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徳川慶喜について皆さんはどう思いますか?例えば鳥羽伏見の敵前逃亡や長州征伐時旗本を率いて最後の1兵まで戦うとかいきなりの保身行動。。。会津は勝手にしろみたいな行動、これが先代の家茂だったらどうだと思いますか?

A 回答 (7件)

とんでもないことを言いますね。

鳥羽伏見は大政奉還の後です。徳川慶喜は大政奉還で朝廷に下駄を預けたからには隠居も同然の身。王政復古の大号令で徳川慶喜の将軍職辞任が正式に勅許されてからは、もはや将軍でも何でもない。後は粛々と新政府に事務を引き継ぐだけなのです。

それがどうして賊軍一味に加担しなければいけないのでしょうか。質問者さんがどういう歴史認識を持っているか知らないが、これ以上の回答は意味が無さそうですね。

この回答への補足

確かに大政奉還の後です。さてさて賊軍の一味と言われていますがそれでは王政復古の後の慶喜の行動をどう思われますか?復権を狙い外国公使との謁見等。。。鳥羽伏見の最中彼は最後まで戦うと豪語しています御旗があがったあとです。どう思われますか

補足日時:2013/05/26 22:55
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>徳川慶喜について皆さんはどう思いますか?



普通の行動でしようね。
ただ、やり方が拙かっただけです。

>例えば鳥羽伏見の敵前逃亡

徳川軍(旧幕府軍)は、あくまで薩長土肥連合軍と戦っていた訳です。
朝廷は、中立でしたよね。
孝明天皇も、攘夷を望んでいましたが倒幕は望んでいませんでした。
慶喜に対しては、信頼を寄せていた事が多くの文書から読み取れます。
岩倉具視・三条実美など(宮廷クーデター未遂の結果)都落ち公卿を、逆賊として「打て」との勅命も受けています。
が、戦場では「朝廷の意向を無視した戦略的な意味を持つ、偽物の錦の御旗」が掲げられましたよね。
慶喜としては、目を疑ったでしよう。
あくまで「薩長土肥軍」と戦っていたのに、突然「対戦相手が、天皇軍」に代わったのですから・・・。
徳川軍従軍の旗本も、太平慣れした者が多かったようで「出動命令が出ても、多くの者が突然隠居願い提出」を行っています。
仮病をつかった旗本も、多かったようですね。
従軍しているのは、(旗本の次男坊・三男坊など部屋住み)戦闘の素人。頑張っているのは、旗本でなく佐幕派の各藩の軍。
明治の(勝海舟斡旋による)明治天皇・徳川慶喜会談でも、何も慶喜は話をしていませんね。
確か、本当の事は墓場にまで持っていっています。
明治天皇との会談時「国内が、内戦状態にならなくて良かった」との言葉とともに、後に公爵位を受けています。
敵前逃亡というより、何か表に出ない事実があったのかも知れません。
「玉砕を美化する事を、慶喜は望まなかった!」とも、考える事が出来ますね。
確実なのは、慶喜の行動で「死傷者が少なくなった」事です。

>先代の家茂だったらどうだと思いますか?

歴史に「若し」は、ありませんが・・・。
たぶん、慶喜と同じ行動を取っただろうと思いますね。
孝明天の信頼が厚く、また嫁さん(皇女和宮)の兄ですからね。
対戦相手が突然「天皇軍」になると、義兄・嫁の実家と戦闘を行う事になります。
軍の責任者として、慶喜同様一人で責任を負う事を決めたと思います。
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この回答へのお礼

責任を一人で背負うと言うか。。。やはり僕も彼のやり方は賛成できません、家茂は部下思いと言うことなのでもう少し佐幕の藩の面倒を違う形で見てくれたのでしょうね。ありがとうございます。

お礼日時:2013/05/31 20:17

>確かに大政奉還の後です。

さてさて賊軍の一味と言われていますがそれでは王政復古の後の慶喜の行動をどう思>われますか?復権を狙い外国公使との謁見等。。。鳥羽伏見の最中彼は最後まで戦うと豪語しています御旗があ>がったあとです。どう思われますか

