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0. 次のように考えますが ご見解をおしえてください。

1. この問題は 崇神ミマキイリヒコイニヱが おおよそ西暦300年ごろだとして その以前には どういった〔天皇に当たる〕オホキミがいたのかという問いに代わるものと思います。


2. 外国の資料ですがまづは 邪馬台国の卑弥呼が思い浮かびます。

ただこれは 《共立》されたんですよね。

そしてそう考えるなら 崇神イリヒコとて 《四道将軍》を各地に派遣したともあります。

つまり オホキミと言っても 統一政権では まだなかったのではないか。

継体ヲホドが 世継ぎとして擁立されたときにも なおツクシではヰハイが異議ありの声を起こしているくらいです。


3. ――ということは まづ言えることとして 統一政権を担うオホキミは 欽明アメクニオシハルキヒロニハくらいまでいなかった・・・のではないでしょうか。





4. あとは その前提で 崇神イリヒコなるオホキミの以前に その・それなりの先駆者がいたかという問題に切り替わるものと考えます。


5. いきなり結論を述べますが それは 仮りにいたとしても 各地の共同体ごとにいたと思われる長老のごときムラヲサだったのではないか? もし《鬼道をよくする》卑弥呼のようなシャーマンが治めているのでなかったとすればです。



6. そんなことを言ったら 神武カムヤマトイハレヒコは一体どこへ行ったのか?

7. おそらく一つの解として推量されるのは 神武東征が 応神ホムダワケのツクシからの東上という歴史を反映させているのではないか。

すなわち 統一政権ないしニ階建て構造の国家の成立といった主題をかかげる必要から まだ平屋建ての市民社会のムラヲサであった崇神イリヒコより以前に あらかじめあらましを述べるようなかたちで 神武以下の物語を差し挟んだのでは?

8. 推量にまかせて法螺を吹きましたが それは 応神ホムダワケの五世の孫たる継体ヲホドが コシの国からヤマトに入ったという地理にかんする記事があることにちなんでのものです。

9. すなわち ツクシないしヒムカといったオホヤシマの南の果てからヤマトにのぼってくるという統一オホキミのイメージが 神武イハレヒコの記事では呼び起こされているのに対して アラチ(愛発)の関も北の果てでしょうから オホヤシマを治めるにあたっての地理じょうの統一をやはりイメージさせようとしているのが 継体ヲホドのコシの国に発するという登場なのではないか?

10. 紀元前660年というのは すでに議論されているところで 済ませ得ると考えます。


11. なお 聖徳太子とかいう人は 例の魏への書簡で みづからをアメタラシヒコと名乗っています。つまり このタラシは やはり応神ホムダワケの母である神功オキナガタラシヒメにつながると見ます。


12. そういうわけで 想像を恣にするなら 国家の成立へ向けての統一オホキミへのウゴキは 応神ホムダワケおよび神功タラシヒメのときに胎動し 雄略ワカタケルが 敵対する邪魔者を消したようであって そのあと〔うまく日嗣のミコがどの家系でも絶えて ただひとり〕継体ヲホドが〔全国制覇大作戦の締めくくりとして〕擁立され登場することとなったという一連の過程が考えられるのではないでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • 継体:アフミ(近江)⇒ 〔さらに北の果て〕ミクニ(越)
    応神:ツクシ⇒ 〔南の果て〕神武:ヒムカ

    天下統一のイメージを醸成したかった!?

    ★ 聖徳太子をアメタリシヒコというが、
    当時は
    一度天皇になれば
    生涯位を降りることがで
    きない時代。
    だから聖徳太子はわずか50歳程度で
    太子の身分挫折で昇天。
    ☆ いえ。隋への書で名乗ったところが ミソなのでは?

    ★ 中国人は常識に見て天子は男と決めつけ、
    女の推古をアメタリシヒコの定義から外して
    男でないとおかしいよねで
    今の学者さんは
    どうしても
    男でないとおかしいよねで
    聖徳太子論に固執。
    ☆ ううーん。これは 推古とウマヤドとの連携でいいのではないですか。


    ★ 中国使者応対者が男だったので
    後世学者が
    じゃ
    聖徳太子だろうで
    決めつけ。
    ☆ 魏志で 卑弥呼(ヒめのミと)とともに 《狗奴国の男王 狗古智卑狗(キクチヒコ)》あり。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/08/19 21:37
  • №8お礼欄 つづき

    ★ 史書をうそつきの書にする。
    ☆ ですから たとえそうだとしても 全体像を考えるに 人びとの思想(≒生活態度)とその中核となるもの・またその歴史的な流れについて 推測するのが必ずしもむつかしいとは限らない。という感触です。


    ★ 現代の目で古代を見ることは正しい判断の目を曇らせる。
    ☆ たとえばカシハラ・デモクラシーという概念 これは――そう言われると――勇み足かもです。




    ★ ~~~
    こんなことを載せて、皇室のプライバシーを述べて
    議論できる場があってよかったね。

    付き合ってくれてありがとう。
    ~~~
    ☆ いえ。こちらこそ。ときどき・ところどころ わがファンタジーを軌道修正させてもらっています。感謝です。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/08/21 08:01

