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コトバンクによれば
武鑑の用語解説 - 江戸時代,諸大名の氏名,本国,居城,石高 ,官位,家系,相続,内室,参勤交代の期日,献上および拝領品目,家紋,旗指物,重臣 などを掲載した小型本。

「献上および拝領品目」が記載されていますが、これはどのような目的で載せているのですか。
必要だから、あるいは要求があるから載せているはずですが、どこそこの大名が何を献上し、何を拝領したかを知ることは、大名同士の付き合いでは重要である、ということですか。
それを知って、何をしようとしたいのですか。
この情報はどこで仕入れてくるのでしょうか。
よろしくお願いします。

A 回答 (14件中1~10件)

こんにちは



>「献上および拝領品目」が記載されていますが、これはどのような目的で載せているのですか。
献上・拝領品については、大名の家格・格式の一部を形成しています。ちなみに、山本博文著『参勤交代』(講談社現代新書)には、
「この献上と拝領は、それぞれの家の家格によって定められたもので、武鑑にも記され、周知のことになっている。
たとえば、御馬の拝領は、高い格式の家だけに許されたものであるが、石高によって決められているわけではなく、それまでの将軍家との関係で決められる。このように、石高や官位や拝領品などが、それぞれ微妙に基準で決められていたからこそ、諸藩は自家の由緒を主張して、他藩と差別化する家格を獲得できる余地があるという幻想を持ち得たのである。」
としています。ですから、譜代外様の別(記載順により区別)、石高、江戸城中の詰め席、などと共に、大名家の家格を示すものとして記載されていることになります。
この件に関して、同じ山本博文著『江戸お留守居役の日記 寛永期の萩藩邸』には、参勤で参府到着のお礼言上の献上物の品物について、萩藩の留守居役が老中土井利勝に相談していることが記され、土井の返事により献上物を変更したことが述べられています。
さらに、別の本ですが、分家大名が、本家と同じ品を献上したいと願ったことに関して、幕府(老中)は拒否しています。献上物は大名側から勝手に献上できるものではなく、「なにをどれだけ献上するかということ自体が家格に結びついた特典で」(山本博文著『江戸お留守居役の日記 寛永期の萩藩邸』)す。これは拝領品についても変わらず、品物・数量の変更は家格・格式の変更でもあったわけです。
>「それを知って、何をしようとしたいのですか。」
この件に関しては、武鑑がどのような人々に購入されていたのかを考えてみますと、重複しますが、大名・幕府役職者を中心とする旗本(公家の例もあり)、幕府や大名家に仕える奉公人、武家方に出入りする町人・商人、全国的に各藩を含む御用達町人を含む町人や村の名主層、江戸見物に来た人(参勤交代で参府した大名家家臣を含む)、田舎への土産を買う人などがあげられます。以上の内容は、『江戸幕府 役職武鑑編年集成一 正保元年~寛文十二年』の「解題」の「(3)武鑑の利用者」の内容をまとめたものです。ただし、「江戸見物に来た人(参勤交代で参府した大名家家臣を含む)」の部分は他の史料で補足しています。
さて、その「解題」の中で、
幕府への上納は、管見の限り、出版物では武鑑のはかには暦問屋が納入した「暦」しかない。細工所への恒常的な納入は、原則として出雲寺版の『大成武鑑』に限られ、出雲寺が出版していない時代は代わりに須原屋版が出雲寺を通じて納められた。御側(側衆のこと。将軍側近で文書・拝謁の取次)・奥(*大奥ではなく将軍御座の間のある中奥のこと)・御用部屋(*老中・若年寄の執務部屋のこと)へは無代で、その外の役所へは、町値段で納められた。武鑑が幕府の役所で使用されたことは、幕府の旧蔵書を引き継いだ国立公文書館や国立国会図書館に現在でも多く所蔵されていることから、そして、そこに所蔵されている武鑑に「御普請方沿革調」(方形朱印)、「御普請方役所買上」・「書物調」・「御用所」(墨書)などの書印や文字があることから、明らかである。
としています。つまり、幕府それも政権中枢の将軍・老中・若年寄・側衆も利用していたことになります。また、幕府自体が武鑑を活用していたことも分かります。さらに、「解題」には大名家が購入していた例なども挙げられており、まずは、幕府・大名が、各大名の家格などを簡便に見る資料と活用していたと考えられます。
これは、幕府には武鑑のもとになる家督相続の申請書などの写しは奥右筆部屋などにあったはずですが、それは、各大名別のものであり、個々の案件ごとのものであり、つまりは申請書の積み重ねで、年度別の一覧は作られていなかっただろうと考えられます。もし、あるとするならば、奏者番が、大名の将軍拝謁にあたり、大名氏名・献上品等を御前で披露し、下賜にあたっても関与しますので、武鑑の中の主要な項目については、覚えておく必要があり、備忘録的な文書が各奏者番(主に譜代大名の任命)は持っていたと考えられますが、幕府の各機関で恒常的に、武鑑のような網羅的な資料は作られていた様子は見えませんので、武鑑は必要だったと思います。当時の隙間産業のようなものだったと思います。「それを知って、何をしようとしたいのですか。」については、各大名の置かれている立場、家格・格式を知ることとまず考えられます。
奏者番
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%8F%E8%80%85% …

