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一年ほど前から、毎日死ぬことについて毎日考えてしまいます。

自転車を漕いでいるときに、駅のホームにいるときに、なんでもない日常の中で「今こうしたら自分は死ぬんだ…」と考えて、リアルな想像までしてしまうんです。
自殺したいという訳ではないのです。
特に大きな悩みがある訳でもないと思います。
でもどうしても想像してしまうんです。
我に返ったあとはとても疲れますし、そういうことを想像してしまう自分のことも嫌になります。

自分なりに考えた結果、一年前にあった祖父の葬式や東日本大震災でそれまで意識していなかった「死」を身近に感じてしまったことが原因なのではないかと思っています。

こういうことを考えるのは異常なのでしょうか。
止めたいです。
なんとなく親に相談するのも憚られて、こちらで相談させてもらいました。

A 回答 (9件)

自分自身の意識の拡大を、死というテーマに基づいて行っているのではないですか


実際の死とはかけ離れた、バーチャルな疑似体験です
それは異常でもなければ、無意味でもないと思います
心の中の予防線が自然に行っている事だと思います
死にたくはないが、死が訪れてしまっても受けられるように、という一種の準備みたいなものです
心の余裕がありすぎる という見方もできると思います

>止めたいです。

疑似体験が悪癖になってしまった感想なのでしょう
意識の集中ができる別なものを見つけた方がいいと思います
一時の気分転換では直らないように思います。
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死に付いて考えてしまって、ノイローゼになった経験があります、14歳の頃です。

今で言うなら『不安障害』と言うことでしょうか?或いは死に対する恐怖症という事だと思います。

余り『死』が身近に感じられてしまって、まるで死刑囚のような暮らしです。ですが、学校も休んだ事は無かったです、仕事も休んだ事が無かったです、ひと時も心が休まらないような心持で生きていた毎日でした。

27才の頃、縁があって結婚をしたのですが、一年後には長男が生まれまして、生活が変わったというのか、新しい生活になじめなかったというのか、『死刑囚の心の中が分かるような心持のせいで』生きた心地がしなかった生活が、ますます追い詰められてしまって、丁度本屋で目に入った本、鈴木知準先生の『不安の解決』を読んで、妻の許しを貰って、早速東京の『入院森田療法』を受ける事になりました。

死の恐怖の為に生きた心地がしない事『離人症』である事を先生には話す事がありませんでした。『誰でも死が恐い事など当たり前過ぎて』先生に話す事など無駄に思えたからです。

この感覚(離人症)は治る筈など無いと、決めて掛かって受けた森田療法でした。初めての出会いの時先生は、一本の鉛筆を取り出して『言いかね、、、、君、人間は見ようとすると、鉛筆が見えなくなるんだよ!』と言いました。

当方は、何がなにやらでした。先生の意図が何も分からなかったのです、ですが何故か、『入院森田療法を受ける気持ちでいましたので、帰って入院の用意をして直ぐに入院をしました。』

生き難い気持ちが是以上強くならないためと言う意味でした、治す事はあきらめていました。

2ヶ月間の入院治療を受けていた間、講話と言う時間に沢山の本を読んで下さいました。主に『道に至る事や、剣道などの免許皆伝の話や、弓道などで弓を射るのは『自分ではなくて、”それ”が射るのだ』と言う話です。

そうして時折『ノイローゼは悟りを開けば治る』と言っていました。

退院してから4年後の事、、玄関で自分の靴を揃えていた時の事です、自分の心(自我意識)が『自分の無意識の意識』と出会う体験がありました。

日記などは書いた事がありませんでしたが、その日だけは書きました、内容は『無意識にも意識があった』です。

鈴木先生の本棚に『鈴木大拙全集』と言う本がずらりと並んでいましたので、退院してからは、先生の教えをを忠実に守って、鈴木大拙博士の本を読むようにしていた折にです。

その日を境に『恐怖症は完治しました。』自分自身を恐怖にしていたのが、自分自身のもう一つの心『無意識の意識』だった事を了解したからです。

そのシステムは、人間の心に感情や考えを『湧き上がらせていた者』は自分の無意識である事、そうしてその『意識』は、生まれた訳ではない事から、滅する事が無い者、と言うことが分かりました。

