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明日は、アメリカの独立記念日です。花火があちこちで打ち上げられます。イギリスの植民地であったのを、独立戦争を経て、アメリカ合衆国になりました。

振り返って、あなたの独立記念日は、どんな風にやってきましたか。

A 回答 (16件中1~10件)

高校卒業して3月15日の入社式&寮生活開始からですね。


親に何も出費をかけないようになって初めての一人暮らしで全て自分でやりくりをし始めて…
不安や楽しみが入り混じった一日でした
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この回答へのお礼

日にちを覚えていらっしゃいますね。まさに独立記念日になります。

不安がありながらも、楽しかった、と言うのがとてもいいですね。
子供の経済的な自立は、親からしてみると、ありがたいです。
親も、子供を放してしまうのは、不安な一方、うれしいことであるのが、
最近ようやくわかるようになりました。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/04 07:56

>あなたの独立記念日はいつですか。



初めまして、質問者様はアメリカに御住いとの事ですが、こちら東京は恐らく梅雨が明けたと思われる昨日より死ぬ程の猛暑で、今年は極力エアコンは使うまいとの自戒を僅か数日で早くも破り、朝っぱらビール・水割りなどを傾けつつ、ほろ酔い気分でネットに向かっております為、万一御無礼の段がございましたら、何卒御容赦頂きたいと存じます。

さて50歳を幾つか過ぎ、世間的には立派なそして紛れもないおっさんである私ではありますが、前半生は両親の、それ以降は家内の庇護と被植民地としての心地良さにどっぷりと浸かり、未だに精神的独立に至っておりません、恐らくは・・。

それなりの資産家である両親が未だ健在、更には子宝に恵まれず、おまけにキャリア志向の家内が世の男性を凌ぐ高給取りであるという背景に加え、何よりもものぐさな本性が災いして、未だ一家の当主という使命感・責任感がほぼゼロ、加えて名前負けする御大層な肩書きを頂戴した今に限らず、元々働く事が大嫌い(宮仕えは世を忍ぶ仮の姿と、自認しております)ときておりますから、来世はオーストラリアでユーカリの木にでもぶら下がり、分相応に生きたいと念願する次第です。

ただこんな私目にも1~2度独立のチャンスがありました、それは結婚直後某国へ3年間の赴任を命じられた時の事ですが、先にも述べた通り、家内は極端なキャリア志向でしたから、当初より夫婦で着任という選択肢はありませんでした。

何しろ両親・家内の監視を離れ、いい年をして生まれて初めての、しかも他国での一人暮らし、当然胸は高鳴り、壮大なるビジョンを胸に自分探しの旅と位置付け、嬉々として赴任地へと旅立ったはずの私でしたが、自分探しどころか結局探したのは飲み屋ばかり。

東南アジアを代表するその大都市の繁華街の一画で、お茶っ引きの女の子全員をテーブルに侍らせた私を垣間見て、「どこの成金が、豪遊しているのかと思った」との元同僚の証言と、当地の首相すら頻繁に訪れるという、如何なる高級クラブですら顔パスだった誠にくだらない勲章だけを胸に、まさにその3年後刀折れ・矢が尽き、多額の借金すら抱えて帰国し、成田空港のコンコースにひっそりと佇む私がおりました。

時まさにバブル経済華やかりし頃、当時20代後半でペーペー且つ若造の私が、円換算で優に1000万円を超える年収を得ていた(しかも住いと運転手・メイドの給料は会社持ちという好待遇)にも関わらず、そして他の同僚が少なくともマンションの頭金程度の資金を貯えて帰国したのを尻目にです。

更にはその1年後、バブルが弾けめっきりと活気が薄れた本邦を離れ、前回の反省をしっかりと胸に刻んで、次なる赴任地へと飛ばされた私でしたが、「馬鹿は死ななきゃ治らない」との例え通り、その3年後またまたスッテンテンどころか多額の借金を抱えて帰国、結局家内に土下座せんばかりに御願いして、全ての尻を拭いてもらった次第。

さすがに今では年を取り、馬鹿な遊びは控えるようにはなりましたが、悲しいかな浪費家という本質は変わらない。
依って両親と家内がなかりせば、私なんぞ恐らく隅田川辺りにダンボールで仮寓を張り、空き缶を集めているのが関の山でしょうが、一方に於いて、植民地のそして部屋住みのまま、墓場へ直行しようと考える昨今ではあります。
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この回答へのお礼

