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江戸時代、身分制度がありました。
町民が脇差を指すことは、公に許されていたのですか?お上からのお咎めはなかったのですか?

A 回答 (7件)

徳川四代将軍家綱の寛文八年に町人どもは刀を


差してはならぬという法令が出され、江戸幕府が出来て
約60年間、それまで脇差一本を差すことを許されていた
町人はそれを出来なくなりました。
(ドラマではこれを考慮した考証が必要ですが)

ただし例外は認められています。
先答にある道中差しという旅行者(遊び、商売、荷物、
飛脚など)は途中の危難から身を守るため許されています。
「東海道中膝栗毛」の弥次さん、喜多さんは脇差を差しての
道中です。
例外はこのほかにもいろいろあります。

もともとこの禁令は市中の治安は充分保たれるようになり、
お前たちは日中安全に暮らせるようになったと幕府の威厳
を示す意味もありました。

有力町民(町役人、庄屋、大店など)には名字帯刀を許される
者もいました。    これは二本差しです。

浮世絵に大店のドラ息子が脇差を差して、自慢しています。
一方大店の主人が脇差しを差している絵はないようです。
主人は風体だけでお大尽とすぐわかるので不要でした。

以上は町方と呼ばれる地域の話で、地方(じかた)とよばれる
郊外、農村地帯では違うこともあります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

体制を確立しようとする際や、治安を強化しようとする際に、刀狩りや帯刀禁止がなされるのですね。
<二本差し>
は武士にのみ認められていたものと思っていましたが、
<有力町民(町役人、庄屋、大店など)>
にも許されていたのですね。

お礼日時:2013/01/16 10:39

少し補足しますと


織田信長の天下統一以前は 全て武装していました(西部劇と同じで自分の身は自分で守るため)
天下統一されて、治安が維持されるようになってくると、権力体制以外の武装は、権力側にとって危険な存在以外の何者でも亡くなりました
それで刀狩と言う武装解除が武力をもって断行されたのです
その後も武士元武士は武装していました、これは5代将軍綱吉の頃まで続きます
三代将軍の頃までは幕府も武装体制でしたが社会の安定化とともに武装体制が邪魔になってきました(旗本奴などと言う武士階級のあぶれ者がヤクザ化してのさばるような)

それで5代将軍綱吉は、そのパラダイム変換を実現するためのショック療法として「生類憐みの令」を発布しました (武士は帯刀しても良いが抜刀すれば 切腹遠島死罪等にする)
その効果で(弊害も多々あったようですが)ほぼ完璧に武装解除され、権威権力の象徴の意味だけでの帯刀となりました
浅野内匠頭の城中抜刀は、この政策への真っ向からの挑戦でしたから(当人はそのような認識は無かったことでしょうが)怒った綱吉は即刻切腹を命じたのです

このような経緯を踏まえ 非武装でも安全な国になったのです

質問のことは それから後のことです
でも それが理解できない人が、多数居ます  黒沢明という方は 江戸時代以前の農村が非武装だと思い込んでいて、七人の侍 などという映画を作りました それが世界的に大ヒットしたものですから その誤解が蔓延し根付いてしまいました

以上蛇足
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。

武装や帯刀などに関して、経緯を説明して頂きました。なるほど、このような経緯をもとに、質問の町人の脇差まで、歴史が連なっているのですね。
ダイナミックな社会の変遷がよく解かり、より興味が増しました。
ありがとうございました。

お礼日時:2013/01/17 22:26

まぁ武士の辻斬り(今で言う通り魔)が合法的に認められてた時代ですからね


町人も用心のために脇差の帯刀は認められていました
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

アメリカでは、憲法の上でも、銃の所有が認められているそうですね。それによく似て、身分制度が守られている江戸社会でも、帯刀が許されていたのですね。

お礼日時:2013/01/15 16:46

>町民が脇差を指すことは、公に許されていたのですか?



許されていたのです。
但し、他に回答がある様に「旅路の護身用」としてです。
TV水戸黄門でも、助さん・格さんが脇差を差していますよね。
平時は、ちりめん問屋の隠居と連れの町人姿です。
いくらTV番組でも、ここでは時代考証を行なっていますね。

>お上からのお咎めはなかったのですか?

旅でもないのに脇差を持っていれば、「御用」です。
但し、町人・百姓でも「脇差許可」の場合もあります。
町年寄・町役人(町名主)とか名主(庄屋)も、代々苗字帯刀が許されています。
「孝行息子じゃ」という事で、一代限りで脇差を許される場合もありました。
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この回答へのお礼

早急な回答ありがとうございました。

なるほど、助さん・格さんで、わかりました。
苗字帯刀も関連するのですね。

お礼日時:2013/01/15 13:05

江戸時代、街道でもオオカミが出ることがありましたので


旅人は護身用に脇差を差すことは認められていました。
脇差と言っても侠客は長脇差(長ドス)と言い太刀とほとんど
変わらないものを身につけてました。
しかし旅人の姿をしていなければ罰せられたようです。
また町民であっても届け出をして認められたなら脇差を
指すことは許されたようです。
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この回答へのお礼

早急な回答ありがとうございました。

旅人の護身用は認められていて、侠客もそれに便上していた、ということですね。

お礼日時:2013/01/15 12:59

旅をする場合には、道中差として認められていました(護身用として)



それが股旅物の道中差です
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この回答へのお礼

早急な回答ありがとうございました。

道中差は認められていたのですね。
それを、股旅物の侠客が使っていたのですね。

お礼日時:2013/01/15 08:32

苗字帯刀を許された商人は一部にはいました。



それ以外は公には無理です。
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この回答へのお礼

早急な回答ありがとうございました。

苗字帯刀を一部は認められていたのですね。
苗字と帯刀とが結びついていたこともあるのですね。

お礼日時:2013/01/15 08:27

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