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 今、幕末から、明治維新に関する本をいろいろあさって読んでいるのですが、読んでいるうちに、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の「餅つきの例え」を思い出しました。漠然とした記憶なので、調べてみると「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに 食うは徳川」ということでした。江戸時代の狂歌(私は、狂歌というのがどういうものか知りません。現在のサラリーマン川柳みたいなものでしょうか?そもそも、歴史とか、文化にはオンチです。)なのだそうですが、これを「幕末から明治維新の時代に登場する人物や、出来事・事件に当てはめたらどんなことが言えるのだろうか?」という疑問というか、興味が、ふと湧いてきました。

 「戦国から江戸に至る時代」が単純だったとは思いませんが、「幕末から明治維新の時代」というのは、藩の立場、登場人物、思想の変化、事件の背景など、かなり複雑だった(わずかに本を読んだだけの知識に基づく個人的な印象)ような気がしますので、 単純に

  「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに 食うは徳川」

などというようなことでは表現できないと思いますが、日本の歴史に関心を持たれている方が、「幕末から明治維新の時代」をどのようにとらえておられるのか、「教えてほしい」という気持ちになり、質問しました。

 幕末から明治維新の時代を「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに 食うは徳川」というようなフレーズで表現していただければ、おもしろいと思いますが、「天下餅」という単語や、「天下餅=総理大臣(伊藤博文)」などという、人物に当てはめることにもこだわりません。明治維新を表現する興味ある「いいまわし」を教えて下さい。既存の「いいまわし」だけでなく、普段考えておられることなどをご回答いただければ、これから、勉強するに当たって参考になると思います。<(_ _)>

A 回答 (6件)

「黒船がつき 薩長でこねた日本餅 裏で仕掛けて 食うはイギリス」



明治維新は、産業革命後の近代化を迫られた日本という視点で見るので、てんやわんやしているように見えますが、基本的は政治の体制が徳川家から薩長連合に代わっただけで、天皇の存在は基本的には権威のみで変わらず、各藩の大名も爵位をもらって存続していますので、大きく階級を入れ替える革命とは全く異なっています。
薩長出身の政治家たちは結局大名家には頭が上がらずのままでした。

明治維新の発端とされているのは黒船です。当時アメリカは遅ればせながら植民地化をもくろんでいました。しかし、アメリカがこじ開けた日本の門戸ですが、その前後で薩長などを裏から支援したグラバーさんはイギリスの武器商人で、ロスチャイルド系のマセソン商会の代理人という立場です。かれはイギリスが中国を支配したタイミングで日本に来て、同様に内乱を仕掛けるために長州藩士の留学を手伝ったり、竜馬をけしかけたりしています。

ロスチャイルド系のイギリス資本はアメリカでもこのタイミングで南北戦争を仕掛けていて、せっかく黒船で切り崩しに来た(1953年)アメリカも、南北戦争(1961~1965)で植民地開拓どころではなく、この間にイギリスが馬関戦争の戦後処理で主導権を握りつつ安政五箇条条約(典型的な不平等条約)を結び、交易を盛んに行いました。
アメリカは自国内の戦争でこの機会を活かせず、イギリスが日本の交易の8割がたを握りました。
なぜアメリカからイギリスに?という問いが出ますが、実質裏でイギリスはずいぶん動いていたのです。グラバーさんなど有名人が多いのに、日本史ではここを明確に教えませんよね。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございました。又、冒頭に私の希望にも沿った形で回答していただきお礼申し上げます。

 鮮やかに、そしてよく理解できました。

 私のつたない知識ですが、日本の鉄道(「レールの幅」だったと思いますが。)がイギリス式だったと記憶しています。これも「食うはイギリス」ということなのでしょうかね。(*^_^*)

