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邪馬台国=畿内説では、記紀に登場する
倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼、豊鍬入姫命がトヨ、
卑弥呼の男弟が崇神天皇(個人的には崇神天皇ではないと思ってますが)
のように対応させて説明されることが多いです。

奈良県桜井市から天理市にかけて山の辺の道がありますが
その付近に倭迹迹日百襲姫命の墓(箸墓)、崇神天皇陵(行灯山古墳)もあります。

邪馬台国=九州説でも、畿内説のように記紀に登場する人物に対応させるのですか。
もしもそうなら、どのように対応させますか。
やっぱり、卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命ですか?

また卑弥呼の墓や卑弥呼の弟の墓はどの古墳だと考えらえているのでしょうか。

※九州説の内容を質問しています。
畿内説と九州説のどちらが正しいかを問うものではありません。
ですが、余力があれば、自説などもお聞かせください。

A 回答 (6件)

関祐二さんの本やほかの本にもあったかと思いますが、墓の比定はできないんですが、卑弥呼やトヨが誰か、という意味では、次のように示唆していたかと思います。



卑弥呼は、日巫女で役職のようなもの。
当時大和に刃向っていた九州勢力では、山門県(やまとのあがた)にいた田油津(たぶらつ)姫がいて、神宮皇后かこれを打ち破った。この時兄がいたが、多油津姫が殺されたと聞いて逃げた。
この九州勢力が大和に対抗するためにさかんに中国との外交を展開している中で、金印を授かったりしている。
そして、邪馬台国は、当時の読み方ではヤマドや、ヤマドゥという発音とのことなので、この大和の県の姫が日巫女(卑弥呼)として考えられる。
この地を平定した神功皇后が、山口県の穴門(あなと)の豊津に穴門豊浦宮(あなととよゆらのみや)を皇居として築いたとある。
ここから、豊浦宮の神功皇后が、トヨとして卑弥呼を継いだ、と考えている。

こんな感じだったかと思います。ちょっと不確かですが。

ちなみに、この豊については、この後歴史上色々と出てくるのでそこをたどっても面白いですよ。
こんなサイトもありました。
http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/japa …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
関祐二さんの本は読んだことがないんです。
今度読んでみますね。

卑弥呼は、日巫女なんですね。
山門県にいた田油津姫がいて、神宮皇后かこれを打ち破ったのですか。

田油津姫は日本書紀の神宮皇后紀にでてくるんですか。
土蜘蛛?

邪馬台国はヤマドや、ヤマドゥという発音になるんですか。
でこの田油津姫が日巫女(卑弥呼であると。

この地を平定した神功皇后が、豊浦宮を築いた。
この神宮皇后が、トヨであると。

なるほど~。

そのあたりの話は読んだことがなかったので
とても参考になりました。
さっそく神宮皇后紀よんでみることにします。

リンクもありがとうございます。
豊って興味深いですね!

お礼日時:2013/09/13 07:58

 安本美典氏の著書のさわりはこちらで読むことができますよ。



http://yamatai.cside.com/yasumoto/tyosyo1.htm
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この回答へのお礼

おおーー、ありがとうございます。
読みたかったんですよーー。
さっそく図書館で探して読んでみます。
ありがとうございます。

お礼日時:2013/09/15 23:06

もう一度回答しますね。



ヒミコはモモソヒメだー、ヒミコはアマテラスだー、ヒミコはヤマトヒメだー、なんでも良いです。何故か、根拠がないから。

卑弥呼は神功皇后だ、これが時代的にも一番近いであろう答えであり、これ以上に卑弥呼だと考えられる人が日本書紀に登場していないことの証拠です。そして、卑弥呼=神功皇后は、明らかに間違いです。神功皇后は、韓の国の国王を捕虜として捕まえたが逃げられた、というイベントから5世紀後半の人物と考えるのが妥当だからです。つまり日本書紀には卑弥呼に相当する人物が、少なくとも神功皇后よりふさわしいと考えられる人物は書かれていない。これが回答です。

倭迹迹日百襲姫命などと言っているのはにわかです。倭迹迹日百襲姫命は天皇の本流を外れた人物であり女王とするにはふさわしくありません。日本書記編纂当時の人も同様に考えただろうことは上記のとおりです。また箸墓は倭迹迹日百襲姫命のものであると決まったわけではありません。証拠はなく、根拠のない言い伝えのみの話です。

