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 ・・・でなくてはならない。ということを キリスト・イエスが指し示した。
 そこから 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てたる〕宗教にかんする一般理論》が成った。


 世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって みな同じひとつの神であるということ そしてその神とわれとの関係たる信仰も基本としては 同じかたちである。こう成ります。

 《すべての神》という言い方もヘンですが そのあらゆる《神は 無根拠であり 信仰は無根拠にて成り立つ》という意味にもなると考えますが その理由を地図のごとき説明にて示します。

  ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~

  経験事象
     可知
      既知
      未知
     不可知(知り得ないと人間が知り得た)
  非経験の場(因果関係を超えていると想定)
     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)

 ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~

  信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観
  ---------------------- 
  考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教
  感じる:《感性の原野》:知覚;直感

 ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*)
   無梵:空・シューニャター・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:如来蔵・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

  * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 真理は シンプルです。シンプル・イズ・ベスト。

 このたたき台を 言わばコミュニティーに対して かさねて問います。

A 回答 (5件)

>世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって


>みな同じひとつの神であるということ 

そうだとすると、多神教は実は一神教だって話になりますから間違ってますよ
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。



 八百万の神々は ひとつ(=全体)の神の分身です。




 これで辻褄が合いますか。

お礼日時:2014/09/27 12:07

No1です



>八百万の神々は ひとつ(=全体)の神の分身です

すべての神は同じ一つの神ではなく全体の神の分身なのですか?
全体の神という神が存在してるというわけじゃないですよね

この世で信仰されてる様々な神の集合、神集合と名付けましょう
八百万の神やその他の神はその神集合の部分集合であるということを言ってるのですか?

だとすれば全体の神を神と混同してしまっていることになります
解釈が間違ってれば指摘してください
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この回答へのお礼

 いえ。《ひとつの神》が 《全体としてひとつの神》という意味です。

 ご回答をありがとうございます。



 ★ 八百万の神やその他の神はその神集合の部分集合であるということを言ってるのですか?
 ☆ やほよろづの神々に関しましては 厳密に言えば その山(かんなびやま)や木(ひもろぎ)や へっつひ(竈)やかぐつち(火)や何やかやは 《ひとつの神》のそれぞれ依り代です。山そのものが神本体ではありません。

 (もっとも 表現としては たとえば大神(おほみわ)神社でその拝殿の前に立って 実際にはうしろの三輪山が神であり この山を をがむようになっていると説明されます。ですが 厳密には 依り代です。神がその分身として・あるいは霊として降りてくるその具体的なモノだという意味です)。

 ギリシャ神話で神々と言われるのは 自然の環境やそのハタラキ そして人間の中の英雄ら これらを神格化したものです。あるいは ダイモーンが神だと言われる場合にも 神のひとつのハタラキのことを言っている。というかたちでやはり分身だと捉えてよいと考えます。


 要するに 多神教や汎神論というときの多神や汎神は すべて分身としての神々です。



 ひとつ(=全体)と書いたところが 誤解を生んだようです。舌足らずでした。

 上のように理解していますが どうでしょう。

 要するに 神とは何か? と問えば それは 《非知》であると答えます。

お礼日時:2014/09/27 12:42

No3です



>要するに 多神教や汎神論というときの多神や汎神は すべて分身としての神々です

それだと多神教の神はひとつの神の依り代であるという意味になります
つまり山そのものが神本体でないように多神教の神々は神本体ではないということになります
その理屈で言えばたしかに全ての神はひとつの神であると言えますね
ただ、その理屈を言うための根拠がないですから、あくまで仮説としてひとつの神を
想定すればという括弧をつけなければならないでしょう

この回答への補足

 見直しました。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 それだと多神教の神はひとつの神の依り代であるという意味になります
 つまり山そのものが神本体でないように多神教の神々は神本体ではないということになります
 その理屈で言えばたしかに全ての神はひとつの神であると言えますね
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このお考えを採りたいと思います。


 ○ 多神教というときの多神は 必ずしも多くの神が存在するということではなく そうではなく 《ひとつの神が 多くの依り代に〔その霊が〕降りる》というのが基本であるはず。こう捉えます。

 ということで 必ずしも《神々は ひとつの神の分身である》という見方よりも上の捉え方をを採ちたいと思います。


 あるいは そこからもう一点です。

 ○ 《神は 人についてもその存在を依り代として 一人ひとりにその霊がやどる》。

 こう捉えられると考えます。



 あしさい888さんのアイディアを 《神および信仰ならびに宗教にかんする一般理論》の中に採り入れさせていただきたいと思います。ご承諾をいただく前にですが ありがとう。

補足日時:2014/09/27 19:05
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。



 ええっとですね。
 ★ ただ、その理屈を言うための根拠がないですから、あくまで仮説としてひとつの神を / 想定すればという括弧をつけなければならないでしょう
 ☆ つまり 《神は 非知である》という規定の仕方は 《非知 ないし 非経験の場》が経験合理性によって 実証され得ないと思われるからには  すべて(つまり 神も非知も非経験の場も)想定されているという意味になると思います。

 想定されたという前提に立てば 多神教の神々は 分身であり依り代であるに過ぎないという理屈は立てられるのではないですか?