ウハー、まさに、読むに値する、示唆にあふれたご回答です。

行間には、おかきになっておられない紆余曲折や、どうしようもない成り行きが存在したと、拝察します。そうこうしているうちに、五十年が過ぎ、独立の機会を逸してしまわれたと言うことですか。。。

たとえば、ご両親が破産したり、奥様がご病気になられたり、大切に育てた子供が非行に走ったり、こう、世の中に満ち溢れている、ありふれた事件に遭遇することなく、世間に通る肩書きもお持ちで、”順調な”生涯をすごしておられるわけですが。

うーん、うちの母は、姑の厳しい躾けに耐えられなくて、生まれたばかりの私を抱えて、婚家を脱走したらしいです。それで実家に戻ったらしいですが、実家では、誰も働いていませんでした。何がしかのものがあって、比較的地味に、しかも、昔かたぎに暮らしていた家族でしたが、訓戒として、”株と政治はいけない”というのがあったらしいです。できれば事業も起こさずに、地味に暮らしてゆきなさい。人間が一生に使うお金など、高が知れている、と。若い私は、その考え方は間違っていると思いました。働かない階層が、はびこるのは、不健康な社会だ、と力みかえって、働きに出ました。

最終的には、母も、叔母も、叔父も、みな独立しましたが、叔父だけは、いつまでも宙ぶらりんで、出入りが絶えませんでした。事業を起こして、派手な暮らしをしては、(経費で落す、ということができます)失敗を繰り返すからなんですが、そういう”浪費”もあるんですね~。勘当同然で、ようやく”独立”できました。

齢の離れた兄のようにかわいがってくれた叔父と、私だけはたまにデートをしていましたが、”独立”を果たしてからは、相変わらずお金の使い方は派手なんですが、ちょっと”やくざ”になったように感じました。昔の、女にもてる、チャーミングなボンボンのイメージから、凄みのあるおっちゃんに脱皮しました。背水の陣だったのかもしれません。

isokenさんも、ご両親や奥様とうまく距離をとりながらも、一皮むけた、凄みのあるおっちゃんに変身なさいますよう、お祈り申し上げます。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/08 02:02

こんばんは。



もう一度だけお邪魔させていただきます。
今日の午前中に手許に届き飽かずに読んでおります。
長編なのですね・・・私は短編、精々中篇なのかなと・・・。

速読の私でもさすがに今日、明日は無理なようです。
5分1を読んだ感想を少しなりと。
モデルはこれはもうCiaopolpoさんの勝手な思い込みではなく、
仰るとうりなのでしょう。
はんさんと芝木さんの交流を考えても頷けます。

青山二郎を想像させる美術評論家ですか?
そこにまでまだ至っておりません。
ただ宗像、これは大佛次郎さんがモデルかな?そう思いました。
香屋先生あるいは小宮にしても、
当時の鎌倉文士、画家と重なりますね。

またお話しする機会もあるでしょう。
その時改めてまたお話しさせていただければと思います。

先日どなたかに内田百閒のことを話しておられましたね。
なるほどと思いました。
小林さんは随分正宗白鳥さんを敬愛もし評価しておりましたが、
内田百閒さんは河上徹太郎さんが評価しておられた。
勿論、小林さんもです。

相も変わらず長くなって申し訳ありません。
青山二郎については正子さんの「今なぜ青山二郎なのか?」、
それと「青山二郎の素顔」、これで十分でしょう。

私の欲しい本がありましてね・・・
「鎌倉文士骨董奇譚」です。
PCが素人以下なものですから、
Ciaopolpoさん何処ぞで見かけたら教えてください。
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この回答へのお礼

ああ、そういえば、ずいぶんと分厚い本でした。

芝木好子の本は、中篇が多かったので、失念しておりました。申し訳ないことです。

そうですね。最初は、弟を交えた画家との出会いにページ数を費やしていました。我慢して読んでいかれると、一柳、確かそんな名前で出てきます。(オノ・ヨーコさんの最初のご主人と同じ姓でしたので、印象が強いです。)宗像は、大佛次郎ですか。なるほど。小宮は、小林秀雄かなぁ、なんて。もうひとつの本では、来宮として出ていました。香屋先生のモデルは、思い当たりません。この人は、作者の創作でしょうか。

”一柳さんの奥さんになる方は大変ね。”

”いや、大切にしますよ。ただし、骨董の判る女を。”