今まで死を考えると『自分の心が苦しくなった訳は、自我意識だけを認めて、無意識の出番を封じ込めていたからです』漠然とした不安や、恐怖心は『無意識からの救いの声だった事』が分かります。

今までの苦しさは『永遠からの救いの手を、自分から振り払っていた事』だった事です。

人生とは何か?自分は何者か?と言う疑問も氷解しました。心の奥底から感じていた不安や恐怖心が『心の奥底から、力が抜けてゆきました』是ほど恐怖や不安に『身体中に力が入っていたのか!』と言う感想でした。

『心身脱落、脱落心身』と道元が言っていた事が実感出来ます。

鈴木大拙博士の言う言い方があります。深い不安や悩みに苦しむ人は『深い人間性の表れ』と言う事です。貴方の苦しみは貴方の人間性が深いせいです。そして貴方の人格が高いせいです。

自我意識が自分の無意識の意識(命の働き)と出会う場合を『見性体験』と言います。その体験以後『心の矛盾が解消します。』

自分の心の中の内部抗争が終結するという意味です。その静寂な心持を『涅槃』と形容しているようです。或る動画を載せて置きます。この中に『内部抗争が終結する様子が出ています。』

キリスト教的な表現なら『神と和解する。』です、禅的な表現方法なら『生死の問題が解決する。』です。どちらにしても『究極的な心の癒しの心理学を体現した』と言う意味です。

生死に囚われない生き方が出来るようになるという意味です。お金にも名誉にも左右されないで、今正に死のうとしていたとしても『幸福感が失われない、と言う種類のの幸福感でいられる。』というほどの意味です。
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死について繰り返し考えてしまう時期ってありますよね。


私は年長の頃か小学校の低学年の頃だったか、もう定かではありませんが、人間は飢えたり、重い病気をしたり、不慮の事故に遭ったりしなければ、とにもかくにも健康に気をつけてさえいれば死なないと思っていたのに、最後の最後には誰もが必ず老衰で死ぬと聞いたときは、とてもショックでした。

最後には必ず死ぬのに生まれて来るって何なんだろう?
どんなに注意深く生きていても、誰でも必ず死ぬのなら、今生きている私って一体何なんだろう? 最後の瞬間ってどんな感じなんだろう?
生きているって、夢を見ているのと同じで、私は本当は生きていなくて誰かが見ている夢なのかも知れない…。
私の夢の中に出てくる見知らぬ人が目を覚ますと消えてしまうように、本当は私は何処にもいなくて、誰かが目を覚ましたら消えてしまうのかも…。
――などと考え出すと恐くて眠れなくなったりしていました。

高校時代の同級生にその頃の話をしたら、「子供なのにそんなこと考えてたの? 年寄りみたい」と笑われました。
逆に私は、「えっ、どうして? 死ぬのって誰でも恐いことじゃないの? 明日がある日突然なくなるのは不安じゃないの?」と、とても不思議でした。
高校生で既に人の生き死にが、ごく自然で当たり前に思えるなんて。
不安に思うことも疑問に思うこともなく、この同性で同い年の人は死を当たり前のことだと受け入れている。そのことの方が不思議だし、笑われたこともショックだったので、以後、他人にはそういう話をするのは止めました。

中学の頃、従姉から高校の漢文の授業で習った荘子の『胡蝶の夢』の話を聞いたときは、そんな昔の時代の異国に同じ様なことを考えた人がいたということにホッとしましたね。
『胡蝶の夢』の中には人の生き死に、存在の有無についての不安は何も書かれてはいないけれど、胡蝶という美しい媒体を通して大きな視点で訴え掛けて来るようで、私の不安を払拭できる説話となっていました。
あらすじをざっと聞いただけでしたが、子供の頃に抱いた不安が、これで和らいだような気がしました。
そのまま教科書を借りれば良かったのでしょうが、それからは、高校で『胡蝶の夢』の授業を受けるのが楽しみだったことを今思い出しました。
【胡蝶の夢】http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E8%9D%B6% …