また、献上品について誤解があるようですが、地元の特産品とは限りません。馬代・太刀代などのように金品で代用した(初期は実際に馬・太刀を献上)例など、金品で代入したことも多く見られます。また、上州沼田藩土岐家のように海に面していない沼田なのに、正月の献上品が「寒塩鯛」という例もあります。献上品も地元の品だけでなく、江戸等で調達もされてもいます。逆に大和の大名の献上物に「三輪索麺(素麺)」とあるなど、地元の名産を献上する(許される)大名もいます。それらの面では、商人の関心があったのかもしれません。
この、質問についてはズバッとした話は出来かねます。江戸時代人と、現代人との関心の持ち方が違っているからです。さらに、「献上および拝領品目」が家格・格式の一部という理解が難しいことだと思います。
一つ付言すれば、准譜代(お願い譜代)の脇坂安董が寺社奉行に再任した時、前回の寺社奉行時代に醜聞をビシビシ摘発された僧侶をからかって、「また出たと 坊主びっくり 貂の皮」という落首がでました。この貂の皮とは脇坂家の槍印で、人口に膾炙したもので、脇坂安董のことを暗喩します。つまり、脇坂安董=貂の皮とわかるからこそこの落首は作られたのであり、当時の人が、この槍印を知っていた、関心を持っていたことになります。なお、槍印についても家格・格式があり、槍印を一本の家、二本の家では家格・格式が違いますし、原則四位以上、20万石以上で爪折傘の使用が認められるなどの家格・格式による差別があります。また、槍印は貂の皮のように大名により形状が違うことも多く、大名見物の場合の目印として利用されていたことが知られていますし、江戸城に登城する場合、大名行列同士がぶつかりあわないように各藩で物見を出しますが、このような時にも利用されます。
横道にそれましたが、「貂の皮」の例のように、「献上および拝領品目」を知ることも広い意味での当時の教養の一部であったとも考えられます。
脇坂安董
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%87%E5%9D%82% …

>「この情報はどこで仕入れてくるのでしょうか。」
また、『江戸幕府 役職武鑑編年集成一 正保元年~寛文十二年』の「解題」で申し訳ないのですが、その中に対馬宗藩のことが載っています。延宝八年に宗家が二万石格から十万石格に改められた時に、何年たっても訂正されないため、江戸家老が板元と交渉したことが載っていますし、改訂を求めた大名として、白河阿部家、因幡若狭池田家の例もあります。武鑑への記載を要望した御三家付家老五家や、幕府下級役人の例もあるようです。「解題」には、「武鑑という出版物のもつ情報伝達力と社会的影響力を多大であると認知した大名、大名家臣、幕府の役人、また御用達町人はさまざまに行動し、それを見越して幕府は対応した。」としています。さらに、「幕府は武鑑を「不軽品」として猥りな板行を禁じた-中略-(*安政六年に)幕府が輸出を禁止した書籍は、「一、法度之儀認候書籍幷雲上明鑑、武鑑、-以下略-」」とされます。武鑑に誤記・欠落が多いと指摘され、「幕府は民間が出したもので、信用に足るものでないとしている。」(「解題」)という反面、「寛政年間に武鑑が幕府の編纂物と見まごうまでになっていたことを示して興味深い。」(「解題」)としています。以上のことから考えて、情報源は大名家臣であり、幕臣であったことが考えられると思います。

以上、参考まで。そう言えば、「大名家の婚姻」はもう少し締切を遅くしていただきたかったと思いました。確認と調べの間に締切になったので。
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この回答へのお礼

詳細で的確なご回答をありがとうございます。

>武鑑が幕府の役所で使用されたことは、幕府の旧蔵書を引き継いだ国立公文書館や国立国会図書館に現在でも多く所蔵されていることから、そして、そこに所蔵されている武鑑に「御普請方沿革調」(方形朱印)、「御普請方役所買上」・「書物調」・「御用所」(墨書)などの書印や文字があることから、明らかである。

合点!合点! なるほど! すっきりしました。
私は、大名家だけを視野にしていました。
そうか! 江戸城の殿中でも重宝されていたのですね。
例えば表坊主の場合、職務上、献上品・拝領品について自分が受け持つ複数の大名だけではなく、他家についても「何を何月にいくら」と知っておかねばなりませんから、取り敢えずは武鑑で予め概要を把握できます。
それなら、献上品について事細かに記載されている理由も少し分かった気がします。
小川恭一著『柳営談』によれば献上の儀式は、それはもう大変なんだそうです。

「それを知って、何をしようとしたいのですか」と質問しましたが、これは武鑑を大名家が利用することを前提としていました。
幕府役人が利用しているとなれば、この質問の意味はありませんね。

年度末の整理のため市立図書館が休館中なので、
藤實久美子著『江戸の武家名鑑:武鑑と出版闘争』(歴史文化ライブラリー)を読んでいませんが、下記のような記述があるそうです。

以下、あるブログからコピペ。
書物師・出雲寺の場合、毎月、改訂版を幕府に上納することを求められている。実際には、多い年で年2回に留まるそうだが、急な人事異動があると、該当箇所だけ彫り直して(版木に埋め木をする)改訂版が刊行された。

幕府役人も使用していた、と教えていただいたお陰でここまで辿りつくことができました。
感謝の気持ちでいっぱいです。

情報の入手源についても納得しました。

それから「大名家の婚姻」の質問では、早く締め切ってしまい大変失礼いたしました。
今後、十分気をつけます。

お礼日時:2014/03/14 18:40

こんにちは。


NO10で回答した者です。懇切なお礼をありがとうございました。
ところで、『江戸幕府 役職武鑑編年集成一 正保元年~寛文十二年』の「解題」の筆者は、藤實久美子氏です。
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この回答へのお礼

