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 八重の桜をやっている今年がチャンスと思い
長年の疑問をぶつけたいと思います。
 会津戦争に直接かかわったのは土佐の板垣・伊地知
隊であり、長州兵は関わっていないはずです。
 なのになぜ、長州との遺恨がうまれたのかさっぱり
わからないです。
 詳しい方おしえてください。なお、良い機会なので
私に事実誤認があればご教示ください。

A 回答 (7件)

「長州との遺恨」とありますが、長州から会津への遺恨はありません。


会津から長州への一方的な遺恨です。

しかも現在でも山口県人に対して悪いイメージを持っている福島県人たちがいるようです。

江戸期までならいざしらず、山口県人といっても明治期以降多数の人が他府県から移り住んでいるのにもかかわらず、です。

馬鹿げているとしかいいようがありません。

現に先の大震災で福島県から山口県へ移り住んでいる方もおられますが、もしその人たちがその後代々山口県に住むとなったら、もともと同郷の人たちから会津戦争の遺恨を受けるわけです。

もとの出身は違っても山口県人だからです。

迷惑としかいいようがありません。

また、震災の義援金を山口県から送っても「遺恨が解消されたわけではない」と福島県側から言われ、心からの感謝の気持ちはまったく無かったようです(表向きの感謝はあったとは思いますが)。

この遺恨の原因としては、史実を伴わないフィクションに基づいた歴史小説(特に郷土作家)と無知、そして会津観光が最大の原因です。

八重の桜で白虎隊や女性達の自刃をやっているのを見ましたが、あれってまるで大東亜戦争の日本軍が玉砕をやってるのと同じ印象を持ちました。

かわいそうかわいそうで会津観光が成り立っている訳です。

つまり観光収入を得るためには長州が永遠に悪者でなければならないのです。

なので義援金ごときで遺恨が解消される訳にはいかないのです。

冷静に見れば藩民を守ることが出来なかった指導者が無能だっただけですが。

会津は長州のせいで朝敵にされたと恨んでいますが、その前に長州が朝敵にされたのは会津のせいではないのでしょうか?

会津が長州にしたことを、後で長州からされただけのことです。

また、会津は長州に対して京都で何をしましたか?

そこのところを良くみてください。

会津は弱者で被害者の一点張りでしょ?

それに会津は徳川家に忠義を尽くす藩なのに、徳川慶喜自身戦いを放棄したのになぜ主君に従って戦いを止めなかったのでしょうか?

主君の意向に逆らってなぜ戦い続けたのでしょうか?

会津は被害者の立場を一貫としてとっていますが、そこに至るまでの理由をよく考えてください。

いわれなき遺恨ばかり主張する会津は、どこかの隣国と同じでかかわるだけとても面倒で迷惑です。
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戦闘行為だけが歴史ではありません。



会津にとっては、敵は官軍。
官軍を指揮しているのが、薩摩・長州ですから、会津攻撃を指令した、薩長が最大の憎悪の対象となります。
会津は江戸末期、京都守護職を務めて京都の治安の維持に注力しました。
薩摩は京都治安維持のパートナーでしたが、長州は治安を悪化させる悪者で掃討対象でした。

長州は、この恨み晴らさでおくべきかと、会津を官軍による最大の討伐対象と官軍の意思・決定を導いていったわけですが、このことが長州憎しとなったのでしょう。
既に記載されていますが、西南戦争で旧会津藩士が多数明治政府軍に参加し、薩摩に対する恨みからでしょう、奮戦しています。
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恨みが晴れないとわだかまる。



長州にとっては薩奸会賊というのが幕末の一時期の合言葉。
薩摩は同盟関係になったので、残るは会津だけになります。

さらに会津にとってみれば、薩摩に対しては恨みを西南戦争で晴らしています

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%9C%E5%88%80% …


「山川浩陸軍中佐は、西南戦争に出征する際、「薩摩人 みよや東の丈夫が 提げ佩く太刀の利きか鈍きか」と歌っている。また、会津藩出身で当時陸軍幼年学校生徒であった柴五郎は、西郷軍征討の詔が発せられたことを知ると、「芋征伐仰せ出されたりと聞く、めでたし、めでたし」と日記に書き、さらに西南戦争での西郷隆盛の自決と、その翌年の紀尾井坂の変による大久保利通の暗殺を合わせ、「両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり」と記している。」

