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イラクはなぜ、負けるのを承知でクエートに侵攻したのですか?

1.アメリカの謀略にひっかかった・・・

2、フセインが馬鹿だった・・・

3.その他の理由・・・・・・・・・・・

A 回答 (11件中1~10件)

《 統治形態の変遷小史_


  人類が誕生して以来、一体どのように人間は統治されてきたのであろうか。
今でははっきり言えるが、まず最初は、最も強い者たちが、自分たちの掟を他の者たちに物理的に押しつけたのである。
 強者はその力によって、富や財産を蓄積していった。強者の子供たちは、その富を相続し、こうして強者の統治は有産者の統治へと移っていった。
 有産者は統治し、彼らの従者の中で最も知恵のある者たちによる緒発見によって、次第に知識を獲得していった。
 次に有産者たちは、専門知識人による統治を実現するため、かれらの知識を民衆のすべてには与えないように気を配った。
 こうした専門知識人たちは、世襲の優越性を一般民衆に信じさせて、民衆を搾取し抑圧し虐待したのである。
 やがて民衆は、こうした専門知識人たちを打倒し、自分らを統治する他の専門知識人たちを民主的に選び出すにいたった。
「権力の座についた知識人」であった。
 しかし、知識は知性ではない。だから、事はうまく運ばない。なぜなら、知識というものは、どんなコンピューターでも行うことのできる記憶作用にすぎず、それによって問題の解決策を発見することはできないからである。
 そこで「統治する知識人」は、その権力を保持するために、天才たちの発明を利用し、善意の発明家たちが考え出したものを殺人目的に利用した。
 ついで「統治する知識人」は、管理の技術を教える高等専門学校を創設した。つまり、「高級官僚」の養成である。これらの高級官僚は、他者の発明を、自分たちの利益のために利用して統治することを学んだ。
 権力を持つ天才が、権力を持つ知識人にとって代わらなければならない。

 地域代表者から成る世界天才政治へ向けて_
  人類の将来を検討するにふさわしい唯一の方法は、問題を世界的スケールで考察することである。
 人類はその領域を、部族、村落、地方そして国家へと、次第に拡げてきた。
地域の汚染や核兵器の増大という問題に直面して、知性的な人たちは、これらの諸問題を解決するには「世界政府」を樹立するしかない、ということをいち早く自覚したのである。
 この構想は、現職の政治家たちからは非現実的だとけなされる。なぜなら、かれらはそれが実現すると、自分たちがその地位を失うことを知っているからだ。過分の報酬を受けている軍人たちにとっても、事は同じである。かれらも失業するのを恐れているからだ。かれらは、国境が無くなってしまうとき、少なくとも現在理解されているような意味での軍隊は、もはや必要ではなくなってしまうことを、百も承知しているのだ。ところが、かれらを武器を持たずに雇うには、余りにかけはなれた状態にあるので、そのことが奇襲隊の攻撃におびえている者たちを悩ませるのである。
 他の者よりも先を見通す天才たちの、こうした現実的な構想を、非現実的だとみなすのはいつも凡人たちである。
 非現実的な構想というものは存在しない。存在するのはただ、構想を実現する能力の無い者だけである。
 したがって、この「天才政治に基づく世界政府」は、地球上のあらゆる地域を代表する、天才たちによって構成されることになるだろう。これらの地域は、民主的にその境界が定められる必要がある。現実の諸国家はおおよそ、自分の富の増大を望む有産階級によって仕向けられた、殺りく戦の結果である。これは、植民地主義時代のことだ。フランスとスペインの国境の両側に住むバスク人たちは、単一「国家」の樹立を望むかもしれない。これは、かれらの問題であり、またかれらだけの問題である。自分たちが一緒に住むか、それとも他の国に併合されるかを選択するのは、かれら自身である。バスク人は、地球上のあらゆる所にいる。独立した組織を持つことを望むある地域の住民は、人類全体の一部を成しているのだ。各々の地域の住民が、自分たちの政治組織を自分で決めることである。フランス国内の実例のみをあげるなら、コルシカ人、ブルターニュ人、オック人、そしてアルザス人たちがそうである。
 したがってまず手始めに、各市町村の住民に、自分たちがどの地域に属すことを望むかを、天才政治の方法に則り投票させる必要がある。こうすれば、あらゆる国家主義的な思考を除いて、各地域の境界を定めることができるようになるだろう。そして、この投票はその後も、ある市町村の住民が投票を望むたびごとに行なうことが可能である。なぜなら、住民の移動に応じて、特定の市町村が、隣接する地域への帰属の変更を望むこともありうるからである。
 いちど各地域が、そこに位置する市町村の住民の投票により地理的に決定されると、各地域は、等しい数の住民からなる十二の地区に分割される。   ( ラエル著 )  》