ご親切な追記、ありがとうございました。

お礼日時:2014/03/16 17:17

>町人・商人はなぜこのような情報を知りたかったのか、という疑問が残ります。



貴方がそれを知りたいと言うレベルで、知りたがったのに答えて記載したのでしょう。

時代と共に内容が拡充されていったのがその証拠です。

必須項目であるなら、武鑑の登場時から明記されるべき情報でなければおかしい筈で、最初期には載っていない理由の説明が付きません。

>献上品の項目だけは、武家も便利に思ったことだろう、というくらいの理由しか思いつきません。
しかし、もともと大名家がどのように利用していたのか

実は私には武士が武鑑をどの様に利用するか、どうしても想像が出来ません。

江戸時代は現代とは違い、驚くほどに他家との交流は一切ありません。(縁組以外)

また養子として他家の君主になったとしても、藩政の改革などは通常不可能です。

何故なら「家風」が決まっているからです。

上杉鷹山がどの様に改革を進めたかを学べば、見えてきます。

それ程に「他家」は別の「国」なのです。

これが旗本であれば、大分話も変わってくるのですが、大名家では他家と関りを持つ等は在り得ません。

例えとしては相応しくは無いですが、おいたをした子供を注意したとして、その親が「他人の子育てに口を出さないで!」と言う発言が近いでしょうか。

「家」の事は「家」で決めるのです。

ですから、逆に私は武鑑を武士がどう利用するのか?と考えた場合に、ご奉公にはまったく・一切・全然使い道が無いので、利用の方法が判りません。

江戸時代は“究極”の「縦社会」なのです。

そもそも大名「家」同士が付き合う事が、「禁忌」なのです。

公式な付き合い以外は必ず公儀を通して行わなければ、取り潰しの危険を招くだけですので、大名家が武鑑レベルの情報を役立てようがあるとは思えません。

武士にとっての必須の教養は「作法」です。

>安価な簡略本にもこの項目は記載されているのか、という疑問もあります。

これは残念ながら私には判りません。

「武鑑」の名は使わずに、複数の版元から出版はされていたみたいですが、それ以上は判りません。
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この回答へのお礼

しつこい質問者に根気よく付き合って下さってありがとうございます。

確かに幕府・大名家が武鑑をこのように利用したという記録がある、と証明しない限りいつまで経っても憶測ばかりですね。

>貴方がそれを知りたいと言うレベルで、知りたがったのに答えて記載したのでしょう。

多分、そうだと思います。
町人にとって、献上品や拝領品はどうでもいいことですから。
しかし、どうでもいいことでもちょっと知っておきたい、と思うのは当然ですから。

お礼日時:2014/03/16 08:51

初期は様々な版元が、中期より須原屋茂兵衛の独占事業になります。



幕府御書物師の出雲寺和泉掾の出版もここで終了になります。(詳細は判りません、誰か知りませんか?)


「武鑑」は内容的に武家を扱っており、危険な内容でもあります。

内容的に危険な可能性のある書物は事前に幕府に献上するのは常識と言えます。

「解体新書」も事前に「解体約図」を出し、解体新書本書も田沼意次に献上されています。

大切な事は営利団体である、民間の版元が出している事です。

確かに現存する武鑑の多くは大名家の所蔵品から見られる事が多い事は、保存・保管レベルから想像に難くありません。

正直、正確な発行部数のデータが私の手元には無く、想像の範囲を出ませんが、三百藩相手に発行していただけでは儲けにはなりません。

四巻から五巻構成なので、それなりの値段になると思いますが(通常の本で、一巻五千円程度と言うデータですが、誰か知りませんかね)


実は江戸時代の本は初期では初版百部・二百部で刷りました、中期でも千部で千部振る舞いというお祝いをしました。

また本は腐らないので、回し読みをすればそれですむので、発行部数は現代とは比べ物にならない少数でした。

また版木も腐らないので、江戸初期の本を末期に再販した例はいくらもあるそうです。


しかし武鑑は毎年更新し、古い物は意味を成さなくなりますので、版木の存在も保管の意味を成しません。

版木の職人は現代換算で腕のいい者で一日一丁の仕上げで一万円(銀五匁)ほど。

材料費を合わせて一丁(二ページ)のコストが約八匁。

五十丁(百ページ)で四百匁で約七両。

これに紙代、刷り師のコストが計上されます。

これを毎年更新しなければいけない宿命の本ですが、しかし買う方も暦と同じで毎年になります。

大体、一枚の版木で四・五千枚刷るのが限界と言われていますので、恐らくは再販の意味が無いのと、毎年の売れ行きを予想して、限界まで刷った事と思います。


武家をメインにした本ではないのは自明の理なのです。


家格の確認の為との事が言われていますが、確かにガイドブックにはなったでしょう。

しかし江戸期の人間の行動も格好も家格や身分で厳格に定められていました。

江戸場内では家格で詰める部屋が変わり、並ぶ畳にも序列が求められます。

行列では供揃えの人数や、警護・儀式などが細かく規定されています。

誰と知らずとも、一目で序列は確認できるシステムになっていました。

現代人でも判り易い例で言えば、町人髷と武士髷の違いや、女性の既婚者のお歯黒等でしょうか。

また、そもそも大名同士の交流が制限されていますので、公式行事でもなければ(登城等)顔を合わせません。

それ以外ではトラブル回避の為に、鉢合わせない事が家臣の至上義務でした。

鉢合わせた場合、相手の家格しだいによっては、自分の主君に道を譲らせなければならないのです。

公式行事でもないプライベートで江戸の中で(国許では起き得ませんから)これを主君に行わせると言うのは、どうでしょう?