 ただ、「薩長出身の政治家たちは結局大名家には頭が上がらずのままでした。」というところがよく分かりませんので、今後意識しながら、勉強してみたいと思います。

お礼日時:2014/01/16 05:34

明治維新は各藩(幕府含む)の官僚が主導した壮大な三味線です。


騙す相手は欧米列強。
当時の指導者や知識人が見ていたのは国内の敵対勢力ではなく、世界中で猛威をふるいつつある帝国主義そのものであったはずです。
明治維新前後の政治家にとって主要テーマは帝国主義の波の中でどう生き残るかであって、長州征伐や戊辰戦争はその副産物でしかない。

国際政治はゲームにたとえられますが、欧米人にとってゲームの代表格はチェス。日本のゲームでチェスに対比できるのは将棋。二つのゲームの最大の違いは取った駒の行方。前者は死に、後者は敵方に寝返る。

欧米列強、中でも英仏はそれぞれ明治維新において対立する勢力それぞれに投資しました。
その狙いは自分たちが支援する側が勝って総取りし、借金の形に北海道かどこかの島を租借すること。

ひとたびそうなれば中国と一緒で列強の切り取り放題です。
領土は一切くれてやる気はない。
でもそれでは納得しないだろうから不平等条約で喜ばせておいて、その間にせっせと国防力を上げてしまおう。
そのためには一瞬にして体制を近代化するしかない。
まずは内戦のふりをしよう。
そうすれば世界中の武器が大量に日本に流れ込んでくるから相対的に欧米列強との軍事格差が解消される。

将棋の指し手は、パッと見には天皇と将軍の対戦ですが、本当の指し手は岩倉具視と勝海舟を中心とする若手官僚。

将棋なのですから、長州征伐、戊辰戦争と続く中で敵が味方になり味方が敵になるというのは当然のこと。
でも英仏は唖然としたでしょうね。自分たちは誰を支援しているのか、わけがわからなくなったのではないでしょうか。
米露にしてみれば英仏が共同で資金提供して日本を近代化したように見えたことでしょう。
ひょっとしたら明治維新の間、欧米列強は疑心暗鬼に陥ったかもしれません。

「このふざけた事態の主犯は誰なのか?」

露は米を疑い、米は英仏を疑い、英仏は互いに疑うという状態だったのではないでしょうか。

明治維新は本当の戦争(対外戦争)を避けるための外交上の欺瞞だと考えれば、短期間での合従連衡や戦力的には圧倒的に優勢な幕府側がさっさと降参したのも容易に説明できます。
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この回答へのお礼

 大変興味深い「見方」を紹介していただき、本当にありがとうございました。

 あなたの「明治維新は本当の戦争(対外戦争)を避けるための外交上の欺瞞」というのも、現実はどうであったかということは別にしても、歴史の結果から見れば、頷けないことはありません。

 しかし、「明治維新は各藩(幕府含む)の官僚が主導した壮大な三味線です。騙す相手は欧米列強。」というのは、どうでしょうか?そこまで考えて、勤王も佐幕もなく、攘夷も開国もなく、日本の官僚が、一致団結して「三味線を弾いた」わけでもないと思うのですが。

 私が、「すばらしい」と思うのは、「皆、どうして良いのか分からない中」で、むしろ「それぞれの思想・信条」で、時代を切り開いていった、そして結果として「独立」を保った、そして「新たな時代」を創り上げていったということではないか?ということです。それに感動し、今、「幕末から、維新の時代」を読んでいます。

お礼日時:2014/01/15 09:18

NO.3です。



日本は欧米化をうまくできたという成功例が今でも日本にあるように思えます。
これは日本人の(アジアと比べて)先取性みたいなみんなの共通意識になったと思います。

非常に抗争的な時代ですよね。この時代から戦後の平和期をのぞいて、結構日本って穏やかとは言えない時代に突入したのです。


現在、新たなサイクルとして欧米中心から新興国、アジアの経済などまた違う展開が始まろうとしているように思えます。

一部の欧米プラス日本だけが豊かな時代からもっとフラットになってます。新たな時代で何が始まったのか、像を描きたいですね。
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この回答へのお礼

