバーぶりも落ち着いてきたかのようで、言葉にすると変な気もしますが、ちょっと安心しています(笑)。

現安部政権の大胆な政策が後にどのような評価を受けるのか、分からない部分も多いですが、色々な歴史的な経験や考えがそれこそよい意味で「ミクス」されていることを願っています。

お礼日時:2013/04/05 10:35

質問者様の最初の認識からして誤解があります。



源平交代説の意味は、武家の権力が源氏と平氏との間で交替しているように見えることから唱えられたものです。
まず武家として最初に政治の権力を握ったのは桓武平氏でした。
平安末期に、平清盛が政治の実権を握りました。「平家にあらずんば人にあらず」の言葉通りです。

その平氏に取って代わったのが、清和源氏の源頼朝ですが、源氏政権は三代で途絶えます。

その後の鎌倉幕府は、摂家将軍・皇族将軍を推戴して続くのですが、実権は執権・北条氏に移ります。
北条氏は桓武平氏の系統でした。

その北条氏を倒して、次に幕府を開いたのが清和源氏の足利氏です。
足利氏が応仁の乱を契機に弱体化し、戦国時代に突入すると、各大名の群雄割拠が始まり、次第に織田氏が優勢になってきます。

織田氏の出自ははっきりしないのですが、この頃には源平交代説があったようで、次は平氏の番だという訳で、織田信長は平氏を名乗ろうとしました。

そして豊臣氏を滅ぼして幕府を開いた徳川家康は、清和源氏の末裔だとして源氏を名乗ったのです。
しかし、これは清和源氏の新田氏に連なる系統に得川氏があり、そこに徳川家の系図をつなぎ合わせたものだという説が有力です。
家康が系図の詐称までして征夷大将軍の職を得ようとしたのは、下克上の機運の盛んな戦国乱世においても、出自・家格の尊卑が社会的に重い意味を持っていたことを示しています。

明治以降は、武家社会とは異なりますので、そもそも源平交代説とは何の関わりもない社会になったと考えるべきでしょう。
また、世の中のスタイルを、源氏・平氏で区別するものでもありません。

この回答への補足

ご丁寧な回答、ありがとうございました。大変稚拙な質問で、失礼をいたしました。

あまりアタマの整理がついていないまま、私の考えの続きを書いてしまいます、恥の上塗りは必至です…が(笑)お許しください。

私の疑問は、例えば系図の詐称をしてまで、何故、家康は関白ではなく征夷大将軍でなければならなかったのか? というような辺りです。その辺りに、国の体制を刷新する・された、ことを国全体に示すときに(だけ)使用される「前とは違うぞ」的な、何か日本の政治の不思議に定型なフローや力学?のようなものが存在する気がしたのです。

最近、政治家さん達が、今を維新前夜に準えるケースをよく見かけます。彼らが言う、近未来の維新後は、どんな素晴らしいものに成り得るのかを、この乏しい想像力や理解力で掴むために、改めて、明治維新の意思が、例えば外圧のようなパッシブな理由ではなく、あるいは、幕府の堕落を批判するだけではなく、さぞかし素晴らしい歴史観から導かれた前向きなコンセプトだっただろうことを掴みたいと思うのですが、しかし自分なりにさまざまな資料を読んでも、どうも、それだけでは何かが足りないようにも思え、このような質問をさせて頂くに至った次第です。

補足日時:2012/12/12 23:14
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなりました、申し訳ございません。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/05/06 17:33

NO.5です。

少し修正です。欧米の企業はうまくアジアを活用している例が多いようです。

アジア企業との競争と同時に活用の仕方で、先進性におぼれず、石田三成や平家のような負け組になるのでなくということが大事だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます、私の視点はご指摘の部分に重なる部分が大きいと思いました。

お礼日時:2012/12/12 23:15

源平交替説は俗説です。


平清盛→源頼朝→北条氏(平氏)→足利氏(源氏)と世を治めたため、そういった考え方が生まれたわけですが、信長も秀吉も平氏ではありません。
かりにそうした思想があったとしても、徳川で終わりです。明治以降は無関係。
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなりました、申し訳ございません。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/05/06 17:34

私の感想はむしろ逆。

武士社会の時代(江戸時代まで)の説はともかくとして。

明治からが平家的で今から源氏的とはよくわかりません。

というのは数年前から石田三成がブームでさらに今年視聴率が低いとはいえ、NHKのドラマは平清盛。

負け組に注目されてます。勝負に勝ちたいという感覚が感じられません。

もし、競争意識があるならもっとアジア経済、アジア企業を研究する本があって当然だと思います。

世界に占めるアジアの富の割合の上昇、これは市場が大きくなるので市場攻略に重要。
ハイテク、製造業などは日本のライバル。

欧米は確かに先進的なものは出します。確かに自動車は欧米と競争です。ブランドの立て方なども日本にないものです。

しかし、弱電があんなにやられて世界の工場といわれているアジアについて、経済雑誌で取り上げられるだけで重要さを認識されていない状態をみるだけでむしろ今は平家的になっているといえます。
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなりました、申し訳ございません。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/05/06 17:34

 やれやれ・・・平安時代以降、関白を輩出してきたのは藤原摂関家(近衛、鷹司、一条、二条、九条家)の中でも筆頭の近衛家です。

この場合「藤原」は姓(天皇より与えられる)、「近衛、鷹司、一条、二条、九条家」は苗字・・主に地名に由来します。

 というわけで明治維新まで関白は藤原摂関家が独占していました。「平家」ではありません。どうかしてますね。

 たぶん、「平氏と平家」の区分もおわかりではないのでしょう。質問が意味不明です。さっさと締め切ってください。くだらない。

 ああそうそう、日中戦争、太平洋戦争当時の近衛首相はとうぜんこの藤原氏のご子孫。さらに18年ほど前に自民党政権が終わりを告げて連立政権が誕生しましたが、そのときの首相細川護煕(日本新党代表)さんは前述の近衛文麿さんのお孫さんです。
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この回答へのお礼

おっしゃるとおり、「くだらない」質問だったと思います。
不快なお気持ちにさせてしまったとしたら、大変申し訳ございません。
No.8で頂いたご回答に、私のさらなる稚拙な考えではございますが、加筆させて頂きましたので、ご一読頂けましたら幸いです。
重ねまして、大変失礼をいたしました。

お礼日時:2012/12/12 23:19

武士の時代は終わってますけど? 笑



あ ついでに貴族の時代もね 笑
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなりました、申し訳ございません。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/05/06 17:34

これかな?


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%B9%B3% …

偶然と作為と思惑の結果であって、今がどうなのか?これからどうなるのか?そう言う観点で考えている人間は2人以上はいないと思われる
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなりました、申し訳ございません。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/05/06 17:35

明治以前の徳川時代は源氏だったの?


徳川は出所もはっきりしていないし藤原も名乗ってるので源氏だったなんてのは眉唾だよ。

何を言いたいのかさっぱりわからん
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなりました、申し訳ございません。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/05/06 17:35

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