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Wikipedia「ウシ」歴史の項には、
「紀元前400年ごろの弥生時代の遺跡からウシの骨が出土しており、これが2012年現在日本で発見されたもっとも古いウシの出土である。日本のウシは、中国大陸から持ち込まれたと考えられている。」と記述されています。

どんなウシか、どこの遺跡か、知りたいのですが、検索しても見つかりません。
ご存知の方教えて下さい。

また、“中国大陸から持ち込まれた”と言うよりは、古代の大多数の牛は、朝鮮半島から持ち込まれたのではないでしょうか。
“中国大陸から”と聞けば、中国から海を越えて直接日本へ来た感じがします。
よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

「牛の博物館」でこんなふうに説明しています。


http://www.isop.ne.jp/atrui/ushi/02_tenzi/tenii1 …
なお、家畜としての牛でなければ、もっと以前にウシに属する動物かいたようです。
http://www.isop.ne.jp/atrui/ushi/02_tenzi/tenii1 …

このような説明もされています。
http://liaj.lin.gr.jp/japanese/liajnews/liaj1090 …
原牛が家畜牛の祖先種ではあるが、わが国で飼われてきた在来和牛は、日本にいた原牛から家畜化されたという証拠はない。家畜牛の起源は、西アジア地域に生息していた原牛が9、000年前頃に馴化され、それが家畜の牛となって、数千年の時を経て文化の伝播と共に日本へやって来た。これが日本の家畜牛の始まりとなったのである。
わが国で最も占いとされる家畜牛の証拠を示すのは、東京都港区で兄つかった弥生時代中期の伊皿子遺跡の牛骨出土例があるが、家畜牛が本格的に持ち込まれたのは古墳時代以降とされている。岩于・のオーロックスは直接わが国の在来牛と関係はないが、いずれにしてもハナイズミモリウシと共に、旧石器人の狩猟の対象とされ、また生息地の環境の変化などが原囚で絶滅したと考えられる。
 
「原ノ辻遺跡より日本最古の牛骨が出土し」のような説明や、「日本最古の牛遺跡、 大浜、日本古代牛骨碑」も、あちらこちらにありますが、観光目的や孫引きで出所不明の諸説であてにはならないようです。(発見した!と思って報告したり、それを信じた人がいたのは間違いはないのでしょうが)

http://kaken.nii.ac.jp/d/p/01490018/1990/6/ja.ja …
研究概要
わが国の牛,馬の渡来時期とその経路を明らかにするために、遺跡から出土した牛,馬に関わる遺物を全国的に調査し、さらに牛,馬の出土骨、歯を肉眼的、計測学的に検索し、在来牛や在来馬のものと比較を行い、以下の結果を得た。
1.牛,馬の骨や歯の出土調査は、各都道府県からの報告や文献ならびに現地調査によって行ったが、牛の出土は、全国で213カ所でみられ九州、関東が多く、馬は475カ所からの出土で、やはり関東が多い。また、時代別では、馬と共に中世が最も多く、ついで平安、古墳、奈良の順である。弥生以前のものも報告されているが、現在のところ東京都伊血子貝塚(弥生中期)の牛頭蓋骨が最も古く、確実な出土例である。
2.出土骨の形態は、牛では在来牛である見島牛を口之島牛のものに似ており、また、馬では御崎馬やトカラ馬に類似し、推定体高は128cm前後で、中型馬に属するものが多いが、小型馬も含まれている。
3.馬具の出土状況は、古墳時代を中心に調査したが、全国で1265カ所の遺跡から出土しており、地域別では九州の368カ所が最も多く、ついで関東、近畿、中国の順である。また、馬具は時期的には4~5世期初頭に古墳の副葬品として出現し、5世紀代に分布が広がり、7世紀には古墳の減少と共に、その出土数も激減する。
4.埴輪馬の出土は、全国で297カ所にみられるが、関東が圧倒的に多く、170カ所を占め、ついで近畿、九州であり、5世紀末頃から出現し、造形的に最も充実したのは6世紀である。祭祀に用いられたとみられる土馬は、奈良、平安時代に最も多く、全国589カ所のうち、328カ所が近畿地方で、特に平城京、平安京など古都に多い。
以上の調査研究から、わが国の牛、馬は、弥生以降に朝鮮半島を経由して渡来し、当時の人々に飼養させていたことが示唆された。
 