『胡蝶の夢』の授業を受けたのは、同級生に子供の頃の話をするよりもずっと後になりましたが、同級生にも『胡蝶の夢』を通して、私が幼い頃に感じていた生きていることの不思議と不確かさに対する感覚が少しでも伝わったのならば良いな、上手く伝え切れなかったイメージが伝わっていたならば良いなと思いました。
私がした話は、もう忘れてしまったでしょうけれども、そのときその瞬間だけでも…などと今更ながらに思います。

私自身、荘子が伝えたかったことのどれだけを理解できたのかは解りません。
ただのイメージで終わっているだけかも知れません。
世界観がリンクしたように感じたので、不安が和らいだように感じているだけなのかも知れませんけれどね。
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類推できないことはそのまま呑み込むほかないのですが、いったん死を丸呑みしてしまうと周囲にいかに死に似ているものが多いかに驚かされます。

しかし名詞の死は曲者です。実は死ぬというのはあくまで生きていることの延長です。言い換えると死というものは実在していません。実在していないものは幽霊のようなものですから、考えると気分が悪くなって当然です。
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死を身近に感じた時、自分の死について考えることはよくあるでしょうが、


数年も経てばだんだん楽になってきます。

死についての出来事を、忘れてはいけませんが、
死に自分が近付いてしまうのも良くないと思います。

今は死についてどっぷり漬かっている時なのかもしれません。

でも、日常をしっかり生きていきましょう!
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わたしも被災と、祖母の病死から死を考えるようになりました。



祖母に至っては、私が仕事でお見舞いに行けなくなり明日~と伝えた日に亡くなり、一年たった今でも後悔と喪失感で涙がでそうな日もあります。

ただ、今私のお腹には新しい命があります。毎日元気に動いているんです。
こうやって命は繋がっていくんだなと
一日一日を大切に生きようと考えさせられます。
死があるから、
新しい命があるから必死に生きられるのかもしれませんね。
死ぬ時に後悔なしに笑って死ねるように今を頑張ろうと思いましょう(^O^)
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何のために、、、。

日常にあふれる死では、、、。

駅のホームに、押されて、落ちて死ぬ人もいる。

ドライブ中に10トン車に押されて、ぺちゃんこ。

上から落下物、、、身内のし、、、、どこにでも溢れている、、、、ダカラ宗教があり、、、。祈る人もいれば。

私のように、人生で、10回以上死ぬかと思っても、まだ生きている、、、つまり、神様は、私に役目を果たせと

言っているのかも、、、。特養のケアマネです。毎年20人位は死にます。まっとうに人生を過ごした年寄りが、

家族にも看取られずに、特養の個室で寂しく死ぬのです、、、。あなたも、もし生きているなら、、、自分のうちなる心に、

神様に、、あなたが果たすべき目的を、、、。見つけなさい。

男なら、学業、しごと、愛情、妻を娶り、家を立てて、子供を育て、父はは子供を大切にし、次の世代に、あなたの生きた証を伝える、
これが役目でしょう、、、。死ぬまで、神様の迎えがくるまで一生懸命行きなさい。私からの、、、命題です、

では、、神様の変わりより、、、。笑。
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異常ではないと思います。


常に我々は「死」と隣り合わせですし。


私もよく[死ねる要素]を探してしまいます。
目に映るものから
ここはこうして死ねる。
そこはああして死ねる。
そうゆう要素を探してみると驚くほど沢山あるんですよ。


「今線路に飛び込めば死ぬ」
と考えたことがある人ってけっこういると私は思います。


最近で身近に死を感じてしまったなら尚更考えてしまいますよ。


誰にでも「死」ということについて深く考えるときがある。
私の周りの人も言っていました。


どうかお気になさらず、
「死」より「生」を。
「過去」より「未来」を見てください。
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悪い事でも異常でもないと思いますよ。


人間には必ず「死」が付き物ですからね。

ただ、私はこう考えています。
「人間いつか必ず死ぬし、いつ死ぬかなんて誰にもわからない」と・・・。

なのでいつか絶対死ぬんだからその「いつか」におびえて暮らしてもしょうがないなと思うんです。
せっかく生きているんだから生きている時間を楽しまないと損ですよ。

出来る限り後悔しないような人生を送りましょうよ。
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