A 回答 (10件)

アメタラシヒコが本当に聖徳太子かは疑問あり。


利歌彌太フ利を若御世嗣という解釈で皇太子にして聖徳太子に充てる
説あり。岩波文庫の4370にあり。
となれば、アメタラシヒコは聖徳太子とは別人となる。

中国人は政治を執る王は最初から男と決めていた。
だから、当時、推古帝の御世でも、そんな状態は、無視したのではなかろうか。

女性天皇はあくまで臨時。中国人はそれを無視して
男性天皇が一般的で
妃がたくさんいても
いいという一般概念で
アメタリヒコを男にしてしまった。
当時、推古帝の御世だから、
正確にはアメタリシヒメが正しいはず。

用明帝とか蘇我馬子とか舒明帝とか諸説あるが、時代不一致でつまずく。
一般名詞という説で、推古帝は女で疑問出るが、固いこというなになるらしい。
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この回答へのお礼

★ アメタラシヒコが本当に聖徳太子かは疑問あり。
☆ 書簡でそう名乗ったと。

▲ ヰキぺ:多利思比孤


★ 利歌彌太フ利を若御世嗣という解釈で皇太子にして聖徳太子に充てる
説あり。岩波文庫の4370にあり。
となれば、アメタラシヒコは聖徳太子とは別人となる。
☆ 聖徳でないとしても 書簡を送った倭の国王だとなる。


★ 中国人は政治を執る王は最初から男と決めていた。
だから、当時、推古帝の御世でも、そんな状態は、無視したのではなかろうか。
☆ 《名乗った》という事実だけでよいかも。


★ 女性天皇はあくまで臨時。中国人はそれを無視して
男性天皇が一般的で
妃がたくさんいても
いいという一般概念で
アメタリヒコを男にしてしまった。
当時、推古帝の御世だから、
正確にはアメタリシヒメが正しいはず。
☆ それでもかまいません。《タラシ》の名が出て来ていることが 重要です。


★ 用明帝とか蘇我馬子とか舒明帝とか諸説あるが、時代不一致でつまずく。
一般名詞という説で、推古帝は女で疑問出るが、固いこというなになるらしい。
☆ 時のオホキミ(まもなく天皇を自称する。一般的に言えば 国王)が タラシ系だという事態に注目したのみ。

また 外国の資料ゆえ あやしいとなれば 撤回します。なくてもかまいません。

お礼日時:2022/08/22 18:12

>ぢゃあ ヤマトに来たのが 崇神という名の神武だったとか?



なぜ、崇神と神武を同一にしなくてはいけないか。
ハツクニシラスという共通名があるから?
でも字が違うし、神武は九州から大和に移動した人
崇神はその綏靖~開化を経ているだけで
場所は大和・近畿内で都を1代ずつ転々と移動しただけ。
神武・綏靖・安寧・イトク・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化と
代を経ては何か都合悪いのか。
なぜ敢えて欠史8代にして
間を抜けさせる必要あるのか。

その後も神武と応神重ねて

応神まで行く必要あるのか。

なぜ、代数通りの展開を認めてはいけないのか。

この辺はなぜなの。応神から始めて
雄略を敢えて継体の父とか

どうして、そういう奇怪な系譜に変えねば
いけないのか。

なぜ、いけないの。

素直に神武から継体まで25代続いてはいけないの。
敢えて代数を減らす理由あるのかな。
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この回答へのお礼

☆☆ >ぢゃあ ヤマトに来たのが 崇神という名の神武だったとか?

★ なぜ、崇神と神武を同一にしなくてはいけないか。
☆ いえ。単なるたとえばの話です。

★ ハツクニシラスという共通名があるから?
☆ 関係しますが そうではなくむしろ さくらさんが 神武実在説に傾いておられるので その――かすかなですが――可能性の一つとして出してみたのです。


★ でも字が違うし、神武は九州から大和に移動した人
崇神はその綏靖~開化を経ているだけで
場所は大和・近畿内で都を1代ずつ転々と移動しただけ。
☆ よい譬えではありませんでした。


★ 神武・綏靖・安寧・イトク・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化と
代を経ては何か都合悪いのか。
なぜ敢えて欠史8代にして
間を抜けさせる必要あるのか。
☆ ですから すでに触れましたように崇神らの《イリ》歴史知性の誕生を生活現実の進展において用意した時代であったと見ます。


★ ~~~
その後も神武と応神重ねて

応神まで行く必要あるのか。
~~~
☆ 統一政権の問題とそのための地理の関係で 領土もオホヤシマ全体におよぶということを示したいという問題から 記紀の編集上 つながりを匂わせたのではないか。

神功が はっきりと(霊媒となって) その子の応神が天下統一するオホキミだと託宣したわけです。そのお告げを為すのは アマテラスオホミカミだとも。

これをどうして 重要記事として取り上げないのでしょう?


★ ~~~
なぜ、代数通りの展開を認めてはいけないのか。

・・・
どうして、そういう奇怪な系譜に変えねば
いけないのか。

素直に神武から継体まで25代続いてはいけないの。
敢えて代数を減らす理由あるのかな。
~~~
☆ 減らしていませんよ。もっとも 記述どおりの史実があったとも言っていませんが。崇神以前は 史実の確定は むつかしい。ほとんど無理です。資料がないのですから。

さくらさんにお聞きしますが 神武について どのような歴史のあり方を見ようとしていますか? 