以上引用
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lusyferさん、こんばんわ。



会津戦争が長州藩と会津藩の遺恨の始まりではありません。それよりも前に蛤御門の変で勤王のイメージの強かった長州藩は逆賊となり、イメージを傷つけられました。もともと長州脱藩浪士などを含む勤王の志士たちが騒動を起こしている京都で会津藩は京都守護職として薩摩藩を引っ張り込んで、長州藩の追い落としをはかりました。
今度は大政奉還、王政復古の大号令の下、長州藩は官軍になり、会津藩は逆賊になりました。だから、この際復讐を遂げようということになるのです。
また、特に藩主容保が京都守護職時代に新撰組を使って、長州藩の脱藩浪士も殺したりしたので、よけい恨みが強いのです。
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会津戦争によって遺恨が生まれたという認識は、少し違うと思います。


それ以前、禁門の変あたりから長州と会津は直接対決を続けており、もっとも遺恨の大きな両藩ということが出来るでしょう。
会津戦争そのものは、板垣、伊地知隊中心とはいえ、長州、大垣など各藩が参加しています。
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指揮を執ったのは板垣伊地知ですが、長州藩兵もれっきとして参加していますよ。



松平容保の首を差し出さない限り断固会津討つべしとの方針を新政府内で打ち出し強行に推し進めたのが長州だからです。
新撰組の被害にもっともあったのが長州ですし、逆賊の汚名を着せられ都落ちしたのも長州ですので、会津を最も恨んでたのは長州です。

土佐はどうだったんでしょうね?土佐藩士もかなり新撰組に殺されましたが、ほとんど郷士出身の浪人ですので、長州ほどの強烈な感情はなかったのではないでしょうか?
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質問者さんは勘違いをされています。

兵隊がどうしたといた現場レベルの話じゃないんです。会津藩は長州によって心ならずも逆賊にされて朝敵に貶められてしまったという思いがあるのです。

そもそも会津藩は、藩主松平容保が京都守護職に任じられ、幕末の京都の治安を維持した役目を果たしました。京都といえばいうまでもなく天皇のお膝元です。会津藩は財政が苦しく誰もそんな役目を引き受けたがらなかったが、松平容保が徳川宗家への忠義を果たそうとして、厄介者の新撰組の負担まで押し付けられてしまったのです。

それがあれよあれよというまに忠義を果たした徳川宗家が大政奉還で政権を朝廷に返上し、会津藩はいつの間にか、朝敵にまで成り下がってしまった。これは忠義一筋の会津藩にすれば憤懣やるかたない理不尽な処遇でありました。徳川宗家に忠義を果たそうとして京都守護職を引き受けてしまったのが完全に恨めになって、倒幕浪士の恨みを買ってしまっていたのでした。大政奉還と王政復古の大号令によって警察と反政府テロリストの立場が180度入れ替わってしまったのも同然。

松平容保が京都守護職だった頃は、会津藩が警察で長州の倒幕浪士が反政府テロリストという立場でした。だから戊辰戦争以前から長州と会津の間には遺恨があった訳です。会津の立場からすれば長州は天下のご正道をかき乱す無法者ですし、長州の立場からすれば会津は天下一新を妨害する保守・反動勢力の走狗となる訳です。

そういう長州からすれば会津に対する積年の恨みは簡単に水に流せるものではない。例えて言えば戦前、特別高等警察によって共産党員が弾圧・拷問された恨みは簡単に水に流せるものでないのと同じです。

もし戦後、共産党が天下を握っていたら、戦前の警察官は全員処刑されていたのでは無かったでしょうか。

同じことです。人間は感情に支配される動物です。長州には会津の恭順をすんなり受け入れられない遺恨があった。一方、会津にも朝敵扱いは我慢ならないという思いもあった。どうにも相容れない、妥協が成立しない問題です。それが会津戦争に至った背景なのです。

会津戦争に関しては今なお両サイドから矛盾する主張が存在して事実が判然としない問題があります。

しかし会津にすれば新政府軍に会津に攻めこまれただけでも憤懣やるかたない思いがあったということなんです。会津がいったい何をしたというのか。ただひたすらに忠義を貫いただけではなかったか。
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