 多神とか神々とかと表現はしていても それらは 神本体ではない。と理屈づけることは出来るのではないでしょうか?


 というよりも 《磐座(いはくら)としてとうとばれる石は 神のひとつの依り代である》というのは 日本人の神をめぐる生活じょうの実際です。

 一般には たとえば信仰から得られた神についての表現としての聖典や神の偶像やオシエとしてのその内容 これらは 神を何とか理解しようとするときの補助線(依り代)である。と考えられるのではないでしょうか?



 微妙ですが お言葉を返すかたちでお応えしました。

お礼日時:2014/09/27 15:24

bragelonneさん こんばんは



こちらは哲学が泥沼にはまり、西洋哲学史の歴史を見直しているところです(笑)。

その過程で今回は回答というよりbragelonne哲学に対する質問になってしまうのですが、bragelonneさんの立場を確認しつつ、自身の哲学の理解を深められればと思い投稿いたします。

私の理解では、長々と続く西洋哲学はギリシャ哲学のアルケー(元からあって変化しないもの)やパルメニデスの要請といわれえるオン(ある(存在)であり、生成もしないし、消滅もしない、部分を持たないもの)やウーシア(実体 ほんとうに存在するもの)があって、これらが、私たちの現象界(見えるものではあるが、変化する世界)の背後にあり、プラトンは哲学的にイデアとして説明し、キリスト教では超越神として信仰され、その後における近代哲学においても長々と論じているものと現段階では私は理解してます。

bragelonneさんの非思考の庭もこのような、現象界(見えるものであるが、変化する世界)の背後にあるものとしてアルケーやオンやウーシアを想定しているのでしょうか?

またはスピノザは、デカルトの思惟(精神)と延長(自然)という二元論(精神の属性の思惟の判断能力の正統性として神を持ち出しているようですが)の欠陥を、神が唯一の実体であるとして、一元論化して「自然すなわち神」という汎神論を唱え、万物は神の属性が必然的に生み出した様態として、プラトンのイデアのように現象界の外に世界をつくらなかったそうですが、どちらの立場なのでしょうか?

bragelonneさんの多神教(汎神論?)の理解が私は曖昧です。

また、デカルトにしろスピノザにしろ、明晰判明な「直感」を論証の出発点にしているようですが、考えることに直感は入らないのでしょうか?

まだまだ、勉強不足で、お恥ずかしい投稿ですが、お礼をいただければ幸いです。
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この回答へのお礼

 いつもありがとうございます。
 いま別の質問へ回答する場で 失態を演じています。心が《腐って》いました。

 こんばんは。あめんほてぷ2000さん。



 ★ bragelonneさんの非思考の庭もこのような、現象界(見えるものであるが、変化する世界)の背後にあるものとしてアルケーやオンやウーシアを想定しているのでしょうか?
 ☆ 言葉のあそびだと言われるかも知れませんが 一点違うと思われるところは 《背後にあるもの》という規定です。

 《非経験の場 = 非知》――それを心に受け容れたときには 《非思考の庭》が成る――は 強いて言えば《遍在するもの》です。

 経験世界を超えているということは 経験世界をも覆い包むことがあり得ます。ので。






 あぁ 次のスピノザの視点とかかわっていましたね。
 
 まづ 《非知》は 一元論でしか成り立ちません。

 ブラフマンは 宇宙の主宰神です。一元です。
 ですが 世界について説明するときには 創造と維持や破壊のハタラキに分けて その三神一体(トリムールティ)と捉えます。それぞれ順にブラフマー神とヰシュヌ神とシーワ神として 別様に神々を立てることもあります。

 けれども 一元なる神に変わりはないわけです。ハタラキが分けて説明されただけですから。





 《精神》は 人間の自然本性における記憶‐知解‐意志のハタラキとしては 経験事象です。自然ないし感性も 同じくです。

 経験的なものごとについては 基本的には《元》は立ちません。移ろいゆくものには 元と言わないと思います。二項対立とか双対とか三項図式といった言い方がよいと思います。





 ★ スピノザは・・・プラトンのイデアのように現象界の外に世界をつくらなかったそうですが
 ☆ ですから 経験世界の《背後》であるとか《現象界の外》であるとかといった捉え方はしません。
 
 経験世界の《外》って何でしょう? 宇宙の果てとは 何か? ですね。
 果てに到ったなら その向こうは 経験世界であるのかどうか。経験事象がつづくのなら 《果て》ではなく《外》でもないでしょう。

 経験事象が その果てなる境界でピタッとなくなっているとしたら その果ての向こうとは いったいどういうことになっているでしょう?