「復権を狙い」という意味は全くありません。「おいおい何だよ?大政奉還て。俺らの立場は?条約は?俺らの安全は誰が守ってくれるの?」と外国公使に詰め寄られて、「自分が責任持って条約は新政権に引き継ぐし、行使らの安全も守る」と胸を叩かざるを得なかっただけです。中国や朝鮮などでは暴徒が外国公使に危害を加える事例が実際にありましたし、そうした懸念は決して杞憂でもなかった。実際、日本は中国、朝鮮で公使らが危害を加えられた方です。当時の日本には外国軍は駐留していません。いきなり無政府状態になったら外国人の安否を誰が守ってくれるのか。そういう緊迫した情勢において外国公使が旧政権の代表者であった徳川慶喜に面会を求めるのは至極当然の事でありました。それを「復権を狙い」という言い草は余りにも荒唐無稽な言いがかりです。

「彼は最後まで戦うと豪語しています」という事実はありません。賊軍一味が勝手に慶喜の名を騙って、そう謳っただけに過ぎません。慶喜は賊軍一味に利用されないように腐心していました。テレビもラジオも無い時代に自分の立場を表明するのは大変困難なことであったのです。
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最低だったと思います。



頭は良いらしいですが、腰が据わっていないとか、
覚悟が無いとか、要するに武士では無かったと
思います。
公家と同レベルの貴族だった、というだけでしょう。

太平の世が300年も続くと、ああいう口先だけの
調子よい人間が偉くなるんだ、という見本みたいな
ものです。

挙げ句の果てに、内乱を避けるためだった、と
言い訳です。
切腹でもすればともかく、引退後は趣味に走り
悠々自適です。
部下である旗本を多数殺し、塗炭の苦しみを味わせているのにです。

ああいう人間しか将軍に据えられなかったのですから
徳川幕府が滅んでもしょうが無いですね。
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この回答へのお礼

そうなんですよね。江戸開城時にでも何らかの形で責任をとり会津や沢山の部下を助けていたら。。。それが真逆の引退後の行動。。。ありがとうございます。

お礼日時:2013/05/31 20:27

(終わり良ければ全て良し)と言うことわざがあるが、この男にその言葉は当てはまらない!昔、宇野宗佑と言う総理大臣がいたが女問題でわずか2ヶ月で失脚した、この御仁と慶喜は極めて似ている、江戸時代末期の東軍側主要人物で重要罪人の一人が徳川慶喜、もう一人が勝安房守海舟!(末子の代、百年)と言われているが戊辰戦争が集結してまだ140年あまり、今後100年間も間違いなく二人の重罪履歴は語り継がれることで、徳川子孫も勝子孫も肩身が狭いことであろう。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2013/05/31 20:23

徳川慶喜は高圧的な水戸藩主であった父、徳川斉昭の資質が遺伝したようで


けっして無能なわけではないが、独断専行で自分の本意を他人に絶対に悟られぬ様スタンドプレーまでするワンマンです

彼は会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬と《一会桑体制》(一は一橋)を作りますが

鳥羽・伏見で薩摩が錦の御旗を掲げるを見た慶喜は徳川が朝敵になるのを恐れますが
自らの真意を悟られるよう徹底抗戦を主張する容保と定敬を言葉巧みに軍艦へ乗船させます
要は彼らと各々の家臣と分断し、江戸に連れてきて孤立した彼らをあっさりと追放するためです

恐らく自らの保身というよりは他の犠牲を出しても徳川家の存続のみを考えていたのでしょう


家茂は若くして没したので能力は未知数ですが
当時の時勢では時には非情で冷徹な判断も必要になります
はたして心優しい家茂に当時の為政者としてまっとうな執政ができたかどうか…


余談ですが、家臣に裏切られ追放された桑名藩主松平定敬は新政府軍に函館まで徹底抗戦しましたが
恭順後、アメリカ留学し新政府のイタリア公使に転身しています
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この回答へのお礼

確かに徳川の存続の為にはあとはどうでもいいみたいな感じだったと思います。ありがとうございます。

お礼日時:2013/05/31 20:21

非常に優秀なんじゃないですか?


あの変革期を自分の命も徳川家も残し日本を内戦や他国の植民地にすることもなく乗り切ってるんですから。
ただ徳川幕府の存続に執着がなかっただけで、恥も外聞もかなぐり捨てて非常に的確に動いてると思いますよ。

もし徳川幕府を残そうとしたら、少なくとも内戦突入、上手くいったところで清のごとく外国の植民地になって傀儡政権のような徳川幕府が残っただけでしょう。通常は政権を残すのに躍起になって気が付いたら母国を植民地化し何の権限も無い傀儡政権になってしまうのでしょうが、時勢を読み無理なものは無理ときっぱり諦めることで日本を無事に残し徳川家も無事残したのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2013/05/31 20:18

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