~イラクは「豊かな過去を持つ国」と言う意味を持つそうです。実際に、これほど数多くの王朝が支配した地域は、他に、ないだろうと思います。
  http://ashita.yu-yake.com/asia-history/iraq-hist …
~イラクについての地域史~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9% …

>> イラクはなぜ、負けるのを承知でクエートに侵攻したのですか?  >
 上段に、_人類の将来を検討するにふさわしい唯一の方法は、問題を世界的スケールで考察することである_etc. と、ありますが、人類の非道_過去の為政者の攻防と興亡、それに巻き込まれる一般人_非武装の一般人の大迷惑についての記述がされているのではないでしょうか?
 問題のイラクにしても、その地を首都にした帝国も数知れず、それを軍事侵略した勃興勢力も数知れない、まさに平家物語または和歌集の読み人知らず、あまりにも数多(あまた)の人々の悲運の舞台となって来たのではないでしょうか? エジプト、東欧、イスラム、モンゴル、イギリスetc.、それらの武力武装が侵略しては消える、「富の増大を望む有産階級によって仕向けられた、殺りく戦」が勃発しては荒廃する。それが、延々と繰り返される歴史、人々虐待の歴史がそこにあるものと見える。
 「世界政府」を樹立するしかない、ともありますが、狭量な私利私欲権力の乱立乱行の大災害がもたらす行き着く結果に憂慮し決断断行したものに、ヨーロッパ共同体、EUなどというものもある。それらは、過去の大愚を改正するために形成されたのではないでしょうか。
 近く本朝を窺うに、旧来の勢力権力が国家地域を統治するに値しなくなった時、人々の障害/規制の除去を目当てとする英雄豪傑が現れ、旧来統制その尊属維持を謀る家来官僚との大衝突_武力殺戮が起こり、数多の人々を巻き添えにする。その愚行を封じ込めるために、普通選挙による民主化が推進されて68年(_戦後)ではないでしょうか?
 イラクは、旧式政体_武力会合_幕藩?帝国主義政体ゆえに、日本の武士のように官軍・賊軍?の違い?そのどうか?も、知れないままに、世界近代化民主化の大波、世界の公益なのだか、アメリカの国益なのだか、日本の国益なのだか、言い表せない世界プロパガンダに呑まれ煽動されたのではないでしょうか? それが、良いわけでは、決してないですが、悪く言えば、気の進まな#いくさ(戦)#に命の下った小譜代大名の様だった、とも見える、悪すぎる事この上ないですが?
 2006年に、イラク、でも、初めての民主選挙による政権が発足しました、ともある。

 この先は、歴史上なし得なかった、国境のない、世界民主化、「世界政府」なのかもしれないですね。
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No.9です。