のような、会話が出てきた記憶があります。私の記憶が正しければ、ですが。青山二郎っぽいところです。

内田百閒のお作のうちでは、”山高帽子”を何度も読み返しました。自殺をする直前の芥川龍之介、と思しい人がでてきます。(精神的に不安定な人にとっての、)”きちがい”という言葉に対する、腫れ物に触るような思いを共有していた、二人の作家の友情が、痛ましかったです。

以上、自分で書いていても、判りにくい文章ですね。。。

ブックオフには、”鎌倉文士骨董奇譚”の在庫がありませんでした。残念。アマゾンにはありましたが、お嫌いですか。私のほうは、最近は電子書籍ばかりなので、日本から本を取り寄せることが少なくなり、パスワードが不明になりました!セブンイレブンでも、本が取り寄せられ、意中のご本もあったようですが、私は試したことがないので、これは、なんともいえません。

青山二郎と北大路魯山人について、考えます。二人はなにもかもが対照的で、前者が何も作り出すことがなかったのに、人に愛されたのに比べて、後者は、すばらしい作品を残したのに、生前は、嫌われ者でした。青山二郎にとって、せめて、お探しの本のような、後生に残る業績が評価されるのは、幸せなことなのでしょう。本がうまく手に入るよう、祈っております。

再度のご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/08 01:20

回答13です。



両親の離婚で間に挟まれ、どちらとも疎遠になりました。
また、同時期に私自身の脳機能障害も発覚しました。
障害者が親族にいると家系が偏見を持たれるから、
ドサクサに紛れて縁を切って良かったと、
内心は思っているかも知れません。

家族との別れが十代ではなくてよかったと思います。
NHK連続テレビ小説「瞳」みたいに、
里親のお世話になる事になっていたかも知れません。

現実は、ドラマとは違い、
里親が里子を死亡させる事件も起きています。

世間一般的にはかなり不謹慎な話なのかも知れませんが、
大学を出ていて、得るモノは得た上、
介護や冠婚葬祭の心配がなくなり、
そういう意味では「ええとこ取り」できて、
【ラッキー】だったとさえ、最近では思っています。

ただ、何かあっても親族に身元保証人がいないのは、
いくら定職についていても、ちょっといい家になると、
平均以上の収入があっても、門前払いされることすらあります。
「孤独死」されると「後(ゴミ)始末」が面倒なんでしょう。
酷い話ですね。

あと、私的に日本国外に出るとき、
緊急連絡先の設定にも苦労します。
秋にまた台湾へ出かける予定なんですけどね。

職場にはプライベートな事は話さないし、
今年からの新しい職場は、私用で遠方に出かける際にも、
届け出が必要ないので、誰も知らないまま出国しました。
だけど、次回はどうしようか、悩んでいます。
心細いです。
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この回答へのお礼

親戚に婦長をしていて婚期を逃し、一人暮らしのまま、亡くなってしまった叔母が二人、また、放蕩が過ぎて、親戚一同から、遠ざかっていた叔父が約一名、居りました。

三名とも死後は、検体に出すよう、生前に指示されており、一年後に戻ってきた様子です。たとえば、横浜近辺ですと、鶴見の総持寺、鎌倉の長谷寺、などでは、生前から、死後の永代供養のお願いができるようです。

先週、夫と二人で、医者への指示書を制作してきたばかりです。私は、臓器提供のリストに載っています。閉所恐怖症なので、絶対に土葬はやめるよう、お願いしています。夫も、火葬に賛成しています。ただ、後々のことを考えて、小さな石碑を夫のふるさとにある教会に立ててもらうのが望みです。こちらでは、火葬後の骨は、灰になってしまうので、海にでも撒いて、もらえればよろしいです。そんなことを考える齢になりました。

海外で客死するなら、私は、それで本望ですが、病気となると、本当に困りますね。できる限りの手配をして、後は、なるべく心配なさらないのが、一番ではないでしょうか。確か、マーフィーの法則、とか言いました。

どうか、お気をつけていらしてください。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/05 10:25

いくつか節目はあります。



18歳で上京して一人暮らし。

22歳で社会人に。

28歳で両親が離婚。

30歳で親族と連絡が途絶える。
分籍届を提出。

こんな感じですかね。
今は本当に身寄りのいない独り身ですね。

記念すべきものではないかも知れません。
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この回答へのお礼