 そうではなく・つまりそういう考え方をするのではなく 《知り得るか知り得ないかが知り得ない》非知を 神として想定しています。

 それは したがって 《内と外》といった捉え方にはなりませんし どこかに限界や果てがあるといったことにも成りません。これを言いかえると いま・ここなる《わたし》としての人間が 何かを思ったり考えたりするときいつもどこでも そこにあたかも神がいるといった恰好になる。イメージとして言えば そういうかたちになる。と思われます。

 それが《イデア》であるかどうか? これは どうでもよいわけです。《神》です。せっかく神という言葉を持っていますから 神なのです。

 ただし《自然》そのものが 神ではありません。いつでも・どこでもそこにいるという神ですが 自然という経験事象そのものが 神のことではない。これは 言えると思います。



 
 おそらくこのような神は いちど精神の胃袋ででも飲み込むということ。それで もう神の意識はなくなると思います。《意識》という経験事象が 神ではないからです。

 微妙ですね。






 次の《多神教・汎神論》の問題にもなりますね。
 もし 大幅に奇抜な言い方をするとしたら たとえば《イデア》に 神の依り代を見たと誰かが言った場合。それは ありうることです。観念たるイデアでさえ神の依り代になると思われます。なにしろ《遍在するナゾ》ですから。

 言いかえると 主観ごとに・つまり《わたし》ごとに 神の依り代または補助線は さまざまにあり得る。こう捉えてみては どうでしょう? そういう基本的な理論づけのもとに 多神説も汎神論も出て来ているのではないか。
 



 ★ また、デカルトにしろスピノザにしろ、明晰判明な「直感」を論証の出発点にしているようですが、考えることに直感は入らないのでしょうか?
 ☆ ものを見た・何かを聞いたなどなどの知覚 この知覚の先端のような直感 これは 大きく広くヒラメキと言うと思います。

 直感は ただちに《悟性》とやらで認識されます。言葉で概念として捉えられて行きます。その段階では すでに理性によって《考える》ことが起こっています。

 そこで何か理論的にととのった世界観の重要な要素となるような内容が得られる場合には 《直観》というのだと思います。《観想(テオーリア)》とも言うと思いますし ここからは 理論(テオリ―)が得られて来ます。

 直観の筋としてのヒラメキが 狭い意味のヒラメキであり インスピレーションと呼ばれるものだと見ます。スピリットですから 《非思考の庭》のほうにかかわりがあると見るわけです。


 感性としての直感(これも広くとればヒラメキですが)は 一般に第六感と呼ばれたり勘がよいというかたちで言われたりするそれだと見ます。勘にまで成ったときには 《考える》へと移行しています。




 どうでしょうかねぇ。わたしの側に見方を引きつけているかと思います。ギリシャ哲学には触れ得ませんでしたが。

お礼日時:2014/09/29 23:49

あんたの意見はな、


おおむね明快だ。、
しかしその明快さを理解した回答がどれほど集まった。
いかにも心細いだろう。
論理に不備を言えばな,イエスをクソ扱いする度胸にかけている。
俺は俺だー。
このど根性が乏しい。
そうした勇者にふさわしいプリキュア魂が君にはかけている。
それ以上に回答は貧弱だろうが、それは君のライダーキックが激しくないからだ。
私はそろそろ、実在する妖精の捕まえ方に専念して、黒き明星から足を洗いたいチン。
私は無を悟り、弥勒菩薩商法という形で、十分にお釈迦様をクソ扱いしてるチン。
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この回答へのお礼

 エールをありがとう。

 たしかに心細い。いや お二人あったそのそれぞれのツッコミは 心やさしい投稿であり その対話だましいは心あたたかい《非思考の庭》なる動態である。


 沈んでいたけれど もうしばらく沈んだままでいて そのとき考えてみよう。





 ライダーキックなる【Q】:
 【キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭ったのだ。
 【イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。



 【ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう:
 【ゴータマ・《ブッダ》は なぜペテン師か
 【ゴータマが生は苦だと言ったのは悪魔の使いである。
 【ゴータマ・ア‐ブッダのいんちきについて問います。
 【やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。
 【ブッダの性愛観は 間違っていませんか?
 【ブッダの美女マーガンディヤー事件
 【ブッダ葬送がやっぱし必要ではないでしょうか
 【キサーゴータミーの説話について
 【創価学会への公開質問です。
 【《南無妙法蓮華経》は 真実の神ではないのか?
 【《スマナサーラ》は 一体全体 いかなる思想か?
 

お礼日時:2014/09/30 03:49

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