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釈迦如来は俗に言うお釈迦様なので理解できるのですが、なぜにその上に阿弥陀とか大日を作ったのでしょうか。キリスト様の上にゼウスを作るのと同じと思うのですが、それゆえに観念的で理解しずらいのです。
個人的にはお釈迦様の教えやキリスト様の教えで良いと思うのです。権威を高める効果よりも権威をおとしめる効果の方が強いと私は思うのです。また孔子様の上には居ないと思います。なぜなのでしょうか。

A 回答 (14件中11~14件)

仏教の大きな考え方はふたつです。



絶対的な真理のことを「大日如来(だいにちにょらい)」といいます。
この仏さまは、自ら教えを説かれる事から「雄弁の仏」といわれています。
釈迦を通じてその教えを聞くのではなく、直接大日如来から聞こうとしたものです。
普通の状態では私たちには理解する事が出来ませんが、本当は、この言葉を聞く受信機を皆持っています。
ただ、この受信機が「煩悩(ぼんのう)」という埃(ほこり)で汚れている為、教えを聞く事が出来ないのです。
埃を払い、心を清めて研ぎ澄ませば、教えを聞く事が出来るとします。
厳しい修行を積んだ人だけがさとりを開き救われます。したがって、修行をしたわずかな人が救われ、一般の人々は救われません。
個人の解脱を目的とし、一人しか乗せられない小さな乗り物に例えたので、以前は小乗仏教と呼んでいましたが、差別用語ということで現在は「上部座仏教」と呼びます。

森羅万象、絶対的な真理のことを「毘盧遮那仏(ぶるしゃなぶつ)」といいます。
この仏さまは姿、形が無く、言葉で教えを説かれる事が無いので、「沈黙の仏」といわれています。
そこでその教えを説く為に「釈迦」という人間を人間界に出現させたのです。
毘盧遮那仏の教え、つまり絶対的な真理を「如(にょ)」といい、ここからやって来た者という意味で釈迦の事を「如来(にょらい)」といいます。
絶対的な真理というと、つかみ所がなく一般の人には理解しにくい、これでは多くの一般の人は救えない、というところから、「釈迦」の口を通して教えを理解させようとします。
衆生の救済を目的と、偉大な乗り物ということで、「大乗仏教」と呼びます。
この大乗仏教では、一般の人達の救済が目的で、絶対的な真理が形を見せて人間界に現れたとしますから、神様もそのような化身であって同格としています。
  天照大神 = 大日如来、十一面観世音菩薩
  八幡神 = 阿弥陀如来
  東照大権現(徳川家康) = 薬師如来
  その他多数

「上部座仏教」も「大乗仏教」も人智を超えた「絶対的な真理がある」というのは共通していますが、目的が異なっているのですね。
そもそも大元の教典そのものが、釈迦が直接著したものではなく、釈迦の弟子達によってまとめられた物で、それが中国に伝わる段階で漢訳され、それが日本の仏教の元になっているのです。
大元の教典は論理的に記述されたものではなく、説話のような物ですから、それを聞いた弟子達がどのようなエッセンスを得たのか、というところが問題となります。
更に、実際に教えを広めようとした場合、その場所や人々の状況が大きく関係しますから、より広めやすい方法へと変わっていくことになります。

日本の仏教は大乗仏教ですが、「大元の教えを広め、すべての人達を救うにはどうすればよいのか」の考え方の違いによって宗派が分かれているのです。

従って、「権威」の問題ではなくて、「絶対的な真理」の存在をどうみるか、でしょう。
「絶対的な真理」の存在を認めないとするならば、根本的に仏教そのものは存在しないことになりますから。

この回答への補足

私は仏教徒なので御回答の内容は良く知っているのです。そのうえで釈尊が真理を説いていると思っているのです。なのにその上に何故に絶対的な真理と言わねばならないのかと思うからです。まるで釈尊の値打ちをおとしめるかの論理だからです。

補足日時:2014/07/28 13:00
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 こんにちは。




 ブディズムは ブラフマ二ズムにおける梵我一如の二番煎じです。
 
 ゴータマ・ブッダは これを否定して《無梵無我一如》なる信仰のかたちを――可能性として――描きました。

 のちのブディストたちは この神としての《梵 = 無梵》を ブッダなる神と捉え 名前も《アミターバ・ブッダ》または《マハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)》というふうにつけました。

 神にしてみれば 有る神も無い神も 同じであり 有る神の名前が違っていてもまったく同じひとつの神です。そうでなければ 神ではないでしょう。



 信仰の類型として《梵我一如》は 普遍性を持ちます。

 A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空・シューナター・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

 C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:如来蔵・ブッダター(仏性)

 D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

 E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

 F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)




 ☆ このように理解してください。

 孔子は 人間ですよ。倫理思想や政治哲学です。

 ゼウスは 神話です。自然や社会における驚異となる人やモノやチカラの作用やを神格化して出来たものの一環です。文学です。

この回答への補足

私はキリストも釈尊も孔子も人間だと思っています。

補足日時:2014/07/28 11:35
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この回答へのお礼

カタカナがむずかし過ぎて理解不能なのです。ありがとうございました。

お礼日時:2014/07/28 11:35

お釈迦様は仏教の開祖ですが、これは釈迦如来を現世に姿を投影した人間です。



つまり、その当時の人間に分かりやすく大自然界の法理を仏教として説いた人がお釈迦様、仏界ではいろんな如来、菩薩があって釈迦如来はそのうちのひとつ。

仏教の教えを受けた人間からは、仏界の世界はうかがい知れるところではないが、真言宗の空海など優秀な弟子からは垣間見ることができたのだと思っています。

この回答への補足

その理屈は逆さまと思います。お釈迦様が居たので釈迦如来が出来たと思うのです。想像するに、その理屈が大日如来を作ったのだと思うのですが、何故なのかが分らないのです。whyが分らないと理解しずらいのです。

補足日時:2014/07/28 11:29
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何故って言われても、長い歴史を経るとそういう事がよくあるものだ・・・っとしか言えないかもしれません。


仏教と一言に言っても、釈迦の教えが一言も違えず現在まで受け継がれているわけではなく、アジア各地にいろいろな形で伝わっって行ったうちのひとつとして、現在の中国エリアを経由して日本に伝わっています。
日本に伝わるだけでも何百年かかかっています。
それだけでも主導的な指導者の立場にあった人物が何十人もいることになり、その間には社会情勢の変化や地域性などから新たな考え方を融合させていったことはあり得るでしょう。
そもそも、釈迦やキリストが生きていた時代でもすでに宗教というものは存在していて、それに対して新しい観念(←この表現が適しているかどうかは別として)を導入して教えが作られたのだから、釈迦やキリストの教えに対しても、あらたな教えを盛り込むことが起きても、それが特別とは限らないだろう。
ただ、その新たな教えがその後どれくらいの人々に受け継がれるかの規模の話であって、仏教系だろうがキリスト教系であろうがそれらをベースとした新たな教えは、現代で派生しているがいわゆる新興宗教というくくりの範囲から広がっていないだけではないか。
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