三十歳で、ご親族と連絡が途絶えたと。。。ご親族にはご両親もはいりましょうか。犬も、猫も、金魚もいない、本当の身一つですか。。。

バガボンドとは違う、何か、こう、そういう生き方をうまく表現する言葉があったんですが、すみません、出てきません。補足するかもしれません。

アルテュール・ランボーみたい、って言ったら、お気に障るかもしれません。

うちの長男は、さびしがり屋なので、一人暮らしの無聊に、イグアナを飼っています。トイレの躾けは全然できないそうですが、二三日家を空けても、大丈夫だそうです。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/05 05:59

こんにちは。



>独立記念日は、どんな風にやってきましたか。

これはもう否応なく長く勤めた会社の倒産と言う形でしょうね。
私にはもう再就職と言う意志はありませんでした。
人生には自分に良いバイオリズムの時があるそうです・・・。
それを「男時」、「女時」と言うのだそうですが、(向田さんの受けうりです)
思えば倒産が私の「男時」だったようにも思えます。

関係のない話しで申し訳ありません。
URL・・・
遅くとも明後日には手許に本が届くでしょう。
ありがとうございました。
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この回答へのお礼

私は、狂乱景気、バブルの始まる、ほんの少し前に日本を後にしましたので、その後のローラーコースターの様子は知らないのです。ですから、現代日本を”全然知らない”といっても過言ではありません。今でも昭和の日本を生きています。向田邦子さんも、昭和人間でしたね。:)

バブルのはじけたときに起こった社会現象は、ヤフーのニュースで読んでいただけの知識しかありません。それは、大きなうねりのものだったんでしょうね。男時+女時=潮時でいいですか。

そんな時に、独立の機をお感じになったと。

私も会う人ごとに(とくに夫に)家でくすぶっていないで、外に働きに出よ!と言われます。でも、そういうのは、なるようになるもので、この齢になって、無理をして、癌にでもなったらどうするの?という風にお返しします。経済的に逼塞しない限り、自分の心に適うことを、順番をつけてしてゆく決心をしたんです。私は。夫には本当に申し訳ないですが。

関係ない話は、三日ほどしたら、補足、ということで。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/05 05:44

まだまだ、これからです。



誰かに甘えている依存心の強さに、負けています。



11歳で、自ら望んで実家を離れ、養子縁組をして、姓が変わりました。

33歳で、恋愛結婚して新しい家庭を築きました。


思えば、その二大節目かと…


でも、独り立ってはいないのです。


必ず、【支え】となる人がそばにいました…

自立記念日ではありますが…、


心が「独り立つ」のは、死ぬ時かもしれません。



社会人となった日や、成人式の日は、まったく意識がなく、論外です。
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この回答へのお礼

十一歳で、ご実家を離れたときに、”独立”の思いは抱かれませんでしたか。フムム。男性はお強いです。いつも支えてくれる人がいた、ということはhyakkinnmanさんのほうも、いつも誰かを支えておられたように感じました。

しなやかな心を持って、一日、一日を、過ごしておられるような。今日よりも、明日に向けて、心を開いているような、そんな方のように思いました。

間違えていたらごめんなさい。

ちなみに、私の独立記念日は、両親が日本で物故するのを待って、アメリカ国籍をとり、宣誓式に出席したときになるでしょう。日本人でなくなるのはさびしかったですが、やはり、支えてくれる夫がおりました。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/05 05:21

お邪魔します。

 m(__)m

私の場合…一番最初は、就職を決めるときでした。

当時学生の私は一人っ子なので、親の今後も考えていました。しかし、一方で自分がやりたい分野の仕事もあって、それは県外(新幹線数時間の距離)なので、内心どうしようと?

親は常々『お前の人生に干渉しない』だったのですが…流石にそうも決断出来ず…

そんな時、就職活動のある日、親から『お前の人生に干渉しないし俺たちはお前の世話にはならないし、助ける気も無い。自分で生きなさい。どこに就職しようが家は出てもらう』と言われました。その時、『あーそーですか~好きにさせてもらいます~』だったのですが、暫くして自分の希望の遠方の会社(現在)の内定が決まったとき、本当に親たち喜んでくれたのです。そして、わがまま通して傍にいれなくて…と言ったら、いろいろ諭された後に『親の死は最後の試練と愛情』と言われました。独立と言うか、決別の言葉でもありました。