ちなみに卑弥呼はヒミコではありません。発音については、その道の専門家の話を参照ください。

根拠もなく、モモソヒメだー、アマテラスだー、大日如来だー、などと言うだけで良いという質問だったのでしょうか。
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この回答へのお礼

おお、何度もありがとうございます。

>ヒミコはモモソヒメだー、ヒミコはアマテラスだー、ヒミコはヤマトヒメだー、なんでも良いです。何故か、根拠がないから。

おっしゃるとおりです。確実は根拠がないからこそ、いまだに邪馬台国の所在がはっきりしないのです。

>卑弥呼は神功皇后だ、これが時代的にも一番近いであろう答えであり、これ以上に卑弥呼だと考えられる人が日本書紀に登場していないことの証拠です。

そして、卑弥呼=神功皇后は、明らかに間違いです。神功皇后は、韓の国の国王を捕虜として捕まえたが逃げられた、というイベントから5世紀後半の人物と考えるのが妥当だからです。

つまり日本書紀には卑弥呼に相当する人物が、少なくとも神功皇后よりふさわしいと考えられる人物は書かれていない。これが回答です。

あなたの回答は、卑弥呼は誰かという質問に対する回答なのでは?

何度もいうように、私は「卑弥呼は誰か」などという質問はしていません。

もう一度かいておきますね。

【九州説では卑弥呼は誰に比定しているのか、というのが質問です。】

ああ、卑弥呼は神宮皇后で、邪馬台国は九州にあった、という意味だったんでしょうか?

しかし前回の回答では
>日本書紀には、三国志(魏志倭人伝)に書かれている卑弥呼は神功皇后のことであろう、という旨の記述があったと記憶しています。これがヤマト王権の、いわば公式見解です。

と書かれています。
この文章を読むと、大和朝廷の見解が卑弥呼=神宮皇后であると言っているように読めるんです。
邪馬台国=九州説の見解ではなくて。

ちなみに、大和朝廷の見解があなたがおっしゃるとおりのものであることは、前回のお礼のところにも書いたようにまったく同感です。
ただ、ちょっと記述に妖しい点があると思います。

>根拠もなく、モモソヒメだー、アマテラスだー、大日如来だー、などと言うだけで良いという質問だったのでしょうか。

九州説では卑弥呼は誰に比定しているのかについての根拠は、もちろんあったほうが嬉しいですよ。

お礼日時:2013/09/13 08:57

再度書きこみます。

gzz04000です。

卑弥呼=天照大神という説はとくに自分のオリジナルではなく、昔からあったようです。
現在は安本氏(邪馬台国九州説)が唱えています(井沢元彦氏もだけど)。
「天照大神でしょうね」という書き方をしたのは安本氏の著作を読んで、論理自体には自分なりに納得したからです。
(卑弥呼=天照大神 で決まり!! とまでは思いませんが)

倭迹迹日百襲姫命の事跡について、お書きになっていることはまあそのとおりなのですが、女王ではなかったという大きな違いを覆すほどのものとは思えません。

>魏志倭人伝では卑弥呼の墓は径百余歩と記されていました。
>一歩は145cmなので、径百余歩は直径約150m。

一歩の長さは約145cmとは限りません。

ここでは
http://www.mctv.ne.jp/~kawai/old/log/note2012/20 …
径百余歩を80m程度としています。
こちら
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku14/ato …
では径百余歩を30~35m程度としています。
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この回答へのお礼

何度も回答ありがとうございました。

わかりました。
卑弥呼=天照大神という説は、安本さんや井沢さんなど九州説において多くとりあげられている説だということだったのですね。

文意が十分にくみ取れていなかったようで、すいませんでした。

安本さんや井沢さんの本、読んでみることにします。

>倭迹迹日百襲姫命の事跡について、お書きになっていることはまあそのとおりなのですが、女王ではなかったという大きな違いを覆すほどのものとは思えません。

ええ、それはやはり人それぞれどう考えるかということで違ってくるのでしょうね。

魏志倭人伝と記紀の辻褄あわせをしようと思えば、いろんなケースで辻褄あわせができてしまうのではないでしょうか。

それで今まで邪馬台国の決着はついていないのでしょう。

リンクは大変面白く読ませていただきました。

>片足1歩の長さは、足の長さ(文数)のほぼ3倍になる。歩くとき地を蹴り2足分空を掻けて地に着く。つまり3足分前に進む。足の長さ(文数)は人によって異なるが、平均 25.5cm とされ、古来から 25.5cm×3=76.5cm を単位の1歩と決めた。

http://www.mctv.ne.jp/~kawai/old/log/note2012/20 … より引用

と書いてありますね。

『角川漢和中辞典』(貝塚茂樹ほか)巻末の度量衡表では一歩=1.4472mとなっていますが、これだと一里=434.16mとなるので
邪馬台国ははるか南方になってしまうと。