ハツクニ知らしたを記事から受け取るのは分かりますが いったいどんな歴史像として捉えますか? 

弥生時代の以前 明らかに狩猟・採集・漁労なる経済生活にて生きる縄文時代ですよ?

その墓に葬られて遺った遺物は まだ人びとのあいだで副葬品などに格差がなかったという時代です。

お礼日時:2022/08/22 03:37

記紀=古事記と日本書紀の末尾文字を繋げた言葉



中国史観は一つの国に王は一人の男性がやる筈。
でも、日本は祭祀をする人と政治をする人の2人いないと
国が成立しない。
となれば、邪馬台国の卑弥呼時代に
1人の統治担当者の身近に別の祭祀担当者を置くように
人員配置をするのは、人一人一人事情が異なることを
考えると、そういつもいつも、一人の統治担当者
の傍に別の祭祀担当者が来るとは限らぬ。
では、その条件を満足させるのは
神技になる。

では卑弥呼=祭祀担当者は誰だったのか。
時代的に古事記から崇神が政治を担当して
祭祀は誰が?
モモソヒメ?
いや、記紀のいう人の年齢は無理。
人は本当はあんな長寿は無理。
あんな数字にしたのは、当然、日本を古くて神仙が住む国に
見せたいための策謀で、対面保ちをしたいだけ。
人はそんなうまく、常にいつも手元に他人を置くなど、条件=運命が
邪魔をして、できるわけない。

当時の事情と現代事情は異なる。
だから学者は正確な答えを出さない。
自分で勝手に欠史8代という名前をつけて空想の産物に変えて
「いない」という言葉で片付ける。つまり、史書は本当のことを
語らないというように作ったということになる。

仲哀の父が日本武尊、え、日本武尊は30歳で死去。
何で成務の代に仲哀が生まれる。あり得ぬ。
もう日本武尊はいない筈。

つまり、記紀は辻褄の合わぬことを語る史書だということになる。

何で記録を疑って崇神からしか実在を認めず、その前の開化以前はいないという判断をするのですか。

それでは記紀は偽史を書いたのか。

国がそれを許す政治体制になっていたのか。

日本はそんな信用がない国なの。

当時、天皇という名前の役職名はまだないでしょう。

いや、あの名称は後世にできたが、崇神時代に天皇職にいた人ということで
崇神という名前をもらえる人を配置して物語が構成できるように
時代が展開したのでしょう。

どうも今の学者はこういうことをいうと、素直に信じず、疑って、
嘘でしょう。作り話でしょうで片付ける。

寿命年齢を見れば、確かに嘘に見える。
あんな長寿で生きる人なんているわけない。

2で割れば、人の年齢信用できます。

いやよく考えると、それも怪しい。

太陽暦とか作物の収穫時期で説明づける人いるが、
いや嘘でしょう。そんな作物の収穫時期から
暦が組まれて、あんな大きな数値になるように
世の中は展開できるかなあ。

それは小説の世界でしょう。

史書をうそつきの書にする。

読者をバカにして、読者を侮辱している。

古代と現代は政治事情が違う。

現代の目で古代を見ることは正しい判断の目を曇らせる。

記紀ではそれぞれの時代に人壽の差を与え、
どちらの言い分が正しいのか、読者に、
正確な判断をさせない。
誤解を与える。

倍暦にすれば、事は説明できるでしょう。
1年=300余日とせず、もっと短い数字にすればいい?
何で1月が30日でなく、15日なの。
となれば、16日以上の数字で書いた記事を信じなくていいのね。

嘘だよ。人壽を見れば、どこかで人壽が邪魔をする。

同一人で史書によって寿命を代える。

何でそんなことを許したのだ。

誰かが嘘をついて、ウソ記事を許して史書に載せて
許される時代事情があったことになる。

その時代は神様の時代だから、皇室=神の住む世界だから、
それでいいでしょう。

まさか。

それで許されたの。

神武は九州から大和に移動。

それは応神が九州から大和に移動したことの反映?

嘘でしょう。そうなれば、神武なんかいないことになる。

勝手に登場人物を
読者の都合で架空にするな。

誰だって人間を生むには男と女が交わらねば、次代の人間が来ないよ。
崇神の父は開化。
開化の父は孝元。

綏靖の父は神武

それを否定して

史書の歪曲解釈を許して、史書はうそを語る小説にしていいのかになる。

また後で。

こんなことを載せて、皇室のプライバシーを述べて
議論できる場があってよかったね。

付き合ってくれてありがとう。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

★ 何で記録を疑って崇神からしか実在を認めず、その前の開化以前はいないという判断をするのですか。
☆ びみょうに誤解もあります。

① 崇神イリヒコの時代は 稲と鉄との弥生時代を経つつ生産性が上がり経済も成長してきた。剰余価値を古墳の造営に当てようとし始めている。その以前の時代に どういったオホキミがいたと考えられるか?

