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大政奉還の前と後で、天皇の立場や、扱われ方(?)というのは変化があったのでしょうか?
また、孝明天皇は君主としてどのような教育を受けてきたのでしょうか?

歴史にあまり詳しくないので、できるだけ分かりやすく説明していただけると助かります。
※また、参考書物などもあれば教えて頂けると助かります。
宜しくお願い致します。

A 回答 (4件)

大政奉還は全然関係ない。

天皇は幕府との関係で、相対的に権威付けられていた訳ではなくて、絶対的な別格としての権威を持っていたからです。それは歴史に詳しいとか関係なくて、日本人としての常識であります。なぜなら日本という国は天皇によって作られた。だから天皇は日本の象徴なのです。戦後、マッカーサー元帥は日本に上陸した途端に日本とはそういう国なのだと理解しました。それまでマッカーサーは日本のことなど何一つ知らなかったにもかかわらず。質問者さんは土民としてどのような教育を受けてきたのでしょうか?外国人のマッカーサーに理解できたことが、日本で生まれ育った日本人に理解できないなどということがあるのでしょうか。

18世紀末に老中松平定信は、大政委任論を唱えて江戸幕府の日本支配を理論的に正当化を図りました。つまり江戸幕府は天皇に大政を委任されているのだと天皇との関係で相対的に幕府を権威付けようとした訳です。質問者さんが歴史の授業で何を倣ったか知りませんが、幕府が天皇を権威づけたのではなく天皇が幕府を権威づけたのであります。そういう認識があれば「大政奉還~」などという問題認識が生まれる筈が無い。

天皇と幕府の関係は、商家の主人と番頭の関係に似ています。番頭さんはお店の切り盛りを任されてはいるけど、所詮は使用人のトップに過ぎません。徳川宗家は代々、番頭に任じられた家柄ではありますが、所詮は使用人のトップに過ぎません。そういうことを理解していれば、大政奉還の意味は徳川慶喜が番頭という役目を天皇に返上しようとしてお伺いを立てた出来事だったことが分かる筈です。

大政奉還の前も後も天皇がお店の主人であったことには変わりません。そこには何の変化も見いだせない。大政奉還の後は徳川宗家が務めていた番頭職を誰が担うのかという課題が生じたまでのことです。
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孝明天皇の君主教育



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E4%B8%AD% …

これの第一条に示されている内容、つまり学問です。
徳川幕府によって学問をやれと命令されたのではなく、その前から天皇のお仕事は学問であるとされていた。
鎌倉時代の天皇である花園天皇が学問するんだよとか説いています
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%9C%92% …
他にも、何人かの天皇が説いています。

その学問をするというのを生真面目にやったのが孝明天皇の祖父、光格天皇です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%A0%BC% …
分家から、想定外に天皇になった関係で、天皇とは何か?を結構真剣に考えた方で、それまで○○院と名乗っていた天皇の称号を○○天皇と古代風に復古させたのがこの方。
光格天皇と孝明天皇の間、仁孝天皇の事績はあまり残っていません。
※ 光格天皇が最後の院政を行なっていたせいかもしれませんが。

以上の内容は 幕末の天皇 (講談社選書メチエ) このへんの詳しい。
※ 上記の書籍でも仁孝天皇はスルーされていたような記憶がある。

大政奉還の前と後
ベツモノなので、比較するのも変な感じ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。大変詳しく説明していただき、助かりました。あと「ベツモノ」というのは具体的にどういうことなのでしょうか???

お礼日時:2013/06/09 10:34

まぁ、大政奉還と王政復古ぐらいは密接してたかな?自信ないけど。




大政奉還はすでに出ていますが徳川家将軍が、天皇に政治を主権を返上するということです。

まぁ、15代徳川慶喜は臆病で若者の争いすらまともに止められずまとめる力が無かったので

天皇に返上したんですね。

そして

王政復古は古代天皇が持っていた絶大的な象徴を取り戻すということです。

日本の戦国時代など見てみればわかりますが、日本をアクション(行動)に天皇はあまり出てきません。(もちろん政治には多少なりとかかわってきますが・・・)

しかし、日本には神話があり古代の天皇は自分で政治を司り、国を治めていました。

王政復古は形式的に天皇を昔の天皇と同じように象徴を高めようということです。


まぁ、一言では言えませんがこれくらいでしょうか?



ちなみに私の日本史に対しての知識は中学生初級で止まっていますので間違っていたらすいません;;;
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大政奉還そのものの意味が、将軍家が、天皇に政治を



おかえしする、という位置付であったと記憶しています。

これにより、江戸時代がおわりをつげ、明治となるわけ

ですが、明治憲法下での天皇は、国家元首であったは

ずです。

そもそも、いま、皇居となっている場所そのものが、江

戸城のあとで、桜田門、半蔵門などの周辺の門のつく

地名は、江戸城周辺の江戸城に入る入り口の門から

きているものです。

ここからもわかるように、大政奉還まえの天皇は、京都

におり、政治の実権は、完全に将軍家にとられていま

した。

ちなみに、いま天皇が、東京にいることについては、

京都のひとびとは、「東京にかりずまいしておられる」と

の位置づけでみているくらいで、天皇家が京都をはなれ

たのは、実に、平安遷都以来、1000年ぶりのこととな

り日本史史上では、異例の事態ともいえます。

ほとんど雑談めいていますが、以上のことがだいたいの

ヒントになるのではと思います。
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