牛、豚、鶏、どれか一つ食べられなくなるとしたら?

ルノワールの映画を見ていると、言葉にできないような凄さを感じます。
しかし、この凄さが何なのか言葉にできないどころか、その凄さの種類が何なのか認識すらできていないように思います。

そこで、質問ですが、みなさんが思う、ルノワールの凄さとは何でしょうか?
この暗闇の中にいるような認識不可能さに一筋の光を当ててくれるような回答をお待ちしております。

A 回答 (2件)

「見えているものが違う」が一番しっくりくる表現だと思います。


これを説明していきます。

ルノワールの凄さは物語にあるのではなく、画面にあります。ルノワールの被写体は、人物だけにとどまらず、自然や装置などの周囲に至るまで、すべての被写体が生命を宿しているかのように存在感があります。仮に、「画面音量」なるものを想定してみると、ルノワールの「画面音量」は100(最大)あるでしょう。

もっともそれがよく表われていると思われる『ピクニック』を例にとってみましょう。あの名高いブランコのシーンは、ブランコをこぐ少女の美しさは言うまでもないですが、彼女を乗せているブランコも何か言葉を発しているように、生き生きとしています。その言葉が何語なのか勿論分かりはしませんが、ここに他者とのコミュニケーションによる感動の一端を見ることができます。われわれはそれを発見し瞳を驚かせ、瞳を介してブランコという「他者」と(無意識的かもしれませんが)コミュニケーションしているわけです。これが、画面に驚くということに他ならないわけです。われわれはここに映画の感動を覚えるわけです。

自分の知らないことが目の前で起こっている、比喩的にいうなら知らない言葉が発せられている。しかし、言語的には理解不可能でも、その身振り(運動)からは、何かを感じることができる。そしてそこから何かを理解する。これを「(他者との)コミュニケーション」と呼びましょう。逆に、経験的に知っていることを「モノローグ」と呼んでみます。「モノローグ」が安心だとするなら、「コミュニケーション」は驚きです。質問者さんが感じた、認識不可能な何か凄いものとは、瞳を驚かす「コミュニケーション」に似たものなのかもしれません。少なくとも私は、ルノワールの映画にそのような「コミュニケーション」を見ています。

ここで最初の「見えているものが違う」に戻ると、このような「コミュニケーション」を支えているのが、まさにこれで、単純にルノワールはわれわれとは「見えているものが違う」。だから、そのような生命の「コミュニケーション」が撮れるのだと思います。端的に言うなら「才能」以外のなにものでもないでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

凄い!一筋の光どころか巨大な光を当ててくれました。
“コミュニケーション”の概念は何か特別なことを気付かせてくれたような気がします。
僕たちは画面を見て驚くんですね!ルノワールの映画は驚きの映画だったんだと認識しました。

ありがとうございました。

お礼日時:2014/07/02 17:53

こんにちは。



また、古い監督を良く御存知ですね。
私はこの監督は「大いなる幻影」でしたか?
それにしたところで記憶も随分と昔のものです・・・。

ルノワールの凄さですか?
「大いなる幻影」に限って言えば、それはまず音楽でしょうね。
正直、今、この質問を拝見してですから詳細は御容赦を・・・
ただ、当時、音楽の果たした効果は見事、
ひいてはそれがルノワールの映画作りの見事さなのでしょう。

一筋の光?
それは私はお役に立てません、どなたか回答を待たれてください。
ただ一つ言えることは、
幻影と言う言葉が適当かは分かりませんが、
幻影を現実に変えるのは想像力を持った創造的な人間であろうと・・・
ルノワールと言う監督は少なくも想像力豊かな人ではあったようです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「想像力を持った創造的な人間」これに尽きるのかもしれませんね。
今度また『大いなる幻影』見るときには、音楽にも注目して見てみます。

参考になる回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/27 19:54

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