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東夷伝には次の説明があります。
<国々には市があって有無を交易し、大倭をしてこれを監せしめる。>

岡田栄弘は次のように書いています。
<市場監督が倭人であることをわざわざ断っているのは、市場に店を出しているのが倭人でない、つまり華僑であることを雄弁に物語っている。>

質問は、卑弥呼の時代、華僑が倭国で活動していた、といえますか?

A 回答 (3件)

そこの『大倭』というのは、別で出てくる『一大率』と同じ役職ではないかと考えています。

(そのほうが全体の文章の意味が通ると思います)
つまり、どこかで誤写がおきて大率と書いていたところが大倭に変わっているのでしょう。

ところで、その岡田とかいう人は、とことん頭が悪いですね。

当時の帯方郡、これは今のソウルあたりですが、そこまでは漢の支配領域でした。ただ、少し前まで公孫氏という一族が好き勝手に支配していたのを見ても分かるように、あまり中国人が居たという感じではないです。その帯方郡の南に、馬韓、弁韓、辰韓といわれる韓国の人々が居ました。その南、海を渡ってやっと倭国です。なので倭国に中国の人たちが居たということはありません。
伊都国の説明で『郡使往來常所駐』とありますが、これは公孫氏時代の帯方郡の使者が来た時にいつもここに泊まっていたといった意味でしょう。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
1. 大倭は大率の誤写もあり得るのですね。
2.<その帯方郡の南に、馬韓、弁韓、辰韓といわれる韓国の人々が居ました。>が、<中国人が居たという感じではない>のですね。

お礼日時:2022/08/20 11:58

縄文時代から、主に寧波など長江下流域の中国人が、海流や風に乗って日本に交易船で来ていたという研究もある。



卑弥呼の時代も当然中国人が日本でも活動していたでしょう。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
海路にて交易、ということもあったらしいのですね。

お礼日時:2022/08/20 11:53

卑弥呼の時代に限らず倭寇と呼ばれた人々も、南西諸島から朝鮮半島にかけての海を縄張りとする人々でしたが、倭人と支那人と朝鮮人が混在するような集団だったので、誰と判別するのは難しかろうと思います。

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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
<誰と判別するのは難しかろう>だったのですね。

お礼日時:2022/08/18 17:26

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