② せいぜい 《鬼道をよくする》卑弥呼のようなシャーマンを 間接的にせよ 容認する社会であり ムラヲサであった。

③ 欠史八代とよばれる時代は つまりは 崇神イリヒコの《イリ歴史知性》を用意する生活現実が推し進められたと見るのが 妥当。

④ 神武イハレヒコによる統一政権が起きた・・・とは考えられません。崇神なるムラヲサに先駆するウゴキがあったかも知れないけれど そういった推測をしておく程度になると思います。

⑤ ぢゃあ何で神武カシハラ政権が 述べられているのか? のちにその青写真が実現した神功=応神によるワケ/タラシ政権の統一政権構想 これが すでに崇神以前に出来ていたと言いたいためだと考えます。

☆ これで次にも おおむねお応えできたかと。
★ ~~~
神武は九州から大和に移動。

それは応神が九州から大和に移動したことの反映?

嘘でしょう。そうなれば、神武なんかいないことになる。
~~~
☆ 神武に相当する人物がいたか・いなかったかには 言い及ばない姿勢です。



★ では卑弥呼=祭祀担当者は誰だったのか。
時代的に古事記から崇神が政治を担当して
祭祀は誰が?
モモソヒメ?
・・・
☆ よい解決策がまだわたしにはありません。オホタタネコを出すのみです。



★ いや、記紀のいう人の年齢は無理。・・・
☆ いいアイディアが浮かびません。既成の議論にしたがいます。





★ 仲哀の父が日本武尊、え、日本武尊は30歳で死去。
☆ ヤマトタケルについては どうも或る種の英雄としてのエピソードが差し挟まれたといった印象です。(さほどすばらしい英雄とも感じられませんが)。


★ 当時、天皇という名前の役職名はまだないでしょう。
☆ ですね。ただ 家系ないし血筋は――もし脚色があるにせよ―― つづいていたのでしょう。(もし遊牧民の系譜なら 必ず家系を大事にするとか)。


つづく

お礼日時:2022/08/21 07:59


もう1曲
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この回答へのお礼

分かりづらいですね。

元の歌が変えられています。説明したものがありますか?


 *


№6で書き込めなかったのですが 神武イハレヒコにかんしては その後の欠史八代における《ネコヒコ》なる知見から たしかに言わば《カシハラ・デモクラシ》といった理念が 派生してくるようには感じます。

ひとは 《ネコ(市民)‐ヒコ(公民)》の両要素が重ね合わさった存在として成り立っているという人間観です。

根子は 大地の子です。よりみづみづしいいのちに連なる生命体です。
日子は イデアの子です。あるいは さらにイデアをあやつるようになる知性体です。

この《ひとは〈ネコ-ヒコ〉連関として成る》という人間観にもとづき 互いの意志疎通をおこない社会生活をいとなむ・・・といった思想は 神武イハレヒコの宮の名にちなんで 《カシハラ・デモクラシ》と呼んでもよいのかも知れません。


ただし 神功タラシヒメ=応神ホムダワケの政権は すでに継体ヲホドの統一政権をじゅうぶんに展望したものであったと考えられます。

かんたんに言えば 《〈ネコ-ヒコ〉連関》から ヒコがあたかも分離して もっぱら自己だけで立とうとした。すなわち 《もっぱらの公民(ヒコ)》といった社会的職務を作り出した。

ということは 社会に言わば第二階をこしらえ そこにアマアガリした。


カシハラ・デモクラシのあと たしかに崇神イリヒコとオホタタネコとに ネコとヒコとが分離したのだけれど それでもカシハラ・デモクラシは まもられた。

平屋建ての家なるムラで ムラヲサなるヒコと市民ネコとは 分け隔てなく一体であった。

崇神イリヒコは 市民オホタタネコを――疫病をなおす神主としても――とうとんだのである。

イリ歴史知性の社会が 草の根民主主義だと考えられます。

ワケ/タラシ政権は ヨセなるスーパー歴史知性によるマツリゴトであり 単純に言ってみれば 寄らしむべし・知らしむべからずがその標語なように思われます。

お礼日時:2022/08/21 05:31



この歌を聞いてください。
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この回答へのお礼

▲ (古事記:仲哀天皇の段) 
その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后オキナガタラシヒメノミコトは当時 カミを帰(よ)せたまひき。

☆ とあります。ニ階建ての国家が築かれるというのは おそらくここから出発したのであろうと考えられます。そして その子の応神ホムダワケを統一政権のオホキミに祀り上げようとした。

その一連の事件が時をさかのぼって まづ建国の歴史があったといふうに脚色された。これが 神武カムヤマトイハレヒコの記事だと考えられます。




☆ その昔 開化ワカヤマトネコヒコオホビビの妃の《オキナガミヅ〈ヨリ〉ヒメ》と違って オキナガ〈タラシ〉ヒメは すでに《イリ》歴史知性を獲得している。

カミに《ヨリ》つくのではない。しかも・ただし カミに自然本性として《イリ》ゆくのを止めて それを超えてのように カミまたは自己をいと高きところに揚げて カミを《ヨセル》ことを欲しこれを実践(?)したというのである。

《ヨセ(寄せ)なる超歴史知性》の誕生。

イリの前身は 《ヨリ(憑り)なる原始心性》。これは 世界とわれとが未分化一体。



☆ このあと神功皇后は 夫の仲哀タラシナカツヒコに対して あなたは世をまつりごつ器ではない 死の国へ行きたまえと言ったという。