補足があったようなので・・・

>第2次世界大戦で、日本が負けるのを承知しながら、アメリカと対戦した時の状況も、全く同様のようですね?・・・

回答・・・必ずしも日本が絶対に負けると承知していたわけではないという部分がありますが、似たような状況、類似点が見られるのは確かです。

(1)経済状況の悪化と軍事行動。
日本・・・長引く日中戦争と徐々に強められる米国の経済制裁に日本の経済は悪化していきます。それを打破するために日本が選ぶ方策は常に北仏印進駐、南仏印進駐などの軍事行動でした。

イラク・・・イラン・イラク戦争で債務が累積しているイラクは、クエート侵攻により、クエートへの300億ドルの累積債務を帳消しにし、油田をも手に入れようとしました。


(2)米国の反応を見誤る
日本・・・南仏印に進駐について、昭和16年6月11日の会議で松岡外相は南仏印進駐はアメリカの対日全面禁輸の恐れがある。イギリス、アメリカとの戦争に発展する恐れがあると反対し、海軍の親英米派と称された山本五十六、米内光政、井上成実らも松岡外相と同じ意見で南仏印進駐には反対していました。
しかし、政府は甘い見通しのもとに南仏印進駐を行ない、アメリカに禁輸されます。
これについて東條内閣の企画院総裁だった鈴木貞一は「来るべきものがついに来たと思った。とは言っても全面的禁止だったのには驚いた」と甘い事を言ってます。

イラク・・・イラクがクエートに侵攻しても米国が軍を派遣してきて戦争をするとは思っていませんでした。


(3)開戦前に戦争以外に和平路線もあった。
日本・・・臥薪嘗胆策で、戦争ではなく米国に妥協する案もありましたが、戦争の道を選びました。

イラク・・・経済状況が悪化していたとは言え、必ずクエートを侵略しなければならないという状況ではありませんでしたが、戦争を開始しました。
ちなみに米国の情報部では、イラク軍のクエート侵攻直前の時点において、国境に10万ものイラク軍が集結しているのは、石油価格を高めるためのクエートへの脅しであり、侵攻を目論んではいないという分析でした。特にイラン・イラク戦争の打撃からイラクは十分に立ち直っておらず、フセインが軍事行動を企てる余裕は無いとも分析していました。


(4)緒戦の成功
日本・・・真珠湾攻撃で米戦艦部隊を撃破し南方の資源地帯を占領して、当初は戦争計画がうまく進んでいました。

イラク・・・クエートを短期間で攻略する事に成功しています。


(5)開戦後、調子に乗って和平の道を踏み外した。
日本・・・南方作戦の成功後、東久邇宮大将が東条首相に緒戦の情勢が有利なので和平交渉を始めるべきだとか、天皇陛下も2月に戦争終結の機会を逃さないようにとお申しつけになりましたが、東条首相は和平交渉どころか戦争継続、拡大に動きました。東條首相曰く「この調子ならオーストラリアまで容易に占領できると思う。この時期に和平など考えるべきではない」と言い、戦争続行に動き、以後、形勢が逆転していくという事態に。

イラク・・・クエート占領まではよかったけれど、国連やアラブ諸国、米国の和平案を蹴り、多国籍軍との戦争になり、結局は敗北の道を辿る事態に。


(6)米国相手の戦争での勝利のプラン
日本・・・さすがに米国本土を占領できるとは思っておらず、勝利する手段としては・・・
米英不可分という考えから英国の屈服を図る事が重要視されていました。
開戦前の1941年11月4日の軍事参議会で海軍軍令部総長の永野大将が「英米連合軍の弱点は英国にありと考えられる・・英を餓死せしめて屈服せしむること最も捷径なり」と言い、東條首相も「通商破壊戦により英の死命を制し米の態度を変えしむ」と言っています。
つまり、米英連合軍の弱点は英国であり、その英国をまず先に屈服させて、米国の継戦意志を喪失させようという構想です。
ただ、これは日本単独で行おうというものではなく、ドイツ、イタリアの動きにも期待するものでした。
また、太平洋上では米国海軍主力を撃破し米国の世論を厭戦へと誘致し継戦意思を喪失させるというものでした。
つまり、米国の継戦意思を失わせる事が日本の狙いでした。