> その第三は、卑弥呼の墓だ。「径百余歩」と書かれた、その長さは、「一里=三百歩」(『周髀算経』等)であるから、「三〇~三五メートル」の円冢(=塚)となる。従って「一五〇~二〇〇メートル」の前方後円墳(たとえば箸墓)などにあててきた、従来の知見は当然否定されざるをえない。

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku14/ato …
より引用。

たしかにこれらの内容は理に適っていると思います。
だけど、人間というものはルーズなので、1里は100m(上のサイトでは76.5mになっていますが)としたが、1歩は1・45mで書いていないとも言い切れない。

とまあ、こんな具合で、延々議論が続いて決着しないのでしょうね。

たいへん参考になりました。

お礼日時:2013/09/13 08:49

日本書紀には、三国志(魏志倭人伝)に書かれている卑弥呼は神功皇后のことであろう、という旨の記述があったと記憶しています。

これがヤマト王権の、いわば公式見解です。
神功皇后でないと考えるならば、日本書紀には卑弥呼に相当する人物は書かれていないということです。

卑弥呼や邪馬台国は三国志(魏志倭人伝)に書かれているものです。まずはこちらを読まれることをおすすめします。(読んだことないでしょ?)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
ですが、質問の趣旨を勘違いされているようです。

質問の趣旨は、邪馬台国=九州説とする立場からは、卑弥呼は記紀の誰に該当すると考えているのかということです。

回答者様がおっしゃる神宮皇后=卑弥呼というのは、日本書紀を記した人物あるいは大和朝廷の見解だと、回答者様自身がおっしゃっておられます。

回答がずれていること、わかりますか?

日本書紀に記されているのは次のようなことですね。

神功皇后39年(239年)、魏志によると明帝の景初3年(239年)6月に、倭の女王は太夫・難斗米を派遣して朝貢した。
40年(240年)、魏志によると、正始元年(240年)、詔書や印綬をもたせて建忠校尉梯携を倭国へ派遣した。
43年(243年)、魏志によると正始4年(243年)、倭王は使者の太夫・伊声者掖耶ら8人を遣わして献上品を届けた。

ちなみに魏志倭人伝の記述は次のようになっていますね。
(すいませんね、魏志倭人伝の和訳は読みましたので。原文はちょっと手においかねます。)

景初2年(238年)6月、倭の女王は太夫・難斗米を派遣して朝貢した。
正始元年(240年)、太守弓遵は詔書・印授をもたせて建中校尉梯儁等を派遣した。
正始四年(243年)、倭王、使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わして献上品を届けた。

魏志では景初2年となっているのが、日本書紀では景初3年になっています。
また魏志では伊声耆・掖邪狗となっているところが日本書紀では伊声者掖耶となっています。
でも、その他はほぼ同じ内容ですね。

これらの記述から回答者様がおっしゃるように、日本書紀は卑弥呼とは神宮皇后だといいたいのだと思われます。

しかし邪馬台国=畿内説では、卑弥呼は神宮皇后のことだと考える人は少ないと思います。
そうではなく、卑弥呼とは倭迹迹日百襲姫命のことだと考えていると思います。

それはやはり箸墓が倭迹迹日百襲姫命の墓だとされているということが大きいと思いますが、
日本書紀の神宮皇后の記事にはちょっとおかしいところもあるせいではないかと思います。