さらには 世の共同自治として罪が規定されその裁きについてもととのえられた。
(あしきものの処理について ミソギよりも ハラへ(除外)によるようになったか)。


☆ そうしたあと この国については《オキナガタラシヒメの今 懐妊中の子(のちの応神ホムダワケ)が統治する国である》と 霊媒となってのごとき神功オキナガタラシヒメの口から ミコトノリが発せられた。


▲ (ibid. )
――今かく言教へたまふオホカミは その御名を知らまく欲し。
と〔武内宿祢が〕請へば すなはち〔オキナガタラシヒメが〕答へて詔りたまひしく
――こは アマテラスオホミカミ(天照大御神)の御心ぞ。また 底筒男(ソコツツノヲ) 中筒男 上筒男の三柱(みはしら)のオホカミぞ。・・・

☆ とあります。このオホミカミは イリ思想におけるオホモノヌシ=ヒトコトヌシの神の上へアマアガリしたものと見ます。

お礼日時:2022/08/21 05:02

12について


雄略はいわゆる允恭の流れで清寧帝で断絶終了。
代わって仁徳の代にワカヌケフタマタの子孫が出て
武烈に後継がなく
皇統断絶の危機が来た時に
若抜け二股の子孫(いわゆる応神4世の孫)のヒコウシと垂仁7世の孫の
フリヒメ
が結ばれてオホドが生まれ、これが継体帝として
迎えられる。その後、欽明帝(本当に継体皇子か疑問あり。継体を差し置いて亡くなる1年くらい前から政務を始め、安閑・宣下の死を待って)が
本当の皇位に即く。

もしかしたら、この当時に
皇統分裂というか古代南北朝でもあって欽明が統一したか。
継体王朝の忘れ形見の宣下皇女達は欽明の后・妃に奪われた。
欽明の出自は謎・秘密ともいう。本当はどこから来たかわからない。
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この回答へのお礼

★ 12について
雄略はいわゆる允恭の流れで清寧帝で断絶終了。
代わって仁徳の代にワカヌケフタマタの子孫が出て
武烈に後継がなく
皇統断絶の危機が来た時に
若抜け二股の子孫(いわゆる応神4世の孫)のヒコウシと垂仁7世の孫の
フリヒメ
が結ばれてオホドが生まれ、これが継体帝として
迎えられる。
☆ はい。


★ その後、欽明帝(本当に継体皇子か疑問あり。継体を差し置いて亡くなる1年くらい前から政務を始め、安閑・宣下の死を待って)が
本当の皇位に即く。
☆ はい。(この点あまりくわしくありませんが)。


★ もしかしたら、この当時に
皇統分裂というか古代南北朝でもあって欽明が統一したか。
☆ それは 考えられると思います。継体擁立派と反対派と。


★ 継体王朝の忘れ形見の宣下皇女達は欽明の后・妃に奪われた。
欽明の出自は謎・秘密ともいう。本当はどこから来たかわからない。
☆ あぁ そこですか。その点は 見過ごしています。

とにかく統一したのなら それで一たんは結着だと見ていました。

それは 物部アラカヒら継体擁立派が じつは 応神=雄略=継体のタラシ系ではなく まさに対立するイリ系だと思われることがからんでいます。

同盟者の逆転が起きた? 


ひとつには 雄略妃のワカクサカベが 思想(≒生活態度)としてイリ系だったという見方にもとづき その子〔だと仮定するところ〕の継体ヲホドなら 擁立したであろうと見たからです。

ワカクサカベは それこそ雄略に対するアース役であったと見るところからです。

雄略の猛々しさに対して何も融和することができなかったようですが アース役を演じたという歴史はのこった。

そういった消極的な事柄でも たとえば万葉集巻頭のうたが 雄略作だとされている事態について 両派の絡みや流れを見ることができるポイントになるかも。 

むろんそれは ワカクサカベが何か策謀をめぐらしたといったことでは毛頭なく ただ雄略から求婚を受けたという事態に際して これをむしろ受け容れアース役を引き受けたのだと見ます。或る種の使命感です。(成果を結びませんでしたが)。

(葛城山で雄略が 一言主の神に出遭ったという事件を――間接的に――ワカクサカベの存在がみちびいた・・・かも知れない)。


人間関係は 《場の理論》としてうごいている。こう考えます。

お礼日時:2022/08/20 12:33

昭和40~50年代の説になるけど....



記紀の記述をそのまま信じるとすると、後世の歴史と比較してありえない点が2つ。

・100歳以上の天皇が多数。でも200歳以上はゼロ。
・親子相続が多く、兄弟相続は超レア。じつは兄弟相続なのに記録上は親子なんでは?
以下、安本美典説。
・よって、古代天皇の年数を2で割れば現実と合う。かつ、親子相続かどうかは無視し、天皇の「代」だけを信じる。
・天皇にしろ、外国の王にしろ、1代あたり概ね10年。
  ※江戸時代ですら、天皇の平均15年。
・以上より、卑弥呼(台与)の時代(中国歴史書より時代は確定)は、
 アマテラスの時代。神功皇后/倭姫/百襲姫では、時代が合わない。
・統計学の制約により、卑弥呼か台与なのかは、誤差のうちなのでわからん。また、天皇の代が多少チョンボしていても結論に影響しない。

※安本美典説は、理系ならだれでもそう考えるという非常に納得のいくもの。(年代に限っていえば。年代以外?理系の方は生後の判別について知識がない)
※そして、統計学的に動かしがたいところにクレーム付けた(例外強調するとか。)のが文系の実態。
 

さて、
>10. 紀元前660年というのは すでに議論されているところで 済ませ得ると考えます。