イラク・・・長期戦に持ち込み、米国軍に甚大な人的被害を与え、米国内の厭戦ムードを増大させ、米国の戦意を失わせるのが狙いでした。


■まあ、日本もイラクも経済が悪化している状況で、軍事行動でそれを打開しようとし、その過程で米国の反応を見誤るは、妥協する事を知らず常に強硬策をとるは、米国と戦争になった場合、狙いは継戦意思を喪失させる策であったなど、日本とイラクの類似点は複数見られます。
そして結果的には、簡単に言えば、日本もイラクも「突っ走って返り討ち」にあったと言えると思います。
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>イラクはなぜ、負けるのを承知でクエートに侵攻したのですか?



回答・・・負けるとは思っておらず成功すると思っていました。
まあ、悪く言えば「2、フセインが馬鹿だった・・・」で、良く言えば「3.その他の理由・・・フセインの判断が甘かった」というところです。

■フセインの見込みが甘く予測が外れた他、甘い判断をして多国籍軍との戦争に突入し敗北しました。

○特にフセインの予測が大きく外れたのは、ソ連とアメリカの動きです。

当時のフセインは「米国社会には戦闘で1万人の死者が出るような危険を冒す用意は無い」と発言しています。
つまり米国社会は人命を尊重し犠牲者が出るのを忌避する傾向が強くなってきている事から、大規模な戦争は起こさないだろうという予測がありました。
また第二次大戦以後、米国は朝鮮戦争で勝てず、ベトナム戦争でも失敗し、勝利したと言えるの米国本土に近いはカリブ海のグレナダ侵攻と、中央アメリカのパナマ侵攻ぐらいで、数十万の大軍を遠方に派遣して戦争するという事を米国は十数年近くしていないという状況でした。
だから米軍が大軍を派遣してくるとは思っていませんでした。

そしてソ連については、これまでのイラクとの関係から国連安保理などではイラクに味方するものと判断していました。
しかし、その判断は外れ、ソ連は米国と共同歩調をとり、イラクを非難しイラクへの武器の供給も停止します。
これはフセインにとり完全に見込み違いでした。


○フセインは多国籍軍との戦争を回避できる機会が、幾らでもありましたが、それを蹴り戦争に突入し敗北しました。

米国はイラクのクエート侵攻後、すぐにイラクに対し戦争を開始したわけではありません。
8月2日にイラクのクエート侵攻が開始され、同日、国連安保理でイラクへの非難とイラク軍のクエートからの撤退要求が決議されます。
8月6日の国連安保理ではイラクに対する経済制裁が採択されています。
9月24日には国連でフランスが調停案を出してきています。
11月11日にはモロッコ国王から緊急アラブ首脳会議を開き問題を解決しようという提案がありましたが、フセインが強硬な態度を崩さない事から、会議は開かれずシリア大統領とエジプト大統領、サウジ外相がフセインを批判しています。
そして11月29日になって国連安保理でイラクへの武力行使の権限を委任する決議が採択されます。これは翌年の1月15日までにイラクが撤退を行わなければ武力行使を開始する権限を加盟国に与えるというものです。
以後も新年の1月9日にスイスで米国国務長官とイラク外相が会談し、米国国務長官は「破滅するか、それとも撤退するか」とイラク外相に幾度なく迫りましたが、イラク外相が撤退を言い出す事はありませんでした。
その後も国連事務総長が1月13日にイラクの首都バクダッドに飛びフセインと会談して調停案を示しますが、フセインが受け入れる事はありませんでした。
そして、安保理決議で定められた期限の1月15日が過ぎ、1月17日に多国籍軍は空爆を開始します。

