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哲学のテーマの1つに認識論なるものがあります。

いま目の前に見えるコップは果たして存在するのかとか、

いま自分が食べているこの御飯は果たして存在するものなのかとか、

いま自分が話をしている目の前の女は果たして存在するのかとか、

いま生きているように感じる自分は果たして生きているのか、死んでいるのかとか、

自分は存在しているのか、存在していないのかとか、

哲学と称してこのようなことを問いかける者が度々見受けられます。

果たしてこのような問いかけが哲学なのかどうか、

認識論と称してこのような問いかけを行うのであれば、

認識論とは唯一つの命題「宇宙は存在するか」を問うているに等しいのではあるまいか。

随分と前から問われているようであるが果たして認識論は哲学なのか、これが何がしかの意味をもつのか、またこれについて何か結論は生まれたのか、何らの結論も得られず果てしなく続くことになるのか。

どうであろうか。
 

 

A 回答 (4件)

>何らの結論も得られず果てしなく続くことになるのか。



 もう続かないでしょう。結論は得られないという結論。あるいは存在確率となるか。
 
 私の認識によればですが。
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「物体が先にあり、その進化の結果としての脳に心が発生した」


と考えるか、「そうした物体とは、心の中の宇宙の部分だ」と考え
るかの違いです。
先の唯物論的な考えの基盤である物理的な探求の果てに、
「存在=有限な確率的実体とは、認識(本質を確定しない、階層
現象表面的な経験的定性化)によって生じる」という、唯心論と
融合する事になったのです。

先入するのは、「外(空間的広がり=予測=未来)」でも「内(時間的
流れ=経験=過去)」でもなく、その相互作用(認識可能性=感受
表面=現在)からの仮想的(=階層現象表面的)対発生であり、
宇宙とは自己が存在するための(原理的根源にまで遡った)
必要として生じるのです。
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存在論と認識論とが混在していますね。


いや、だからこそ、そういった疑問が生じるのだろうと思います。

存在と認識との知的な分離。。。

両者を切り離して考えようとするとき、どちらが先かなどと考えるときに、哲学的な存在論、認識論の問題が発生してしまう。。。

あえて存在論と認識論とが関るとするなら、宇宙の存在というよりも、量子力学での現象(二重スリット実験)になるでしょうね。

http://www.hitachi.co.jp/rd/portal/research/em/d …

量子力学を理解しようとするときには、どうしても認識論・存在論を意識せざるを得ないでしょうから、狭義の哲学という領域にとどまらず、人類永遠の謎(広義の哲学「=知を愛する」)と理解したほうがいいかもしれません。
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これは、有名な、我思う故に我有り、ですね。



全てはバーチャルかも知れない。
それを証明するすべは無い。
しかし、そう考えている己の存在だけは確か
だろう、てことです。

だから、宇宙は存在するか、というのではなく
己が存在するのか、ということが根本では
無いですか。

”何がしかの意味をもつのか、またこれについて何か結論は生まれたのか、
 何らの結論も得られず果てしなく続くことになるのか。”
    ↑
そう考える己の存在は確かである、という結論が
得られたのではないですか。
もっとも、私はそう考える思考の存在が確かなだけで
その主体の存在まで確かと言えるかは疑問に思っていますが。
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この回答へのお礼

 
>そう考える己の存在は確かである、という結論が
得られたのではないですか。

自己の存在が確かなものである事が分かれば、宇宙の存在は確かであると結論することが出来ましょう。

何故なら、宇宙の存在無くして自己は存在できないからである。

デカルトは「我思う故に我有り」により宇宙は存在すると宣言したのです。
 

お礼日時:2013/02/23 09:21

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