これ、天皇の年齢問題と親子相続が多い点についてどうやって済ませたの?
という問題が残っています。
すでに議論されている、というのは、
そんなことありえないから実態はどうなの?という議論を意味し、
紀元前660年を字句通り信じちゃだめだ
と思う。
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この回答へのお礼

おぉ。経験合理性をよくはたらかせてくださるご投稿・ご回答をありがとうございます。

★ ・100歳以上の天皇が多数。でも200歳以上はゼロ。
☆ この問題は さくらさんの質問【Q:神武天皇は本当にいましたか】で取り上げられています。

★ ・親子相続が多く、兄弟相続は超レア。じつは兄弟相続なのに記録上は親子なんでは?
☆ 応神ホムダワケの子どもたちは 兄弟でゆづり合っています。つまりは 必ずしも親子で長子の相続というような決まりはまだなかった。



★ ・よって、古代天皇の年数を2で割れば現実と合う。
☆ あぁ。回答がありました。

★ かつ、親子相続かどうかは無視し、天皇の「代」だけを信じる。
☆ これは これも 疑問符がつくでしょう。ふつうは。

★ ・天皇にしろ、外国の王にしろ、1代あたり概ね10年。
☆ これも 決定打にはなりがたい。


★ ・以上より、卑弥呼(台与)の時代(中国歴史書より時代は確定)は、アマテラスの時代。神功皇后/倭姫/百襲姫では、時代が合わない。
☆ 三世紀です。ヤマトトトヒ百襲姫は そのあとでしょう。神功は無理。


★ ・統計学の制約により、卑弥呼か台与なのかは、誤差のうちなのでわからん。また、天皇の代が多少チョンボしていても結論に影響しない。

★ ※安本美典説は、理系ならだれでもそう考えるという非常に納得のいくもの。(年代に限っていえば。年代以外?理系の方は生後の判別について知識がない)
☆ ふふふです。

★ ※そして、統計学的に動かしがたいところにクレーム付けた(例外強調するとか。)のが文系の実態。
☆ わたしは文系ですが そのたぐいからは自由です。
 

★ さて、
>10. 紀元前660年というのは すでに議論されているところで 済ませ得ると考えます。
これ、天皇の年齢問題と親子相続が多い点についてどうやって済ませたの?
という問題が残っています。
すでに議論されている、というのは、
そんなことありえないから実態はどうなの?という議論を意味し、
紀元前660年を字句通り信じちゃだめだ
と思う。
☆ 舌足らずでしたね。この年代や生存年数や史実性やの問題は いま保留するという意味です。

660年説は 縄文時代になるので 無理筋だと思って 採らないと言っています。

お礼日時:2022/08/20 10:28

神武は九州から東遷で大和朝廷創立。


これを初代にして10代目を258か318において
卑弥呼を挟む。
その後に伊勢神宮作ってトヨの時代が来て


古事記のほうが現実的。

1度、古事記の天皇崩御干支を推古から崇神まで
全部西暦当てはめやるべき。

後は微調整でできた物語を
信じるかどうか。

どうも猜疑心で疑って、ひねるから
ブラさん式歴史物語の誕生。

まあそこから、何にもひねらぬ物語を作って
そのうえでブラサン式物語展開するかは
個人の問題。

応神とか
よその時代のあてはめにして
天皇の人数を減らしたいのかになる。

応神を15代にすると
論理矛盾
多すぎるから
敢えて
減らして
神武史は他帝史の繁栄空想小説にしたいのかになる。


継体を雄略帝の子孫にしないと
都合が悪いと
なんか誘導で
民衆洗脳を
謀りたいかです。
史書に書いてある通りで
都合悪いので
小説家があれこれ
納得のいく物語創作競争になっていると
思う。

聖徳太子をアメタリシヒコというが、
当時は
一度天皇になれば
生涯位を降りることができない時代。
だから聖徳太子はわずか50歳程度で
太子の身分挫折で昇天。

中国人は常識に見て天子は男と決めつけ、
女の推古をアメタリシヒコの定義から外して
男でないとおかしいよねで
今の学者さんは
どうしても
男でないとおかしいよねで
聖徳太子論に固執。

中国使者応対者が男だったので
後世学者が
じゃ
聖徳太子だろうで
決めつけ。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

★ 神武は九州から東遷で大和朝廷創立。
これを初代にして10代目を258か318において
卑弥呼を挟む。
その後に伊勢神宮作ってトヨの時代が来て
☆ ん? 台与は 卑弥呼と崇神とのあいだに位置する・・・のでは?

それとも あぁ トヨスキイリヒメ(豊鉏入日売)ですか。アマテラスを祀った。豊=台与説があるそうですね。
(紀では そのあとヤマトヒメにアマテラス神は託されるとか)。

★ 古事記のほうが現実的。
☆ 微妙ですね。というのは やはりオホミワ神社では オホモノヌシが主神であり 摂社の檜原神社にやっとアマテラスは祀られているという事実からです。


★ 1度、古事記の天皇崩御干支を推古から崇神まで
全部西暦当てはめやるべき。
☆ だいたいの目安といったところでしょうか。


★ ~~~
後は微調整でできた物語を
信じるかどうか。

どうも猜疑心で疑って、ひねるから
ブラさん式歴史物語の誕生。
~~~
☆ ううーん。そうですね。崇神=ハツクニシラスという記事と神武はあくまで縄文時代にしかならない(弥生時代だとすると 卑弥呼のようなシャーマン・タイプになってしまう)といった二点から たとえば日本古代史ファンタジーにみちびかれるわけです。