つまり、イラクのクエート侵攻から半年もの間、国連と各国は外交や経済制裁で問題を解決しようとしていましたが、フセインが強硬な態度を崩さず問題解決には至りませんでした。
この半年間は、前述したようにアラブ諸国、米国、国連がイラクと平和的に問題を解決しようと外交努力をしています。
この半年の間にフセインが妥協する機会幾らでもありました。
それを潰したのがフセインです。
もし、フセインがこの半年の間にクエートから撤退していれば多国籍軍との戦争は発生しなかったでしょう。
米国もイラクに戦争回避の機会を与えているのです。
だから米国の陰謀論という事はありません。
なお、7月25日にグラスピー駐イラク米大使がフセインと会談した時に「国境紛争のようなアラブ内部の問題については口出ししない」と言っていますが、これは文字通り国境問題について言っているのであり、イラク軍によるクエートの全面侵略を許容したという事はありません。


○フセインは米軍との戦いにおいて、イラク軍の実力を過大視し、また米軍の実力を侮っていました。

長期戦に引きずり込み米国に大きな犠牲を出させる予定が緒戦から崩れます。数日間しか続かないと予想していた空爆が1ヶ月にも及び、その結果、イラク軍は人的・物的に大きな損害を出し、そしてその防衛線は脆くも崩れ去りました。


■つまり、フセインは米国とソ連の出方を見誤り、戦闘開始までの半年という期間に幾度も戦争回避の機会があったにも関わらずそれを蹴り、自軍の実力を過大評価し、米軍を過小評価して多国籍軍との戦闘に突入し湾岸戦争に敗北しました。
だから、悪く言えば「2、フセインが馬鹿だった・・・」で、良く言えば「3.その他の理由・・・フセインの判断が甘た」と言うところです。

この回答への補足

第2次世界大戦で、日本が負けるのを承知しながら、アメリカと対戦した時の状況も、全く同様のようですね?・・・・・・・・・・・

補足日時:2013/04/10 05:36
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http://en.wikipedia.org/wiki/Invasion_of_Kuwait
に詳しく書かれています。

1. イラン—イラク戦争でクウェートはイラクを支持して多額の資金を提供しました。戦後イラクはお金を返せないと言い出しましたが、クウェートは借金の棒引きにウンとは言いませんでした。
2. イラクは借金返済のために石油の価格を上げたいと生産量削減をOPECに提案しましたが、クウェートの方は売り上げを増やすために頑として増産を続けました。
上記の結果、イラクは資金難に陥りました。またクウェートへの憎しみが増しました。

イラクの隣国であるクウェートがイラクの油田を横方向から吸い出しているとの疑いをイラクは言い始めました。イラクが当該地区で減産する間にクウェートは増産していたのです。ただし国際的には(報道機関等は)イラクはクウェートの豊富な油田をうらやましがる気持ちが強かったのだろうと理解していました。日中の国境でも油田の(横方向から吸い出しているとの)問題が起きていますが、ナショナリズムに火がつきやすい国境問題と言えます。

米国の大使の不用意な発言のためイラクは開戦を決意したとも言われていますが、大使の個人的見解というよりも米国政府が開戦までは予想していなかったと考えられます。いずれにせよイラクは情勢を読み間違えたと考えられます。
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イラク進攻は1が正解です。


時のイラク駐米女性大使が米得意の2枚舌を使ってカダフィを貶めました、イラクの原油をクエートが横から盗ってるのが我慢出来ないから制裁する、米は口出ししないという確約を取って侵攻したのが湾岸戦争です。

所が舌の根も乾かぬ内に米軍がクエートをイラクから救う+民主化の大義名分を立てて侵攻して来ましたが米公の出鱈目はここでも証明してくれました。

女大使は米へ召喚されて米議会で嘘のオンパレード証言を繰り返してました、カダフィとの会談のビデオが残ってて明らかな嘘がバレバレなのに破廉恥と言うか何というか白人はあの程度です。