原の辻遺跡の報告にもそれらしいものはないです。
http://inoues.net/harunotuji/harunotuji.html
http://inoues.net/harunotuji/harunotuji2.html
http://inoues.net/harunotuji/harunotuji3.html
(上の一連のサイトは、とても詳しくて、自分で現地に行けない場合にとても参考になります)
http://www.iki-haku.jp/exhibit/index.html
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この回答へのお礼

態々調べて下さってありがとうございます。
私の質問の一つ、wikipedia記載の“ウシ”は、根拠が社団法人中央酪農会議だけのようです。
弥生早期の“ウシ”は、幻の感じです。
論文「古代遺跡出土骨からみたわが国の牛,馬の渡来時期とその経路に関する研究」は、参考になりましたが、1990年の発表ですから、その後の研究はどうなのでしょうか。

もう一つの疑問「日本の牛はどこからやってきたのか」は、朝鮮半島経由で入ってきたというのが定説のようです。
よく解りました。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/03/18 10:32

弥生時代の遺跡というと、稲作農耕の伝来を示しているものでは


ないでしょうか?
日本への大陸からの文化伝来ルートは2つあり、1つは朝鮮半島から
日本海を渡る偏西風に乗り、出雲や北陸へ遊牧系文化を伝えたルート、
もう1つは、稲作の盛んだった中国江南地方から偏西風に乗って
東シナ海から九州北部に稲作農耕文化を伝えたルートです。
前者の地域は(朝鮮半島からモンゴルも)血液型B型の濃度が高く、
後者の九州北部から瀬戸内海、奈良・京都にかけての大和朝廷の
地域(中国・江南地方から雲南も)は、A型がマジョリティになっています。

実は、大和朝廷が出雲(イズモ)を攻め、その足で北上して兄弟の
安曇を討伐した、という古事記にある記述は、日本に伝わった、
半島系と大陸系の2つの系統の軋轢と、その結果、中国・江南地方
からの稲作農耕文化が支配する過程を表している、とされます。

基本的に日本へ渡るのには偏西風に乗るので、朝鮮半島からは
山陰・北陸の裏日本に至り、大和朝廷発祥の地・邪馬台国は
(諸説ある北九州であれ奈良であれ)中国・江南地方からの
東シナ海越えになるのです。
これについては、中国の伝説にも(史記にもある)「秦の始皇帝の
命令で、不老不死の秘薬を求めて美男美女三千人を連れて太平洋
に乗り出した徐福」として伝わり(中国江蘇省の古名に徐福村もある)、
一方で日本各地に徐福が到来したとの「徐福伝説」があり、大陸
からの渡来人の影響力の大きさを示しています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
大陸から日本への文化の伝達ルートについてはよく分かりました。
弥生時代早期に農耕技術と共にウシが日本へ来たのでしょうか。
それが知りたいのですが…。

お礼日時:2013/03/21 21:14

 こんばんは、夜分に失礼します。


少し調べてみた結果です。『1981 日本電信電話公社 港区伊皿子貝塚遺跡調査会 『伊皿子貝塚遺跡』報告書』に依りますと、
「第10章 貝塚の形成と動物遺存体 2 動物遺存体の概要 (3) 甲殻類・両生類・爬虫類・哺乳類遺存体」
「第11章 貝塚以外から出土した動物遺存体 
2 第2号方形周溝墓西溝出土の家牛(Bos taurus)頭骨(一部)
3 第1号住居跡出土のウマ(Equus caballus caballus)
4 攪乱中出土の動物遺存体」の項目が見られます。
 この伊皿子貝塚は縄文後期から弥生・古墳時代以後に至る複合遺跡として知られていて、弥生中期の方型周溝墓の一角に埋められた牛骨がお探しの事例かと存じます。
 実際、畿内でウシが出土するのは6世紀になってからのことであり、しかもその量はウマに比べると僅かで、8世紀後平城京右京八条二坊の例では、同定できた破片数にして、ウマが130点余りに対しウシは10点余りです。
 しかし難波宮の造営などではウシが多用されたようで、造営に伴う整地層にはウシが83点、ウマが31点の数で認められます。
 なお網野善彦氏などの指摘に沿いますと、中近世以後「西日本でのウシ」「東日本でのウマ」が家畜としての主要な位置をしめてくることも現在ではほぼ定説となっています。
 家畜と農耕牧畜の関係は従来の研究に依るところでは、先史時代にユーラシア大陸の何れかの地域でイヌ・ウマ・ウシ・ネコなどといった動物が家畜化され、繁殖されたものが移入されたと考えられています。
 農耕牧畜は西アジアで始まり、西のヨーロッパ、東のインド、中国へと広がったとされていましたが、近年の中国長江の中下流域の発掘成果では、稲作農耕が既に一万年以上前に独立して始まっていたことも確認され、そこにイヌやブタの様な家畜が伴っていた可能性もあります。
 >中国大陸からと聞けば、中国から海を越えて直接日本へ来た感じがします
ご指摘のとおりで、実際には朝鮮半島経由で日本にもたらされたと考えるのが自然です。朝鮮半島(高句麗)の古墳壁画にも「牛車」があります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
伊皿子貝塚遺跡からの出土例が最古なのですね。
そして、それは弥生中期であり、wiki記載の“紀元前400年前の牛”は信用できない、と確信しました。
回答して下さった皆様方のお陰です。