また、質問者様は献上品を気にしていらっしゃるようですが、これらは江戸初期は兎も角、安定してからは儀式的色彩を帯びてきます。

決して賄賂や袖の下的なものではありません。

あくまで将軍「家」に大名「家」から送られる物であって、更に言えば将軍の統治が行き届いていて安定した世である事の証明の意味も暗に含まれていました。

ですので、変更は基本行わない姿勢で毎年判を押したように行われます。


賄賂的な色が強いのはお歳暮お中元その他で、献残屋を間に挟んで、老中等時の権力者や上役に非常に盛んに行われていました。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。

武鑑が主に町人・商人を対象に出版されたことはよく分かりました。

私の疑問は、なぜ武鑑に「献上品・拝領品」が記載されているのか、という疑問です。
たとえ献上品の情報を出版者が容易に入手できるにせよ、献上品の名前だけでよさそうなものですが、「何を何月にいくら」献上したと記載したのは、おそらく載せる価値があったのだろう、と想像しています。

では、町人・商人はなぜこのような情報を知りたかったのか、という疑問が残ります。
安価な簡略本にもこの項目は記載されているのか、という疑問もあります。
献上品の項目だけは、武家も便利に思ったことだろう、というくらいの理由しか思いつきません。
しかし、もともと大名家がどのように利用していたのかという質問ですから、この疑問が解消できたので明日、締め切りたいと思います。

版木に関しても教えて下さってありがとうございます。

お礼日時:2014/03/15 18:35

No.5・6・7です


再三のお礼を頂き有難うございます。
またまた蛇足です
お礼のコピペの年代に全体の経済情勢に関わる前後の事件を追記してみました。
・1688-1704年頃、元禄期の生類憐れみの令に関わり、一時期、鳥類・海産物の献上が禁止され、代替品におき換えられる。
   1716年吉宗が8代将軍に就任 
   1722年水野忠之が老中に就任し享保の改革が始まる
 ・1722年、幕府への献上行為、家相互の贈答行為を小規模化、かつ領国内の産物に限るよう命じられる。
   1753年~1757年宝暦の飢饉
   1761年信州上田藩で全藩一揆が勃発
・1761年、産物が不出来で献上不能のときは、他の品物に替えて献上。
   1783年~1788年天明の大飢饉
   1787年松平定信老中筆頭に就任 倹約令を発令
 ・1788年、従来からの献上品でも無用のものは品替えして献上。
   1789年奢侈を禁じる
 ・1789年、高島藩の寒瀑蕎麦、漬蕨に替わって時献上品となる。
 ・1789-1801年頃、規模を誇る献上行為や義務的献上行為が戒められる。
時献上の変遷と経済情勢がほぼ一致していることにご注目願います。
武鑑が民俗学の先生方が重宝にするわけです。
時代小説家もこれでしっかり儲けているのでしょうね~。

諏訪高島藩が寒曝蕎麦に代えたようですが。
参考までに他藩の時献上蕎麦を並べてみました
寒中挽抜蕎麦……上野国小幡藩 松平家
寒中殻蕎麦、暑中うどん粉……上野国館林藩 秋元家
十一月蕎麦……上野国沼田藩 土岐家
十月、十一月の内蕎麦……下野国大田原藩 大田家
十月蕎麦……信濃国飯山藩 本多家
暑中信州寒晒蕎麦……信濃高遠藩 内藤家
十月、十一月の内引抜蕎麦……武蔵国岡部藩 安倍家
寒中引抜蕎麦……出羽国天童藩 織田家

一口に蕎麦といっても色々あるようです。
信濃国高島藩 諏訪家の暑中寒晒蕎麦というのはどのようなものでしょうかね~
その他の地方からはうどんやうどん粉もあったようです。
まさか将軍様は蕎麦やうどんばっかり食べていたわけではないでしょう。
前例主義、儀礼主義というのは厄介です。
それを又、調べて書籍にしてしっかり儲けている輩がいる、というなんとも長閑な時代です。
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この回答へのお礼

何度もご回答頂いて恐縮です。

>時献上の変遷と経済情勢がほぼ一致していることにご注目願います。

なるほど、これは分かり易いです。
「飢饉」「倹約令」「奢侈を禁じる」等の出来事と絡めてみることなど、思いも寄りませんでした。
質問した甲斐があります。

お礼日時:2014/03/14 18:58

2番です。



追加の補足です。

>献上品、拝領品は、「江戸留守居役」同士の「寄り合い」であれこれと話題にできる格好のネタと言えますね

寄り合いでの会話などは私の知る限りでは記録が無く、何を話していたかは不明ですが、もっと切実な内容を話していたようです。

一例で言えば参勤交代での日程などで、同じ宿にぶつからない様にとかのトラブル回避や、また克ち合う場合の事前の根回しですね。

現代で言えば、いわゆるロビー活動と言う類の物に当たるのではないでしょうか。

武鑑に書かれている内容はあくまでも庶民に知る事の出来る範囲の内容でしかありません。

「武士の事を知りたい」と言う好事家の欲求に答えるレベルの読み物です。

表の情報とでも言いましょうか・・・。

幕政に口を出せない庶民の一種のはけ口という面もあるかもしれません。

江戸の庶民は諸藩の参勤交代の列にも土下座の義務はありませんでした。

将軍の領民だからです。

その江戸だからこそ、大名の情報を本にするという行為も出来たのでしょう。(それぞれの藩では不可能でしたでしょう)