クエート民主化何て全くデタラメです、侵攻して区切りが付いたら民主政権を作るのはこれも二枚舌です。
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イラクは負けるのを承知してクェートに侵攻したのではありません。


クェートに侵攻しても、どこの国も動かないと確信したから侵攻したのですよ。
戦争になって一番驚いたのはイラク、サダム・フセインですよ。

先に回答している方がおられるように、あの辺で紛争が起きてもアメリカは関与しないというメッセージをアメリカ側から受け取ったから、安心してクェートに侵攻したのです。

アメリカが本当にそういうメッセージを出したのか、イラク側が勝手に勘違いしたのか分かりませんがね。
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イラクもクウェートも元はオスマン帝国で民族も同じです。

「イギリスが引き裂いた」というイラクの主張にも一定の理はあったのです。クウェートには親イラクの反政府勢力もありましたから二国間に限れば、何の問題もなく収まったでしょう。ただ国際社会での宣伝戦に負けただけです。
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米国に騙されたのです。



クエートはイラクの海底油田を、ストローで吸うように
して、石油を採掘していました。
それに怒ったイラクは、クエートを侵攻しようと
したのですが、やれば米国に叩かれる怖れがあります。
それで米国に、話を持ちかけました。

アメリカの駐イラク特命全権大使のエイプリル・グラスピーが
このイラクのクエート攻撃に対して
「介入するつもりはない」と発言しました。
これを信じたフセインがクエートを侵略したのです。

米国は約束の存在を否定していますが、
当の大使は、それ以後、公式の場には
一切姿を見せなくなりました。
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>★イラクのクエート侵攻について


イラクはなぜ、負けるのを承知でクエートに侵攻したのですか?

       ↓
3.その他の理由・・・だと思います。

歴史にifは余り意味を成しませんが、そもそもクエートはイラク領(保護区的な意識)だとの認識が有り、軍事力の圧倒的な差もあり短期間で占領でき、クエート国民の呼応もあると読み誤った。

また、アメリカも国内的な制約(軍事費・遠い地域の紛争・ベトナム戦争の後遺症他)もあり反戦機運で介入しない、国連でも中露の拒否権で軍事作戦や強力な制裁処置は早期に大規模には取れないと踏んでいた。

その意味では、フセインが馬鹿(裸の王様と言う意味でイエスマンに囲まれた独裁者の末路)、広義に言えばアメリカの多国籍軍と近代兵器での与件を活かした謀略と言う側面もあるが・・・
国際紛争や戦争の原因や大義名分や正義の検証は勝者が自己都合で作る面とその時の国際環境や時代背景の変化の中で評価が定まるのであり、1~3の単独理由では決められず、上げられた要素が複雑に絡み合った要因と関係諸国の情報と世論の帰趨・打算等が混在していると思います。



1.アメリカの謀略にひっかかった・・・

2、フセインが馬鹿だった・・・

3.その他の理由・・・・・・・・・・・
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 米国の謀略に引っ掛かったが正解でしょう。



 おそらくは、米国がフセイン大統領と駆け引きをして、クウェート周辺からの軍の撤退を認めたのでしょうが、それが罠だったというオチでしょう。

 当時のイラクは兵士に給料を払えないほど財政が切迫した状況で、石油価格を暴落させているクウェート油田の破壊と貴重品の略奪目的に侵攻したのが理由だったようです。

 フセイン大統領はテロリストから身を起こした人ですが、決して馬鹿ではありません。米国の真意が見抜けなかったか、米国の謀略を見抜いていたものの、フセイン体制を破壊するような真似はしないという読みがあったのでしょう。

 座して死を待つよりも、クウェートに攻め込むしか道が無かったイラクですから、選択の余地は無かったのかもしれません。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%BE%E5%B2%B8% …

この回答への補足

あたかも日本がアメリカを相手に、勝ち目のない戦争に突入した時の状況に酷似してますね?・・・・・・・・・・・・

補足日時:2013/04/09 19:44
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