★ まあそこから、何にもひねらぬ物語を作って
そのうえでブラサン式物語展開するかは
個人の問題。
☆ ううーん。でも 全体像は できれば欲しい。


★ 応神とか
よその時代のあてはめにして
天皇の人数を減らしたいのかになる。
☆ それは ちょっと違うかも。応神と神功の登場は 或る意味 異様です。アフミ(近江)・新羅への出征・応神の東上と兄弟の戦い・・・。


★ 応神を15代にすると
論理矛盾
多すぎるから
敢えて
減らして
神武史は他帝史の繁栄空想小説にしたいのかになる。
☆ 欠史八代で見どころは 天皇の名に 《ネコヒコ》が複数出て来ることです。大地の子と日の御子と。つまりは この八代のあとに オホタタネコとミマキイリヒコとが登場します。


★ 継体を雄略帝の子孫にしないと
都合が悪いと
なんか誘導で
民衆洗脳を
謀りたいかです。
・・・
納得のいく物語創作競争になっていると
思う。
☆ 継体は 神功オキナガタラシヒメと近江つながりがありましょう?

つづく

お礼日時:2022/08/19 21:26

前660年ということで


対応史書を探して信頼できる記事を載せている書がない。

日本書紀や古事記は政治的意図で作成された史書で
編纂者はたぶん、今でいう嘘をついて
読者を悪く言えばだます目的で作った意図がみえみえ。

真面目に信じると馬鹿にされるよで
多くの人はこともなげに追い払う。

オオノヤスマロはこれについて
隠さず申し述べようとして
編纂委員会から
除名されたと
思っている。

裁判開いて
多分、
謹慎処分になり、
編纂委員辞退になり、
稗田阿礼と話して
編纂委員を
首になり、

自分で勝手に作り、
秘密の
パンドラの箱にしまい、

焚書坑儒の難を逃れて見つかったと思う。

ブラさんがどう思うか勝手だが、

九州で皇室が発祥したというなら
大和に移るために
最初に
大和朝廷を創立した人がいないと
今の皇室があるわけないと
いう理屈になるでしょう。

つまり神武はその意味での創立者で
崇神が古事記で邪馬台国時代の人に当てはめれば、
258年に死んだ天皇として
その10代前に神武がいないとだめになる。

これを作り話と一掃するのが
凡人の悪い癖。

これを創作にすると、
今の皇室は
あるはずないになる。

まあ、紀元2600を昭和15年にして
真面目に信じたのが
戦前の日本人ですが、
今の若者の多くは
それを真面目に信じる人は
右翼かぶれと
笑う人多いよね。

まあ
伊勢神宮紀元が今から2000年前とか
神武紀元が概算2600年というのは
サバヨミの好きな史家が考えた読者の洗脳を
模索したと思う。

人間の寿命で考えると
137歳とか127歳とかいう史書の神武崩御年齢
これは絶対嘘。

ブラさんの好きな雄略帝(暴君で、殺人が趣味かと知能を疑う)
この帝王は80歳まで待たした妃候補者がいたことを
プロポーズして
その後で忘れていつまでも召さずにいた無責任帝王と古事記がいう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 前660年ということで
対応史書を探して信頼できる記事を載せている書がない。
☆ いや。無理ですよ。だって 縄文時代ですよ。



