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10代崇神天皇が大国主と國譲りが行われたのが西暦約340年。大国主は須佐之男の息子「日本書紀」古事記では、大国主は須佐乃男の六代目と書いてあるのですが、問題は卑弥呼、死去は魏志倭人伝出入り西暦約約250年
この時代の大王の在位期間は20年前後なので大国主は卑弥呼の子孫ではないだとうか?

A 回答 (3件)

考古学で大和は奈良の小さな地区の名前で二カ所はありえない。


大国主が須左乃男の六代前と書いてあるのですが須左乃男は天照大神やアメノウズメノミコトと同じく神ですが人間ですね。とすると神から人間に成るまで約150年ぐらいですね。卑弥呼はもしかしたら神かもしれませんね。考古学では神と言えば夢物語、しかし魏志倭人伝にのる唯一の倭人なので、これから所説出て来るでしょう。
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この回答へのお礼

出雲國譲りは約340年前後は奈良マキモクイセキで証明されましたが、卑弥呼の子孫説は、否定しません。
しかし卑弥呼九州説だと思います。熊本阿蘇又は大分の渓谷「耶馬溪」と思いますが仮説です。

お礼日時:2017/10/18 23:34

なんか、知った名前を連ねているだけのような感じですね。



邪馬台国(やまと国)は九州の久留米あたりで、ひみお(卑弥呼)はそこの女王です。北九州あたりを治めた連合国の王として魏に贈り物を送ったので、中国の書物(三国志)に倭の王として名前を残していますが、卑弥呼が倭(日本)の女王だなどと思っていたわけではありません。

後に関西に出来た連合国が九州も征服して倭(日本)の王になろうとしたのですが、すでに中国の書物にヤマト国が倭の王の国と書かれていたので、自分たちの国の名前をもヤマト国にしたってだけです。中国の別の書物(旧唐書)に、自分たち(中国)の良く知る倭国(つまり邪馬台国)とは別の小さい倭国(ヤマト国)が征服して、合わせて倭国(ヤマト国)となり、倭という字は良くない字だからと言って日本と名を改めた。とちゃんと書かれています。

どうも日本人は、中国の歴史書に残されている記録をまったく無視し続けていて、また日本書紀などに書かれた『日本は神が作ったときから、その子孫の天皇がずっとずーっと治めてきた地なのだ』っていう見え透いたウソを見破ることが出来ずにいるのは、私にはとっても不思議なことです。
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この回答へのお礼

いえ親和はファンタジー、考古学は、事実、文献は裏ずけ。何十の説が出るのは良いことです。

お礼日時:2017/10/19 00:07

個人的に思うことになりますが、


ヤマト国は当時二カ所以上ありました。倭人伝に載るのは九州のほうでしょう。そこには卑弥呼がいます。
対して、ヤマト朝廷へと併合した畿内のヤマト国は、天照大神から始まったことになっています。これが卑弥呼にそっくりなのです。九州の卑弥呼が同一人物の場合もあれば、畿内のほうにも少し時代をさかのぼって卑弥呼が存在した可能性もあります。四国にも卑弥呼の墓がありますので、卑弥呼が三人いた可能性もあります。出雲文明を辿れば、巫女というは巫女でありますが、大きな仕事として酒の管理があげられます。酒の製造管理を統括していたのが巫女ですので、その風習がのこっているのであれば、出雲にも卑弥呼がいたはずなのです。そもそも出雲の文明ですし。
卑弥呼は文献で女王とされていますが、たぶんただの巫女です。王ではなく、神というものを置いて、その下で役職ある者が必要な働きをして都市を維持するのが当時の出雲文明なのです。このシステムは中国には理解できなかったはずです。文献では鬼道とされています。鬼道から出雲が消えるとこれが神道になります。
倭人伝に載る邪馬台国は鬼道の国ですので、出雲の文明圏です。国譲りが起きるまでは日本の文明圏は出雲と同意義です。天照大神はイザナミの系列だし、邪馬台国でも卑弥呼の血族でなければ国がまとまらないとなっていますので、卑弥呼がそもそも出雲の人だと思われます。
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この回答へのお礼

魏志倭人伝の文献と共に中国の魏国大乱では西暦200年から80年間の内乱をへて6代大王反すると、女性「卑弥呼」を王決めたとあります、この時代戦乱と飢餓で王の在位期間は10年以下なので卑弥呼在位は正確その後90年間半出雲国「倭国」は続き大和地方の大王で滅ぶ。
鬼道は日本独自、銅鐸は黄銅「銅の合金」このテクノロジーは大和の大王には脅威滅ぼした後で天照を銅鏡「中国製」を神のシンボルとした。
しかし卑弥呼二人説面白いですね。

お礼日時:2017/10/18 16:42

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