 再度のご回答ありがとうございました。私には難しくて、何とも言えませんが、後半のくだりは、私なりに、「地球規模で消費の拡大と環境の破壊の時代が始まっている」と考えています。欧米中心であることは、今も、これからも変わらないような気がします。

お礼日時:2014/01/15 06:51

ペリー来航以来、私も派閥関係は分かりにくいのですが、開国派と攘夷派、佐幕派と尊王派のようなものに分かれるんだと思います。


他にも一橋派、南紀派とか。
どこまで正確にかけるかわかりませんが。



老中阿部正弘(安政の改革)・堀田正睦の時代

大老井伊直弼の幕府を守ろうとする時代で安政の大獄を経て桜田門外の変

大老松平春嶽の時代(文久の改革)島津久光などが登場して公武合体

倒幕へ



将軍が誰で見るより老中で見たほうが分かりやすいかもしれません。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございました。大まかに言えば「開国派と攘夷派、佐幕派と尊王派」ということかもしれません。その潮流に浮かび上がった人間、沈んだ人間がいるのですよね。いま、本を読みながら、予備知識として、それが知りたいのです。

 「将軍が誰で見るより老中で見たほうが分かりやすいかもしれません」……それは、一面としていえますよね。幕末期の日本のあるべき方向を決めたのは老中ですよね。薩摩でもない、長州でもないですよね。しかし、その「老中」の結末は?15代将軍(慶喜)「様」の結末は?

 こういうことを狂言や川柳で、本質をついたようなものが「何か残っていないのでしょうか?」、あるいは、あなたは、どうお考えでしょうか?……というのが質問の趣旨です。

 

お礼日時:2014/01/14 21:33

シンプルに「わけわからん」ですね。



まず政治関係がややこしくて訳が分かりません。蛤御門の変あたりは、薩長が戦っています。長州藩は、誰が主導権を握るかで藩の方針が180度変わります。しかも、二転三転するのは珍しくない。しかもその間藩主は敬親で変わりません。そうせい公は何をどうしたかったのかがまるで分からない。だけど、そうせい公のバランス感覚は絶妙という他はありません。そうせい公といわれた割に暗愚の主君ではなかったようです。
島津藩は高崎崩れを起こすくらいの激しい内部抗争(もっとも島津家の内部抗争は戦国時代から続く伝統行事でもありますけれども)をしておきながら、最後の藩主忠義はその高崎崩れで激しい藩主争いをした久光の子なのに、藩政の主導権は斉彬派の西郷隆盛が握っていました。高崎崩れは血で血を洗うような激しい抗争だったのに、藩主の座さえもらえれば藩政の主導権を旧斉彬派に握られていて久光公はそれで良かったのか。訳が分かりません。
山内容堂公は、単なる酒乱。そうせい公が馬鹿殿に見えて暗愚ではなかったのと対照的に、容堂公は豪快そうに見えるけどアホですぜ。「酔えば倒幕、覚めれば佐幕」と、結局酔っぱらって思いつきで行動してたようにしか思えまへん。武市瑞山は志士ってことになってるけど、こんなんただのテロリストやん。気に食わない奴を片っ端から斬って回った人だがや。だから最後にゃ岡田以蔵に裏切られるんだよ。