日本書紀にはこうも記されています。

神功皇后66年(266年)、この年は晋の武帝の泰初2年。『起居注(晋の天子の言動などを記した書)』に『泰初2年、倭の女王が貢献した』としるされている。

神宮皇后が没したとされるのは神宮皇后69年(269年/泰初5年)なので、泰初2年に朝貢した倭の女王もまた神宮皇后だと日本書紀は言いたいのでしょうか。

魏志倭人伝の記述は次のようになっています。

正始8年(247年)、卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼との争いを報告。太守は激文をもって卑弥呼に告諭した。
卑弥呼死亡。直径100余歩の塚をつくり、100余人殉葬。
男王を立てるが国中が服従せず、お互いに殺し合った。
卑弥呼の宗女トヨ(13歳)を立てて王とすることで国は治まった。 
張政らは激文を発し、トヨに告諭を与えた。
トヨは、倭の大夫率善中郎将掖邪狗ら二十人を派遣して朝貢した。

魏志倭人伝には卑弥呼が死んだのがいつなのか、はっきりと記されてはいません。
でも、文の流れからみて、狗奴国の男王と争った247年ごろのことのように思われます。

しかし、日本書紀では神宮皇后がなくなったのは、269年となっていて、247年とは大きくかけ離れています。

また魏志倭人伝には泰初2年の朝貢についてはふれられておらず、卑弥呼の宗女・トヨの朝貢についてのみ記されています。

私は日本書紀の抜粋を読んだだけなので誤りがあるかもしれません。
でも回答者さまはもちろん日本書紀お読みになったんですよね?

お礼日時:2013/09/12 11:55

 まあ、邪馬台国の時代ともなると、実際に活躍していた人物の数に比べて、われわれが文献から知ることのできる人物の数など限られていますから、あまり無理やり対比させるのもどうかと思いますが。

ただ、卑弥呼の場合はそれなりの領域を治めていた女王であるので、日本側の記録のどこかに書いてある可能性は高いと思われます。
 やはり女王なのですから、天照大神が最もそれらしいとは思いますが。
 倭迹迹日百襲姫命は王でもなんでもなく、事跡もにていないので、多分違うでしょう。
 卑弥呼の墓については魏志倭人伝の記述からすると余り大きくない円墳のようですから、現在あまり目立つものではないでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

もしかしたら質問の趣旨がうまく伝えられていなかったかもしれません。
申し訳ありません。

九州説の一般論について質問したつもりでした。
その上で、余力があれば自説なども聞かせていただければありがたいなと。

例えば、古田武彦という研究者は邪馬台国はなかった、あったのは邪馬一国である。
邪馬一国は九州にあった。
邪馬一国は大和朝廷となり、7世紀まで九州にあった。

としておられるそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E% …

この説に従えば、記紀の記述は九州王朝を記述したものだということになると思うんですが
それならば、卑弥呼とは記紀に記された誰のことだとしているのか、と思ったわけです。

質問がわかりにくくて申し訳ありませんでした。

回答くださったのは、回答者様の自説ということでよろしいでしょうか?

もちろん、文献というのは限られたことしか記されない上に、
誤りや偽りもあると思います。

また、記紀に記されているのは大和朝廷の記録なので
九州に別の王朝があったとすれば、記紀に記されていなくとも当然だといえるでしょう。

なるほど、卑弥呼は天照大神ですか。
すると男弟はスサノオですね。

天照大神の孫のニニギは宮崎の高千穂に天下ったとされていますから、そう考えることもできると思いました。

倭迹迹日百襲姫命は王ではなかったですが、事跡が似ていないというのは考え方によるかもしれません。
卑弥呼は巫女的な性格をもっていますが、倭迹迹日百襲姫命も大物主の託宣をしたり、乱を予見したり、巫女的な性格をもっているとはいえると思います。

また籠神社で発見された系図には日女命(ひめのみこと)とあり、その脇に「またの名を倭迹迹日百襲姫命」「日神ともいう」などと記されていました。
卑弥呼とは日女命の音に漢字をあてたものだとする説があります。
また、日神というのは天照大神をイメージさせます。

>卑弥呼の墓については魏志倭人伝の記述からすると余り大きくない円墳のようですから、現在あまり目立つものではないでしょう。

魏志倭人伝では卑弥呼の墓は径百余歩と記されていました。
一歩は145cmなので、径百余歩は直径約150m。
(ちなみに倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓は直径155m)
これは最大級の大きさの古墳だといえるんじゃないかと思いますが。

もちろん、長い年月の間に草木が生い茂って古墳であることがわからなくなってしまった、などということもありますから
卑弥呼の墓がないからといって、邪馬台国=九州説ではない、などとは結論づけられないとは思いますが。

お礼日時:2013/09/12 09:04

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