ところで、「朝鮮半島(高句麗)の古墳壁画にも牛車があります」とのこと、とても気になるので調べました。
素晴らしい壁画に感動です。
大変参考になりました。

お礼日時:2013/03/21 20:47

●“縄文の牛”ではない可能性もあります。


○そうですね。その記述では洞窟の中から「縄文早期の土器」と「牛の骨」が発見されたことが分かるだけで「牛の骨」の年代は不明です。
 以前、縄文の貝塚から馬の骨が発見され「縄文馬」とされましたが、馬の骨の理化学年代を測定したら後世の物でした。つまり中世や近世に縄文時代の貝塚に馬を葬っただけだったのです。
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この回答へのお礼

”縄文の牛”ではないことがよく解りました。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/03/19 20:11

●紀元前400年ごろ(弥生前期)の事例は、見つけることはできませんでした。


○そうですね。質問文のこの部分を見落としていました。
 当該ウィキペデイアの根拠をみると社団法人中央酪農会議のウェブサイトに記述がありますが「紀元前400年の弥生時代の遺跡」としか書かれていません。
 現在弥生時代の年代観については揺れており、かつての年代観であれば「紀元前400年」は「弥生時代早期」になりますが、いわゆる歴博年代だと前期末期~中期前半です。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F% …
この辺の混乱があるのではないかと思われます。


●縄文早期の出土例はありました。
○縄文時代早期だと10000万年近く前になってしまいます。
 ネット情報はあてになりませんね(^-^;)
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
ネット情報はwikipediaも含めて慎重に読んでいます。
縄文時代の牛について私が見つけた例を後日のために残しておきます。

アジア水中考古学研究所 
九州・沖縄水中考古学協会会報 第2巻・第2号 1992年1月31日発行
http://www.ariua.org/information/newsletter1/vol …

この会報の中ごろの「水中考古学体験記」の中に“縄文の牛”が出てきます。
しかし、よく読んでみますと「水中貝塚調査で縄文早期と推定された洞窟から牛の骨が発見された」と書かれており、“縄文の牛”ではない可能性もあります。
この記事は21年も前の情報ですから、その後どうなったか、またまた気になります。
回答下さったおかげでいろいろ知ることができました。
感謝します。

お礼日時:2013/03/17 10:04

●どこの遺跡か、知りたいのですが、検索しても見つかりません。


○「日本最古+牛+骨」ですぐに出てきましたが・・・・
http://www.google.co.jp/#hl=ja&output=search&scl …

●“中国大陸から持ち込まれた”と言うよりは、古代の大多数の牛は、朝鮮半島から持ち込まれたのではないでしょうか。
○正しいかどうかわかりませんが、こんなブログがありました。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/45161306. …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
お手数をおかけしました。
確かに「日本最古+牛+骨」でいろいろヒットしましたが、紀元前400年ごろ(弥生前期)の事例は、見つけることはできませんでした。
弥生中・後期の遺跡(五島列島、壱岐)からの出土例や縄文早期の出土例はありました。

お礼日時:2013/03/16 20:44

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