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・江戸時代、幕府や藩は給料をどうやって払っていたのでしょうか?現金で払う事はあったのでしょうか?

・それとも、土地を与えてそこで税収を任せるという形だったのでしょうか?

・郷士という立場の人は、藩から給料をもらっていたのでしょうか?

・藩に仕えている人と、幕府に直接仕えている人では違いがあるのでしょうか?

A 回答 (5件)

将軍・大名の所領は大きく二つに分かれます。

主に上級家臣を中心として俸禄として給付した知地と呼ばれる土地と、蔵入地(くらいりち)と呼ぶ直轄地です。蔵入地は代官などにより年貢・諸役等を徴収されます。年貢などは主に米で徴収され(時代が進むにしたがって金納も増えますし、支出のために換金もされます)、基本的には蔵に入れられるためにその収入を蔵入、その米を蔵米と呼びます。その収入の内の多くは知行所を持たない家臣へ米や金を給与として与えることでした。その残りを藩主と家族の生活費、現代でいう行政経費などに充てられていました。そのため、将軍や大名の収入の過半は給与となっています(知行所からの本来得られる収入を換算します)。大まかな傾向としては戦国大名に出自を持つ大名(主に外様大名)は、給与の比率が高く、譜代大名はその比率がいくぶん低くなっています。

>江戸時代、幕府や藩は給料をどうやって払っていたのでしょうか?現金で払う事はあったのでしょうか?
>それとも、土地を与えてそこで税収を任せるという形だったのでしょうか?
給与について簡単に言うと、土地、米、金によって払っていました。詳しく言うと次のようになります。
大きく分けて知行所と呼ばれる土地を与えられる「知行取」と、蔵米から支給される「蔵米取」に二分されます。
知行取
(1)地方知行(じかたちぎょう)=実際に土地(給地・知行地)をもらって自身で年貢・諸役を徴収する形式です。一所懸命といわれる武士本来の給与のあり方で、知行している武士を地頭と呼ぶこともあり、上級家臣に多く、徴税権だけでなく、知行所内の司法権・行政権も持っていました(幕府・藩の規制や制限はありますが、その範囲内で)。1000石の知行といった場合、1000石の米がとれる土地を知行地として与えられていることであって、1000石そのままが武士の収入になるわけではありません。五公五民の場合、1000石×0.5=500石が収入になります。しかし、年貢を自身で取り立てる手間があるとはいえ、年貢率はある程度自由になりますし、年貢以外に夫役などの諸役を課すことができるなどの余禄もありました。
蔵米取=蔵米知行=浮米知行とも言います。
(2)切米取り=100俵などのように「俵」を単位として与えられていた。幕府では春・夏・冬に分けて支給されました。また、幕府・藩により違いはありましたが、米だけではなく、一部を米を米価により金銭に換算して現金の形で渡すこともありました。
(3)現米取り=100石などのように「石」を単位として与えられていた。その他は切米取りと同じですが、現米取り=切米取りとする考え方もあります。
(4)扶持米=一人あたりの食料を目安に、一人扶持一日5合の米を支給する方式。扶持米だけで支給されることは少なく、五十俵三人扶持などのように切米と、三両一人扶持などのように給金と併給されることが多くありました。また、役高としての扶持米支給もありました。
(5)切銭(給金)=最下級の武士・奉公人に多く、○両など金銭で支払われる形式です。

*武士を卑しんで「サンピン」ということが有りますが、これは「三両一人扶持」の約とも、「三両一分(分は一両の1/4)」の約(ピンは一のこと)とも言われます。私は一人扶持で覚えました。
*大名領の多くでは、藩政改革・財政再建の過程で地方知行から蔵米知行に移行させる政策をとり、江戸時代の後半では多くの大名領内で地方知行はなくなる、もしくは大幅に減少したとされています。その過程で、蔵米知行への移行に抵抗してお家騒動に発展する場合もありました。特に地方知行を受けていた武士は上級武士が多く、藩政にも影響力を持っていたこと。地方知行は武士本来の俸禄形式であり、同じ石高・収入であっても知行地を持っている武士の方が格が高いと考えられていたことなど、武士のプライドもあったことなどからお家騒動にまで発展するなどの抵抗がありました。

>郷士という立場の人は、藩から給料をもらっていたのでしょうか?
郷士は藩により形態・扱いなどに差があり、一概に言えませんが、わかる範囲で。
江戸時代の武士は基本的には農村に住まず、城下町に集住するのが原則でした。しかし、郷士は在郷した武士身分でした。それも各藩の職員録である分限帳にも記載されるなど、多くは下士でしたが正規の武士身分として認められていました。
郷士は戦国時代の農村の有力農民であり武士身分をも獲得していた土侍や土豪・豪族と呼ばれる階層に出自を持つ者が多く、戦国期から幕藩体制への移行の過程で、そのまま在郷の武士身分を認められた者(所属する大名が戦国期から引き続き領国を維持した島津氏などに多い)。所属していた大名の廃絶、移封などにより帰農するも、その後入封した大名により在郷の武士(家臣)として取込んだ者が多く見られます。以上のような経緯で、このような郷士は自ら所有地・農地を所有している例が多く見られます。そのため、郷士への給与もその農地を軸として与えられることが多くありました。
(1)所有地をそのままもしくは一部を知行として与える。
(2)知行としては認めないが、年貢を免除もしくは減ずる。
(3)知行としても認めず、年貢の減免も行わない。
(4)藩より些少の知行や蔵米・給金などの給付を与える。
以上の(1)~(4)を合わせた給付形式もおおいようですが、最初にも書きましたように、藩により形態・扱いなどに差があります。