そんな両親は私が30前で何にも出来ないまま亡くなり看取ることすら出来ませんでした。この選択が良かったのか…未だ良心の呵責があります。

失礼しました m(__)m
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この回答へのお礼

ご両親とも早世なさったんですね。新幹線で、数時間の距離でも、間にあいませんでしたか。

親は、子供が社会に適応して、しっかり生きているのを遠くから見守ることができるのが一番の幸せです。自分の植えた木が、厳しい自然のなかで、親の手を借りずに、育ってゆくのを見るときのは、さびしいけれど、誇らしい気持ちです。親は、もう、枯れてゆく木ですから、若木に希望を託します。ですから、私だったら、uniwankoさんの選択は、嬉しかったでしょう。

私も親にはまったく縁がありませんでした。母が亡くなったすぐ次の年に、夫の転勤で母の家から電車で三十分のところに一年暮らし、私が去って、また一年してから、義父が亡くなりました。私にできたのは、葬儀、法事、書類手続き、後片付け、お世話になった皆さんへのお礼、そんなところですが、それは、やはり一人っ子の私にしかできなかったことなので、看病もできず、死に目に会えなかったことへの申し訳ない思いを、何とか飲み込んで、穏やかな気持ちでいるよう、心がけています。でも、正直、良心の呵責はありますね。

そういうわけで、私は子供たちに老後を託す気持ちはないのです。しかし、何かのきっかけで、夫と話したときに、”老後の楽しみは子供たちだ”なんていうのを聞いて、びっくりしました。”自分の親の面倒をぜ~んぜんみていないのに、よくそういうことがいえるわね~?!”と思いました。でも、やせ我慢しないで、正直なところを言ってもらったほうが、子供たちも、それなりに対処のしようがあるかも知れん、と思い直しました。

親の死は最後の試練と愛情、という、ご両親の深いお気持ちに惹かれて、長いおしゃべりをしました。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/05 09:58

10年くらい前に、私をあらゆる意味で虐待していた親から精神的に解放された時。

子供は無意識に、親に洗脳されているのだという怖さに気づきました。産みの親とは訣別。夫が私の育ての親です。今は、私の中の、育ての親の血中濃度が100パーセントです。
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この回答へのお礼

私自身は、放任主義で育ちましたので、親になったときに途方にくれました。

結果、今振り返ると、しなくても良いこと、しないほうが良かったこと、間違いをたくさんしでかしました。正直、あまり良いお母さんではなかったです。もっとおおらかに、子育てを楽しめば良かった、とつくづく思います。

”子供は無意識に親に洗脳されるという怖さ”を経験なさったhaiji さんなら、お子さんが生まれたときにも、あわてることなく、良いしつけができると思います。楽しみですね。

夫=育ての親ということですが、子は親を超える宿命を持っています。子はどんどん成長するからですが、その日が来たときに、また、ご主人ともうひとつ違った、深みのある関係が築けるよう、祈っております。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/04 11:00

私も1999年ノストラダムスが世界滅亡の忌まわしい予言をした世紀末の3月の上旬某日


20年続けた先妻との婚姻を解消。先妻の植民地であったのを2年続いた先妻の不倫をきっかけに
悩みに悩んだ末息子の高校進学を契機に「45歳の独身男」になりました。
前年離婚を報告しに帰った実家で父は「そうか、(やっぱり)あわなかったんだな」と自分の
人生を振り返るかのような口調でつぶやきました。
そのひと月後、父が急死。

1998年の6月にはすでに財産分割、子供の親権・監護権、多額すぎる養育費の支払いなどを記した
離婚協議書を公正証書で調印。私の「独立準備期間」がはじまりました。
20年間自分に課した封印を解いて私は次の人生の伴走者を探しはじめました。
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この回答へのお礼

世紀末は、Y2Kなどといって、コンピューターが大混乱になる、と大騒ぎしていたのを思い出します。

なんだか落ち着かない世相を反映するように、ご家族が大変な局面を迎えておられたんですね。

こう、今まで飽和状態で、微妙なバランスを保っていたものが、風もないのに桜の花びらが散るように、砂が指の間からこぼれ落ちるように、パラパラと崩れ落ちてゆく感覚を、私も味わったことがあります。やはり、親の死は大きいです。

他の回答にも書きましたが、離婚は、ほぼ戦争だと思って差し支えないらしいです。でも、きちんと最後まで戦わないと、とくに男性は、先に進めないように感じました。そこへゆくと女性は、ドサクサ紛れでもうまく帳尻を合わせてゆけるようです。損得で言えば、男性は損です。

次の人生の伴走者さんが、うまく見つかりましたように。
ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/04 10:42

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