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歴史についての質問です!!

卑弥呼は中国に遣いを送ったりしましたが
中国との外交に積極的だったのには何か理由があるのでしょうか?

A 回答 (6件)

もう1つのほうの質問を先にみて回答を書いてる間に時間切れ(私用があったので)になり、こちらの回答をするのが遅れました。



他の方のいうとおり、権威付け、あるいは後ろ盾という意味もあったでしょう。それと同じかそれ以上に、中国の進んだ知識や制度などを取り入れるためという目的があったように思います。あまり指摘する人が少ないのですが、伊都國と邪馬壹國は、漢(魏)の帯方郡と洛陽(魏志倭人伝中には京都とも書かれていますね)に対応しています。倭の使いは、帯方郡が窓口になって贈り物などを受け取ったり、後に一緒に京都(洛陽)まで連れて行ったりしていますが、倭人も魏の使いを伊都國を窓口として贈り物を受け取ったり一緒に女王の居る邪馬壹國まで連れて行ったりしています。有名な『一大率』も、魏の帯方郡などの郡司のようなもので、それを説明しようとして上手く伝わっていないと見れば、一大率の説明も良く分かるのではないでしょうか。また一大率の説明の最後に『如刺史』と(中国の制度の)刺史の如くと書かれているのは、まさに倭が中国の制度を真似る・学んでいる証拠と言えるでしょう。

少し話が飛びますが、神籠石と呼ばれる列石の遺跡が北九州から瀬戸内にかけて存在しています。今のところ、大した根拠もなく7世紀の遺跡だろうと言われています(西暦663年の白村江の戦いで敗れ、唐・新羅連合が日本に攻めてくるのではないかと恐れた大和王権が、各地に”山城”を作った記録が記紀にあり、その関連だろうなどと言われています)が、これはとんでもない間違いです。記紀に記録のある山城は非常に簡易的で現在ではほとんど遺構が残っていないようなものばかりですが、神籠石式山城はそれよりはるかに手の込んだ立派なものです。遺構の残らない簡易的な山城でさえ国家的事業として記紀に記録が残っているにもかかわらず、それに比べれば超国家的事業とも言える神籠石式山城が記紀に記録として残っていないのは、これらが大和王権によって造られたものではないことを明示しているように私には思えます。そしてこの神籠石式山城の分布範囲と、邪馬台国連合の国々の範囲は、似通っているように思えます。もしそうであるならば、これら神籠石式山城も漢や魏に使いを送り、それで得た知識で造ったものなのでしょう。


他の回答に金印の話がでたついでに、こちらも少し。中国人の他国の命名規則は簡単で、その国の言葉の一人称を国名とするというものです。倭国とは、自分のことを『わ』と呼んでいたから『わ国』と名付けられたと言われています。ところが金印は『わ国』ではなく『わの国』(印としては”漢委奴國王”)となっています。これは『”わの”国』と名付けられ倭奴國の金印を贈られた後、日本人側が”倭の奴の國”と間違えたのか、中国人側が自分たちの命名規則に従うと『わの国』ではなく『わ国』であったことに気が付いたのか、真相は不明ですが、そんなところではないかと思っています。ちなみに奴國は『の国』ですが、その後なまって?『な国』となり、福岡平野に、『なの津』『なの川』などの名前で今でも残っていると言われています。
ついでにもう1つ、『わ』というのは当時の日本人の発音ですが、日本語は平安初期ころだったかにワ行とア行の発音が入れ替わっていることが知られています。つまり、当時の『わ』というのは今の『あ』であり、一人称としての『あ』というのは今では失われた日本語となってしまっていますが、時々見かけることもあります。”我”などの意味の『わ』だと思っている人もいるようですが微妙に違いますので、雑学程度に覚えておいてください♪
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卑弥呼・・と言うより、邪馬台国として、中国(魏)に朝貢使節を派遣しました。


卑弥呼は女王ですが、為政的な統治者と言うよりは、祭祀を司る様な立場で、邪馬台国を統治した様なので。

それはさておき、そもそも邪馬台国は、どうやって中国の帝国の存在を知ったのでしょう?
また、遣隋使,遣唐使の時代でも、日中間の渡航は危険を極めていますが、それに先立つこと数百年前に、邪馬台国から何度も朝貢使節を派遣できる航海技術など、どうやって手に入れたんでしょうね?

そこら辺りを考えれば、割と簡単に謎が解けませんか?
すなわち、遅くとも邪馬台国の時代には、中国に帝国の存在を知り、日本まで航海してきた、渡来人が居たワケです。

魏志倭人伝と言うことは、三国時代からその末期。
日本でも有名な「三国志」を読めば、関羽雲長は青龍偃月刀で、張飛益徳は蛇矛など、華美とか凝った武器を駆使したり。
天才軍師の諸葛孔明は、木牛や流馬などと言う運搬具を発明。
赤壁の戦いでは、魏・呉が大量の艦船で、水上戦を繰り広げたりもしてます。
まあ、多少の虚飾があるとしても、日本の戦国時代あたりと、さほど遜色は無い感じです。

渡来人から見れば、当時の倭国など、話にならないくらい「遅れてる国」だったでしょう。
また、その渡来人自体、日本(倭国)においては知識人とか技能者であり、政治顧問的な立場であったりもしたようです。
そう言う事実を知ってて、政治にも参画できる立場だったら、質問者さんはどうします?

その渡来人が、「卑弥呼様、海を渡った向こうに、『魏』と言う優れた文明を持つ国がございまして、その国と外交することで、その文明を取り入れたり、魏国の力添えが得られたら、邪馬台国の発展に間違いなく寄与いたします。渡航は少々危険ですが、実際に私たちも来てますから。」なんてことを、進言したんじゃないですかね?
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邪馬台国の女王としての権威付けの目的が大きいですね。


魏志倭人伝によると、元々、男の王が何代か収めていましたが、倭国大乱あり でその乱を鎮めるため卑弥呼を王としたとあります。
鬼道を用い邪馬台国を治めるためにその権威付けとして238年に魏に使者を送ったとされています。
中国への朝貢外交だったのですが、その際、鏡を多量に貰い、その鏡として三角縁神獣鏡が日本で作られたのですが、実際に卑弥呼が受け取った鏡はもっと小さい鏡のようです。

卑弥呼の後にトヨが女王として即位するわけですがやはり、同様に247年に魏に使者を送り朝貢外交をしていますね。
トヨの即位の過程でも内乱があったようなので、権威付けが目的の大きな部分だと私は考えます。
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諸説はありますが、当時、複数の王が乱立していたため、


卑弥呼は強国であった隣国の中国に日本の王というお墨付きをもらうことで内外に自分こそが真の王だと知らしめたかったからと言われています。
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自国の安定を図るには、外からの強力な支援が不可欠です。


日本がアメリカと必要以上に仲良くしようとしているのも、核の抑止力に期待しているからです。
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貿易では。


(^o^)
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