>藩に仕えている人と、幕府に直接仕えている人では違いがあるのでしょうか?
給付の形態では幕府、藩では名称の違いなどを除けば基本的に違いはありません。役職なども同じような名称や役割を持つものが多く見られます。しかし、将軍を中心に身分を考えると大名も旗本・御家人も将軍の家臣としては同じでした。ですから、大名(旗本・御家人も)の家臣は、陪臣=又者(またもの)と言われて一段低い扱いをされました。そのため、小禄でも旗本・御家人は将軍の直臣であることを誇る風潮がありました。
郷士については幕府には八王子千人同心という存在があり、従来武士身分を持つ郷士とされてきましたが、近年武士身分は持っていなかったのではないかといわれています。

少し長くなりましたが、参考まで。
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幕府に直接仕える武士のうち石高が高い (原則 1万石以上) のが大名, それ未満 (9999石以下) のものが旗本や御家人です. で, 「藩に仕える」というのは結局「大名の家臣」なわけで, 幕府から見ると「幕府に仕える武士に仕える」ということだから, 立場的には幕府に直接仕える武士の方が「偉い」ということになります.



現実的には「大名」といっても最低線の 1万石から加賀前田家の 100万石越え (金沢のみで 102.5万石, 前田家全体ではおよそ 120万石) まで様々です. また, 御三家の附家老は 1万石を越えていても (幕府に直接仕えたわけじゃないので) 「大名」とは呼びません (が藩としてカウントすることは可能).

あとついでですが石高なんかを考えるのは「武家としての立場」であって, 「朝廷における立場」とは直接関係なかったりします.
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この回答へのお礼

なるほど。ありがとうございます。

お礼日時:2012/10/13 00:20

幕府の基本収入が米ですので、給料ももちろん米になります。



江戸時代は、米による物々交換から貨幣へと変わる転換期であったため
江戸初期であれば、家の前まで来た野菜売りから野菜を買って、
米を升で量って交換するというような形でしたが、後期になると
給料として米をもらったら、まず商人に米を売りお金に換えてから
物を買うという形に変わってきます。

土地を与えて税収を任せるというのは、大名・小名などですね。
土地からの米収入を藩に仕える武士に給料として渡すという形です。

郷士は半農半士ですので、基本収入は自分の土地収入や、店の売り上げですね。
郷士は、郷士株を持っている農民や商人で、士分としての特権(苗字、帯刀など)が
許され、藩の士分名簿にも記載される存在です。
郷士株はお金でやり取りされていたので、郷士になれたという事は基本金持ちという事になります。

幕府を会社とすると、巨大な一族経営の会社があり、功績のあった一族外の人が子会社を
経営することを許されているという感じだと思います。
ですので、本社(幕府)に勤めているのと、子会社(藩)に勤めているのでは
心情的にも給料的にも差があったと思います。

この回答への補足

失礼しました。
郷士は藩から給料をもらっている場合と、そうじゃない場合両方あるんですね。

補足日時:2012/10/10 14:53
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この回答へのお礼

後期になっても給料は現物支給だったんですね。
郷士には藩は給料を払っている訳ではないのですね。
ありがとうございます。

お礼日時:2012/10/10 14:08

江戸時代の武士は米を単位に支給され、それを現金に換えていましたが



知行取り:土地の支配権を与え、そこから年貢を取り立てて生活する
蔵米取り:土地を与えられず、玄米が直接支給
これ以外に現金支給もありました。

格としては当然ながら知行取りの武士の方が上で、200石の武士と200俵の武士では取り分は同じでも前者の方が格上の上に、知行所から安く人を雇うことができたり、経済的にも多少は有利だったようです。

武士の収入は家禄といって、今で言う基本給のようなものがあり、先祖の功績で代々決まった石高を支給されます。
何かの役に就くと、職ごとに不足分が支給され、当初はそのまま役を退いても貰えましたが、そのうち役に就いている間だけの加算手当となりました、足高と言います。
もっとも長年勤めて功績があると、この加算手当を家禄に組み入れる慣習もあったようです、また役に就けないと小普請金といって、家禄に応じ払わないといけない制度があり、職のない武士は生活が苦しかったようです。

幕府に仕える武士を直参、藩に仕える人を陪臣といい、直参の方が格上で大名の家臣で数千石の家老も200石程度の旗本に出会うと頭を下げると言うことになります。
直参もお目見えといって、将軍に会える武士を旗本、会えない武士を御家人とし、実際問題旗本でも下位の物は大広間や廊下の隅で将軍の顔を見る程度で、形式的に対面したという事になります。

郷士はいろいろな事例があり、大名が取りつぶされ新しい大名が入ったときに旧家臣を郷士とした例が多く、武士としての身分を認め、一定の土地を与えるが家臣とはしなかったり、いろいろです。
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この回答へのお礼

なるほど~。
土地を任されている人と任されていない人、二つのケースがあるんですね。しかも同じ給料でもそのどちらかのケースがあるというのは驚きでした。てっきり大収入なら土地有りかと思っていたので。
しかし、現金支給のケースがあるなら、なぜ全て現金で支給しなかったのかなというのが疑問としてあります。

藩に仕えている収入が上の人より、幕府に仕えている収入が下の人の方が偉いというのもおもしろいですね。

お礼日時:2012/10/10 14:19

米です

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この回答へのお礼

米を給料って、小さい屋敷の人だったらなかなか大変そうですね。
毎月くらいの支給ペースなのかな?

お礼日時:2012/10/10 14:02

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