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加藤清正は築城の名手と言われていますが これは元々の才能でしょうか?
それとも築城の天才と言われた豊臣秀吉の側にいる時に色々学んで得意になったものでしょうか?

熊本城は元々清正のものなのに加藤家改易のあと細川家が我が物顔で使っていた事に
加藤家家臣はご立腹だったとか☆

A 回答 (5件)

こんにちは。



熊本城は修学旅行で見学しましたが、
石垣(忍返し)は素晴らしい物でした。
城は直接大名が建てる訳ではありませんが、
命令はしたでしょうね。
築城について。
おそらく豊臣秀吉の側にいて学んだ事でしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2013/01/07 18:40

加藤清正は技術者を使うのが上手かっただけです。

それは持って生まれた才能かも知れません。それは築城に限ったことでもない。朝鮮出兵の際には、多くの陶工をスカウトして連れ帰っていますし、熊本県では治水事業や灌漑事業でも実績を挙げています。そういう技術者の価値を正当に評価して、彼らが腕を奮える場所を与えたのが清正公の優れたところだったのだと理解しています。

清正公の対極の存在が東京電力の清水正孝元社長だった。こいつは技術者を使いこなせない悪い見本です。

加藤清正は優秀な経営者だったと評価すべきだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2013/01/07 18:40

築城の名手というのは、縄張りのアイディアがいいってことでしょうね。


あと清正は朝鮮出兵で苦労したので、その時に朝鮮の城の石垣に返しがある事を知って、返しを熊本城の石垣に入れています。さらに籠城戦で兵糧が無く苦労したため、城の材料に随所に食べられる物を埋め込んだとのことです。

おそらく朝鮮出兵で多くを学んだのでしょう。
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この回答へのお礼

確かに朝鮮式な部分もありますね

お礼日時:2013/01/07 18:40

家康の命じた名古屋城の天下普請の築城で、清正も


諸大名とともに参加を命じられましたが石垣の巨石を運ぶ
際に、石の上に乗り音頭を取りながら指図したとのことで、
築城に関心が強かったことは確かです。

秀吉の大坂城の築城時の資料は残っていないようですが
清正はそのような時に勉強し、また穴太衆などの技術者
集団と知己を得たのでしょう。
このような技術者を大事にして役立たせました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2013/01/07 18:39

加藤清正が築城の名手かどうかは不明。



具体的に縄張りしたのは、熊本城程度。
他は、部分施工でしかない。

西南戦争の段階で、西郷さんでも落とせなかった清正の城なんてのがあったかと思いますが

薩軍約14,000人に対して、鎮台軍約4,000人で、攻め落とせず
なのですから、普通の城としか言いようがない。
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この回答へのお礼

まぁ 熊本城が名城なのは言うまでもないですね
細川家が大幅に改築したせいで清正時代より弱くなりましたけどね

お礼日時:2013/01/07 18:39

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