そして庶民に知らせられるレベルの情報の価値などは、推して知るべしでしょう。


根本的に「武鑑」の存在は武士にとってのモノではないという所がポイントでしょう。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。

寄り合いでは、もっと切実な問題が採りあげられたことに違いありませんね。
むずかしい話をする前に「今年もよい“蕨粉”がとれたのですか。我が在所でも蕨はよく採れます」なんて会話が弾む、きっかけにはなったでしょうね。

お礼日時:2014/03/14 15:28

ご無沙汰しておりますm(_"_)m


複数の法事などもありまして投稿を自粛しておりました。
最近は近世シリーズの御様子ですね^^

さて先ずは予定外の事例から…
元々は武鑑の価格を調べていたところ、下記に出会しました。
元治元年子7月、須原屋茂兵衛が大武鑑代銀として銀19匁5分4厘を受け取ったこと、
松代真田家の払方御金奉行の保管記録の様子から、どうやら藩士個人ではなく、
松代藩は須原屋から公費で大武鑑を購入した事実が浮かびます。

・<6/20>1 財政/諸役方/払方御金奉行
覚(大武鑑1部等代銀19匁5分4厘受取証文) 須原屋茂兵衛→上
(元治元年)子7月
1枚・横切紙
ぬ5-1-19
http://www.nijl.ac.jp/info/mokuroku/089-13.pdf
(史料目録 第89集 信濃国松代真田家文書目録(その10)
平成21年3月 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構
国文学研究資料館 調査収集事業部
http://www.nijl.ac.jp/info/mokuroku/089-01.pdf )

一つで全てを語るつもりはありませんが、
・一橋大学附属図書館>平成14年度企画展示(WEB版)
武家社会と江戸・大坂の経済 ― 幸田成友とその史料 ―
http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/k14/ten …
武 鑑 の 利 用 と 武 家 社 会
武鑑の利用法の第一は実用書としての利用であった。
御用商人にとっては、献上品の入用など、さまざまな情報を得ることができた。
武家にとっては、その紋所等で人物を識別し、相応の対応をとる必要があった。
その際の情報源となったのである。
近世の武家社会が格式と儀礼の社会であったことが背景にあろう。
本来は武家として知っておかなければならないことを、
手軽に参照できる資料として重宝されていた。…
第二の利用法は観光ガイドブックとしての利用である。
江戸城の下馬先は江戸の名所の一つとなっており、武鑑を片手に見物する者もいたという。
また、江戸土産としての需要も高かった。
第三は歴史史料としての利用である。
江戸時代から、古い武鑑を並べて歴史考証に使われている。…
[参考文献]藤實久美子『武鑑出版と近世社会』東洋書林1999

上記と考えるのが妥当のように思います。

なお、地方役人(町方・村方・浦方等)の為に特化した武鑑類も存在しましたから、
中には購読層が限定される場合もあったことでしょう。

>この情報はどこで仕入れてくるのでしょうか。

ある論文によれば、家督相続事項が長年改訂されないままの藩もあったようですから、
全ての藩情報を各藩毎に捕捉出来得たわけでもなさそうで、
また幕府の然るべき筋に付け届けをして、
見返りに最新情報を全て入手なんてことでもなかったようです。

だとすれば、板元は、江戸城への登城・退城の武家の行列を観察したり、
江戸城の下座見衆や、武鑑の購入者、武家(江戸留守居役ほか)などからの
断片情報を集積する以外には考えにくいですが、
御書物師の出雲寺の方が立場上少しは多くの情報を得られたかもしれません。
あと、内容上判断が難しい場合には町奉行所へ伺いを立てたり、
新板の場合は吟味を受けるため開板願とともに稿本を町奉行所に提出した際に
訂正・削除のほかに新情報が得られた場面もあったかもしれません。

>「献上および拝領品目」が記載されていますが、
>これはどのような目的で載せているのですか。

献上品の一部につきましては、幕府側からの「覚」等により、
石高に応じた区分のみで一律藩毎に割当てられいた金品もあるようですから、
少なくとも割当てられた既定の献上金品については、
各藩ともに武鑑から情報を得る必要は生じませんね。
だとすれば、既定の献上金品以外の「時献上」が少し気になります。

そこで少し調べて見ますと、
「時献上」とは幕府が特定のものを指して用いた語ではなく、
大名武鑑刊行の中で利用された文言で、最も早く「時献上」の記載がみえるのは
明和二(1765)年の「明和武鑑」、また「時献上」という項目はないものの、
享保五(1720)年の「享保武鑑」は、食品の献上品がみられる最初の武鑑で、
その品目は後の時献上に継承されているものが多いとか。

なお、はじめ領国のみならず各地から調達されて多種多様であったが、
享保七(1722)年三月、献上品減少の幕府の法令を受け、
領国内の産物に限られるようになったとか。