幕末のことを外国人に話しておそらく最も理解不能だろうと思われるのが、「旧幕府側で、殺されたり切腹させれられたお殿様は一人もいない」ということです。新政府側のスケープゴートにされた会津藩も、結局家老が腹を切ったことで松平容保公に対してはお咎めなし。本人は無理だったけど、息子さんは華族(貴族)に列せられます。千葉あたりの小藩のお殿様は「俺ァ脱藩しても幕府のために戦う!」となんと藩主自らが脱藩して徹底抗戦を選びますが、結局このお殿様も旧領民の嘆願により切腹はなし。
それよりなにより、にっくき(?)徳川家の最後の将軍であった慶喜公そのものが明治時代も生き延びて天寿を全うしています。
明治維新は「革命」っていう扱いのときもあるけど、フランス革命なんてルイ16世とマリー・アントワネットに始まりロベスピエールに至るまで断頭台の嵐だったのに。フランス革命に限らず、だいたい革命ってロシア革命もそうだけど旧権力者はスケープゴートにされて処刑されるのです。でも明治維新の場合はスケープゴートにされたのは会津藩で、しかも藩主はスケープゴートにされていません。わけわからん。
というか、明治「維新」のはずなのに天皇制復活で王政「復古」なんだから、新しいのか、古いのか。

というか、それをいったら明治の元勲つまり幕末の志士たちの多くが元々は「攘夷派」だったはずなのに、いつの間にやらみーんな「開国派」になっていて、しかも近代国家建設に見事なまでに順応しています。そのうえ思想的には真逆に「変節」しているはずなのに、誰もそれに葛藤した形跡がない・笑。ちなみにこれは私は日本人の「強さ」だと思っていて、後に第二次大戦後にも鬼畜米英から突然親米国家への「変節」を何の葛藤もなくやり遂げています。
変節は新政府側ばかりではありません。佐幕のために最後まで戦ったと多くの人が思ってる新撰組の鬼の副長土方歳三の世間でよく知られたあの最後の写真。そう、彼はざんばら髪に洋装なのです。ブーツですよ、ブーツ。まだ和服や髷がほとんどだった時代で、率先して外国のファッションを身に着けている。ちょっと、アンタ武士になりたかったんじゃないの?しかもバリバリの剣士に思われていますけど、鳥羽伏見の戦いでやっぱ刀じゃ鉄砲に勝てないと分かるとみるみるうちに鉄砲を使う洋式軍隊の戦術を会得。鳥羽伏見の戦いのたった半年後の宇都宮城攻防戦では洋式の新政府軍を撃退しています。函館戦争時、歳三さんの野戦指揮官としての能力は、間違いなく日本一でしたよ。しかもその函館の反明治政府の独立国は選挙で代表を選ぶ明治政府より近代的な民主主義国家でした。ん?アンタたち元江戸幕府の集まりじゃなかったの?旧政権の集まりが、新政権より民主主義な組織になるって、訳が分かりません。

そして大政奉還からたった5年後には江戸で汽車が開通します。そう、たった5年前まではバリバリの江戸時代。時代は文明開化へと舵を切ります。そんな政治、文化、思想、すべてが劇的に変わる革命がほとんど血を見ることなく(粛清の嵐は吹かなかったし、江戸城も無血開城。市街地が戦場になったのは会津若松と函館くらいです)終わり、日本は急速に近代化への道を歩むのです。

そう、幕末とは、全国を巻き込んだ壮大な「お祭り」だったのです。ええじゃないか、ええじゃないか。突然全国でええじゃないか踊りが大ブームになったのも、幕末維新が「お祭り騒ぎ」だったことの証左ではなかったかなと思います。
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この回答へのお礼

 ご丁寧なご回答ありがとうございました。やはり「わけわからん」ですか?、そうですよね。しかし、そうはいいながらも、なんとなく分かるような気がしているのです。(未熟者ですが)

 そのように思う心の正体を知りたいのです。

 ご回答の内容は、今後勉強していく上参考になると思います。考えてみます。

お礼日時:2014/01/14 21:56

欧米が主戦場となっていて、極東の言葉どおり世界の隅っこで生き延びていた日本ですら外敵の存在を考えなくてはならなくなった。

鎖国なんてヒキコモリの手法ではやっていけないという事で変遷があった。

そんなもんだね。

ただ、他人の考えを聞くならば自分の考えを述べた方がいい。大学などは基本そんな感じです。それともカンニング?
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/01/14 20:53

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