★ 日本書紀や古事記は政治的意図で作成された史書で
編纂者はたぶん、今でいう嘘をついて
読者を悪く言えばだます目的で作った意図がみえみえ。
☆ いかに脚色があれ けっきょく記事の背後に歴史の大きな流れを捉えることだと思います。


★ オオノヤスマロはこれについて
隠さず申し述べようとして
編纂委員会から
除名されたと
思っている。
☆ それもいかにあれ 残っている資料から 背後の人びとの真実を見つけ出すことだと思います。


★ ~~~
裁判開いて
多分、
謹慎処分になり、
・・・
焚書坑儒の難を逃れて見つかったと思う。
~~~
☆ そこらへんは 何とも〔分かりがたい〕。


★ ~~~
九州で皇室が発祥したというなら
大和に移るために
最初に
大和朝廷を創立した人がいないと
今の皇室があるわけないと
いう理屈になるでしょう。
~~~
☆ そこは 邪馬台国をふくめて とにかくツクシからヤマトへ 勢力が移動した。


★ つまり神武はその意味での創立者で
崇神が古事記で邪馬台国時代の人に当てはめれば、
258年に死んだ天皇として
その10代前に神武がいないとだめになる。
☆ ん? 崇神の先駆者として ツクシにいた・・・ってことですか?

ぢゃあ ヤマトに来たのが 崇神という名の神武だったとか?


★ ~~~
これを作り話と一掃するのが
凡人の悪い癖。

これを創作にすると、
今の皇室は
あるはずないになる。
~~~
☆ たぶん672年(壬申)の乱までの歴史経過を うまく説明することができると よい仮説だと思います。全体像があるとよいのだと。



★ ~~~
・・・

人間の寿命で考えると
137歳とか127歳とかいう史書の神武崩御年齢
これは絶対嘘。
~~~
☆ わたしは うまく全体像にはめ込めないでいます。

★ ブラさんの好きな雄略帝(暴君で、殺人が趣味かと知能を疑う)
この帝王は80歳まで待たした妃候補者がいたことを
プロポーズして
その後で忘れていつまでも召さずにいた無責任帝王と古事記がいう。
☆ 赤猪子については うまくジグゾーパズルにはまればいいのですが。

お礼日時:2022/08/19 12:39

おおよそ間違えていないように思います。

まぁ私は記紀はシロートですがw

神功天皇の三韓征伐が広開土王碑によって390年ごろと、歴史上のクサビになっていますから、それより5代前の崇神が300年ごろというのは合っていると思います。ちなみに魏志倭人伝は250年ごろの話なので、2~3世代ほどのズレがあり、記紀には対応した人物は居ないでしょう。

はつくにしらす天皇が2人いるように、日本書紀には2度の繰り返しが何度も出てきます。これは不都合な何かを隠すために意図的に書いていることでしょうw
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この回答へのお礼

★ おおよそ間違えていないように思います。まぁ私は記紀はシロートですがw
☆ そうですか。ありがとう。たしかに何しろ 神話の記述から何とか史実に近い歴史像をあぶり出そうというのですから むつかしい。あるいは 無謀かも知れません。

ご回答をありがとうございます。


でも――考えるに―― 史実の比定というよりも 大きくひろく日本人の社会とそのあゆみについて主観真実ながら その自然で無理のない妥当だと思われる姿と心をとらえてみたい。とも思います。

素人として 史実の比定は 固有に歴史学にゆだねつつその成果の上で方向性のようなものをつかんでおきたい。


★ 神功天皇の三韓征伐が広開土王碑によって390年ごろと、歴史上のクサビになっていますから、
☆ たしかに。そして 神功《天皇》なんですね。これも そういう視点が出されています。


★ それより5代前の崇神が300年ごろというのは合っていると思います。ちなみに魏志倭人伝は250年ごろの話なので、2~3世代ほどのズレがあり、記紀には対応した人物は居ないでしょう。
☆ ええ。まさにそのように推し測ってみています。

崇神が 258年か318年かと推定されるのですが ラウンドナンバーにしました。



★ はつくにしらす天皇が2人いるように、日本書紀には2度の繰り返しが何度も出てきます。これは不都合な何かを隠すために意図的に書いていることでしょうw
☆ はい。この記事も なにかミステリアスです。そして何かをその記事の背後に物語ろうとしているかに見られました。


崇神と言えば 弥生時代が終わって古墳時代に入る時期ですが だとすると 狩猟採集漁労といった自然経済の縄文時代を――ながい期間――経たあと 稲と鉄がもたらされた弥生の社会生活が 生産性が上がりゆとりを持つようになって やがて古墳の造営にまでおよんで来た。

このときに 〔だとすると ミネルヴァのふくろうは夜明けに現われるというかのように〕 人びとの思想(≒生活態度)もが 熟して来た。

崇神ミマキイリヒコイニヱと言う。つまり 《世界と未分化なヨリ(憑り)なる原始心性》が溶けて 有限なる身ながら自然の姿で積極的に世界に《イリ(入り)する歴史知性》が 誕生した。

日本人における《世界‐内‐存在》の夜明けであったと。崇神イリヒコには 市民オホタタネコもいます。

お礼日時:2022/08/19 03:03

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