※『武鑑出版と近代社会/藤久美子/東洋書林/1999』(99頁)によれば、
時献上の初出は、延享四(1747)年の武鑑(版元・武鑑名不明、東大史料編纂所蔵)
とされているが、『大名武鑑編年集成』に収録されたものでは、
明和二年以前の武鑑、「元文武鑑/元文五(1740)」、「延享武鑑/延享二(1745)」、
「寛延武鑑/寛延三(1750)」、「宝暦武鑑/宝暦一〇(1760)」、「大成武鑑」等
いずれにもみられない。また、時献上という名目に限らず、食品の献上はみられない。

(以上『香蘭女子短期大学研究紀要 49/2006』<A1-A27頁>
「時献上から名菓への変遷:熊本のかせいたを事例に/橋爪伸子」)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006459171

食品の献上が「享保武鑑/享保五(1720)」以前から有った事は確かですが、
武鑑への記載の有無の問題ですからさておきまして、
遅くとも「明和武鑑/明和二(1765)」以降、
武鑑上では「時献上」品目が周知の事となった様子です。

では「時献上」情報が各購読層にとって得るものが有るかと問われますと、
各藩主・藩士にとっては他藩との重複品目が知れる程度、
まあ自藩にすれば特産品のPRになる場合もありますが、
他の購読層では全国の特産品が知れる程度、
唯一「得るものが有る」可能性がある購読層は、
転封時又は加封など藩の範囲が変わった場合の藩主・藩士、
もちろん転封後又は加封後に地方役人等に問い合わせたり、
幕府にお伺いをすれば済むお話ではありますが、ことは「時献上」、
場合によっては時が待ってくれません、などと言っても、
たとえ藩主・藩士が知らなくとも地方役人や御用商人等が手配しているはず…
かもしれませんが、事前に情報を持っているといないでは段取りが違います…

とここまで「時献上」だけでは単なる「こじつけ」に終始するだけで、
問題が解決しません(><)
やはり、時献上を含む献上品と拝領品の全体で捉え直す必要がありそうですが、
方向性が見出せません(><)

中途半端なままで申し訳ありませんが、改めて出直しますm(_"_)m
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

武鑑を大名家も町人・商人も利用していたという前提で質問しました。
武鑑の項目でたった一つ疑問に思ったのが、「献上品・拝領品」です。
「何月に何をどのくらい」献上したかを記載しています。
これは、どういう目的があって記載したのだろうと。
町人・商人の知識欲を満たすために記載したとはとても思えませんから、町人・商人は除外です。
大名家がどのように利用したか、これが疑問でした。
ふと思いついた疑問なので深くは考えずに質問しましたところ、多くのご回答を得てとっても嬉しいです。

松代真田家が、武鑑を公費で購入した事例を教えて下さって誠にありがとうございます。
市立図書館が年度末の整理で長期休館中で、調べようがなく困っていました。
「銀19匁5分4厘」とは! ン万円を支出して買うだけの値打ちがあったのでしょう。

さて、「それを知って、何をしようとしたいのですか」という本題ですが、いろいろ想像したのですが、しっくりしません。
dayone様もいろいろ考えて下さいましたが、しっくりこないのです。ごめんなさい。

いつも綿密に調べて下さること、感謝しております。

お礼日時:2014/03/14 14:47

No.5・6です


再度お礼を記入して頂き有難うございます。
蛇足の蛇足ですが説明させて頂きます。

>高島藩では、時献上品を変更しているようです。
通称高島藩は二つあります。どちらの藩でしょうか
近江高島藩
歴代大名家:皆川家,堀家,佐久間家,松平(桜井)家,永井家,青山家,本多家
諏訪高島藩
歴代大名家:日根野家,諏訪家

大名というのは、関ヶ原以来明治維新までの間に領国を動かなかったのは極めて稀です。
300年の間あちらこちらへたらいまわしされている大名が大半です。

武鑑というのは、あくまでも○○家が基本です。
藩は基本になっていません。
従って、領国が変われば、多くの場合面倒くさいので、先代の家が献上していたものを踏襲してしまいます。
結果として○○家の献上品が変わることはあります。

大名というのは江戸時代中期以降は江戸生まれ江戸育ちですから、領国についての知識は左程もっていません。
江戸城中で功績を挙げて石高の高い領国へ転封することの方に興味があります。
家臣団も殿様が偉くなれば生活が楽になりますから、セッセと其方の方面で働きます。
領国経営に今一腰が入りません。
結果として、江戸時代の農村は名主(庄屋)を頂点とする農民の自治組織が実権を握っています。
そばだの鮎だのという時献上に使う品物などに改良改善する意欲は期待できません。
時献上の品物というのは現代からすると何コレ!というものが沢山あります。
中には、献上された将軍様はどうする気だったのかと心配になる物もあります。
お互い前例に従った一種の儀式ですからこんなものでしょう。
一方で、黒田家の博多織のように献上という高級帯の代名詞になっている物もないわけではありません。

武鑑については
江戸武家名鑑 武鑑と出版競争 藤實久美子 吉川廣文館
というのがあります。
様子が分かって面白い本です。

大名の転封については
江戸大名のお引っ越し 居城受け渡しの作法 白峰旬 新人物ブックス
というのがあります。
12回引っ越した大名もあるようです。

事実は小説よりも奇なり、です。楽しんで下さい。
江戸時代も現代も宮仕えの身が考えたりやることは大差ありません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>通称高島藩は二つあります。どちらの藩でしょうか

前回の「お礼」にURLを貼付していますが、諏訪高島藩 諏訪家だと思います。

URLを開くことができないかもしれませんので、抜き書きしておきます。


以下コピペ。
ここで、「献上」行為を理解するために、献上略史をざっと見てみよう。

 ・1688-1704年頃、元禄期の生類憐れみの令に関わり、一時期、鳥類・海産物の献上が禁止され、代替品におき換えられる。

 ・1722年、幕府への献上行為、家相互の贈答行為を小規模化、かつ領国内の産物に限るよう命じられる。

 ・1761年、産物が不出来で献上不能のときは、他の品物に替えて献上。
 ・1788年、従来からの献上品でも無用のものは品替えして献上。


 ・1789年、高島藩の寒瀑蕎麦、漬蕨に替わって時献上品となる。

 ・1789-1801年頃、規模を誇る献上行為や義務的献上行為が戒められる。

お礼日時:2014/03/13 21:30

No.5です


わざわざお礼を記入して頂き有難うございます。
蛇足とは思いますが追加で説明をさせて頂きます。
>その一つの答えとして「必要だから、あるいは要求があるから載せているはず」と私の考えを書いています。必要としたのは大名家だと推定しています。
武監を利用していたのは、大名ではありません。
町人が使った誤記の多い書籍に基づいて藩政を考えるような迂闊な大名も重臣もいません。
武鑑は複数出版されています。内容もまちまちです。
大名家が必要ならあのようなチャチなものは作りません。
大名家の公文書というものを御覧になられてことはありませんか。

大名同志の日常的な交際を禁止した正式な法令はありません。
大名は江戸城は登城すれば、家格で分けられた控えの間で同席します。
当然会話も弾みます。
大名間の婚姻関係が進んだ結果、大名どうしお互いに多くの姻戚がいます。
姻戚としての冠婚葬祭を止める権利など幕府は持ち合わせていません。
大名の正室や子女は寺社詣でと称して自由に江戸市中へ外出できました。
大名や正室は全て江戸生まれ江戸育ちです。(領国生まれは極々例外的な存在です)
このような状況下で交際の禁止など無意味です。
常日頃、藩同士の付き合いを荷っている家臣にとっては武鑑に記載されているような事項は基礎常識として身に着けていました。
町人が書いた書籍に頼るようでは役にたちません。

>「献上・拝領」と大名家から見た表記になっているからです。
単なる用語です。頂きものとでも書きますか?

>そして、さらに「どこそこの大名が何を献上し、何を拝領したかを知ることは、大名同士の付き合いでは重要であるのですか」と確認しています。
なぜ武鑑記載程度の情報が重要なのでしょうか。
現代でも会社四季報程度の情報で企業間の取引が行われているとでもお考えでしょうか?

>藩の重役が集まって「○家は○を贈っているぜ」 「あ、そうなの」でおしまいなのか、それとも「では、何をしよう」と考えたり、実行したりはしていませんか。
献上品はコロコロ変わるということはありませんでした。
一度決めれば何十年でも、あるいは領国が存続する限り同じものが送られ続けました。
結果として、どこの大名が何を献上しているのかなどということはお互いに充分承知しています。
如何なる些事でも始祖以来受け継いできたものを変えるのには相当な抵抗があった時代です。
他がやっていいるからうちもなどと軽薄なことが安易に通る時代ではありません。
ましてや、町人が書いた書籍など藩政を論ずる際には見向きもしません。

>例えば、○家では、今度は焼き物に替わって、和紙や織物を献上しているが、そのような技術を開発・改良したと思えるから、わが藩の参考にならないか、などです
時献上の品物が変わったという事例は寡黙にして知りません。
具体的な例を教えて下さい。
献上という行為は多々あります。どのような性格の献上について言われておられますか。

武家は技術開発などには何の興味も持ちません。
どのように作るかなどいう知識は持ち合わせていません。
せいぜい暇つぶしの雑学程度の知識だけです。
必要あれば、自国内の領民に下命すればことたります。
良さそうだと思うものがあれば、現物を見せて同じ物を作れと言えば良いだけです。

大名家の家臣というのは現代で言えば独立国の官僚です、必要とする情報は日常業務として常時収集しています。
そのような官僚公務員としての日常の仕事を書いても時代小説になりません。
小説に書いていないからやっていなかったと早合点しないで下さい。

藩幕制下での税は「米」です。
消費税だの所得税などという考えも制度も存在しませんでした。
物品の販売によって得られた現金の一部を上納させる手法は、専売権を持たせた町人を経由して取得するだけです。
このような品物の専売権を認めて貰えば、これだけの冥賀金を納めますが如何でしょうかと提案するのは町人です。
幕末になり西南の藩がどうにか藩直轄に近い手法を取っただけです。
それでも実務は町人にやらせています。
現代でも,財政難の地方公務員がセッセと物作りをしてその売り上げで都道府県の財政を補填していますか?
大名領内の武家というのは、城下町を離れることを認められてはいませんでした。
中には禁止をしている藩もありました。
大名領の武家が物品の生産に関わるチャンスは極めて限られていました。
薩摩藩のような兵農分離が不十分で武家が農民と暮らしていたのは極めて例外的な現象です。
藩政としての領内の物産奨励というのは、あくまでも領民が裕福になることを奨励していただけで、藩の財政を潤す考えも目的もありませんでした。
上納金が増えた結果として財政が潤っただけです。
最も関心を向けたのは米の増産です。

>教えて頂きたいことは「それを知って、何をしようとしたいのですか」ということです。
町人として知りたかったからです。
内容が豊富ならそれだけ人気があります。
結果的な効果としては、手代や小僧の教育資料として役立ちました。
取引先の大名屋敷の実像を知る手がかりとしては最良の資料でした。

江戸の市中は常時旗本の駕籠や大名の駕籠行列が日常的に往来していました。
どこそこの誰の駕籠だということをいち早く判断して対応をとる必要があります。
最大最良の目安は家紋、槍装束です。
慣れない若手の家臣にとっては手頃な手引書でした。
参勤交代で出府した地方の武家が江戸見物をする際に、駕籠や道具の家紋を見て、どそこの誰と知ることが出来ました。
重宝な手引書でした。
郷里への土産としても絶好のものでした。
武鑑というのは元々はこの家紋の手引書でした。年を追うごとに記載内容が増えていきました。

現代の価値観に基づいて整合性がある解釈が正しいと考えるとズレがでてきてしまいます。
目的や動機、結果は現代とは大きく違います。
むしろ、現代からすれば、無意味無駄と思われることがなぜ行われていたのか、現代の価値観からすれば当然取られるべき対応がなぜ取られなかったのか、社会制度や習慣はどのようなものであったのか、それを支えていたその時代の価値観とは如何なるのもであったのか、、という観点からお考えになられることをお薦めします。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。

町人が利用したのですか、それならそれで前回、そのように教えて下さっておれば…。

>時献上の品物が変わったという事例は寡黙にして知りません。
具体的な例を教えて下さい。

全く知りません。
「例えば、○家では、今度は焼き物に替わって、和紙や織物を献上しているが…」と書きましたが、創作です。

「フードボイス連載シリーズ」 
http://fv1.jp/chomei_blog/?p=4976 

高島藩では、時献上品を変更しているようです。

お礼日時:2014/03/13 11:45

>「献上および拝領品目」が記載されていますが、これはどのような目的で載せているのですか。


江戸時代には贈答行為というのは、社交上重要な意味を持っていました。
支配者(将軍)対非支配者(大名)間の関係の確認とでも言えば宜しいのでしょうか。
現代でもその名残があります。
お中元、お歳暮と言われる贈答行為です。
お中元やお歳暮をなぜするのかをお考え頂ければ、その拡大版が献上や下賜(拝領)と呼ばれるものだとお考え下さい。

上位者から下位者への下賜
下位者から上位者への献上
同位者どうしの贈答
に大別されます。

刀剣・鷹・馬・食品・衣類・金銭などの金品の他に、下賜の場合には官位や官職'、将軍謹名の一字、家紋といった地位や名誉をあらわすものなどがありました。

上位者(将軍)から下位者(大名)へ渡されるのが下賜であり、貰った大名側からすれば拝領ということになります。
なにせ形式格式が最重要課題の時代ですから、将軍から何を貰ったかというのは、末代までの「家」の誉れでした。

大名から将軍への献上にも大きく分けて三つの種類が有りました。
御太刀金銀馬代(おんたちきんぎんうまだい)・・・年始と八朔の日に行われます。
御時服献上(ごじふくけんじょう)・・・端午の節句と重陽の節句に行われました。
時献上・・・四季おりおり各大名家の領国の特産品を送りました。
何事も前例第一主義の時代ですから、一度品物が決められると毎回同じものが送られました。
前の将軍とは違うではないか、などとつまらんことを言われないためにも同じ物が無難です。

現代の宮内庁御用達と同じ意味で名誉ある名産品でした。
現在でも、各地に当地当店の○○は御献上品でした、とPRしているものが沢山あります。
そばだの佃煮だのと現在の感覚で言えば何コレ!というものも沢山あります。

>それを知って、何をしようとしたいのですか。
現代の価値観に基づいて、何の意味があるの?と聞いても、答えるほうが困ります。
名誉、面目ということに関して命がけの時代です。
現代でも春の叙勲だの秋の叙勲だのとやっています。
勲章に一々経済的価値や目的理由をつけられますか?

>この情報はどこで仕入れてくるのでしょうか。
贈るにせよ貰うにせよ名誉あることですから、大名家に聞けばいくらでも教えてくれました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

どうも質問がピンボケで要点をうまく表現できていなかったようです。
献上品・拝領品とはどのような物か、また将軍家と大名家がモノをやりとりするのはなぜか、については聞いておりません。
これらの品が武鑑に記載された理由を聞いています。
その一つの答えとして「必要だから、あるいは要求があるから載せているはず」と私の考えを書いています。
必要としたのは大名家だと推定しています。
それは、「献上・拝領」と大名家から見た表記になっているからです。
そして、さらに「どこそこの大名が何を献上し、何を拝領したかを知ることは、大名同士の付き合いでは重要であるのですか」と確認しています。
確認するまでもなく、重要であることは承知していましたが…。

さて、質問の核心です。
教えて頂きたいことは「それを知って、何をしようとしたいのですか」ということです。
藩の重役が集まって「○家は○を贈っているぜ」 「あ、そうなの」でおしまいなのか、
それとも「では、何をしよう」と考えたり、実行したりはしていませんか。
例えば、○家では、今度は焼き物に替わって、和紙や織物を献上しているが、そのような技術を開発・改良したと思えるから、わが藩の参考にならないか、などです。


#2、#3の方からは、この疑問に対して回答を頂きました。
どちらも納得できます。

あ!失礼しました。
「現代の価値観に基づいて、何の意味があるの?と聞いても、答えるほうが困ります。
名誉、面目ということに関して命がけの時代です」という回答をichikawaseiji様からも頂いていました。

お礼日時:2014/03/12 09:21

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