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バブル期(特に1988年度)の就職活動について調べています。


当時は一応「就職協定」が存在し、“企業説明会”や“会社訪問”の解禁日が
夏~秋以降と決まっていたようですね。

にもかかわらず、現実には大半の学生が5~6月頃に就職活動をし、
夏前には内定(内々定?)をもらっていたとか。


協定があるので、企業は早い時期に“企業説明会”と称して
学生を集めて接触することはできませんよね。
では、学生は具体的にどういう経緯で、どのような場所で
企業に接触し、内々定をもらっていたのでしょうか?


映画「就職戦線異状なし」には、あるマスコミ企業が『模擬面接』と称して
学生を集めている場面がありましたが、そのようなものでしょうか。
『○○セミナー』などと称するイベントを開いていたとか?

あるいは、学生が大学や就職情報誌の求人票をチェックして
企業に送ると、企業から個人的にコンタクトがあり、個別に面接してもらえる、
そういうパターンが多かったのでしょうか?
またはOB・OG訪問から企業と接点ができ、個別面接とか?


当時、就職活動をされた方など、この辺の事情に詳しい方がいましたら、
教えていただけないでしょうか?


また、当時、形だけでも「採用試験(筆記試験)」があったのか、
それとも履歴書送付と面接だけでほぼ決まっていたのか、
そちらも教えていただけたら幸いです。

どうぞよろしくお願いします。

A 回答 (3件)

バブル期最後の1991年の採用組です。



協定前の就職「内々定」については、「青田買い」と呼ばれ、社会問題になっていました。
協定解禁前なので、内定前の内定なので「内々定」「内々々定」などと呼ばれていました。
学生が、就職活動に精を出すので、講義やゼミに出なくなり、単位を落として留年することで、内定取り消しといったこともありました。
当時は、どこの大学も就職率ほぼ100%だったので、どこへ就職できたかが大学のウリだったようなことがありました。就職率ではあまり差はなかったのです。また、大学院への進学率もかなり低く、大学院が今ほど存在しておらず、修士の方が、研究職には就けても、かえって就職できないといったこともありました。

就職戦線のスタートは、3年次の秋ごろに始まりました。
リク○ート社さんなどが、会社案内をまとめてマンガ雑誌の2倍もあるフルカラーの情報誌が、3年次のころから、何冊も山のように届きました。企業への実質「面接」申込み用はがきがふろくとしてついていた立派なものです。当時は携帯電話はなかったので、個人で持っていたとしてもページャー(ポケベル)といった有様でしたから、はがきは重要でした。
また、個人で固定電話を持つには、高価な電話加入権が絶対必要だったので、大学の就職部などを通じて連絡を取り合う学生もいたほどで、はがきは重要でした。

たいていは、そういう就職情報誌を読んで、就職活動が行われていたものですから、電話かはがきでアポ取って面接。はい、決定(内々定)。ということが多かったと思います。就職情報誌には脚色が多すぎて、会社の実情を書いておらず、早めに内々定をとって悔やんだということも多かったんです。
個人へのアプローチは、当時は個人情報保護の概念が、あうのかないのかわからないといったころで、まだ、学生名簿が各大学で出身地の住所氏名入りで配られていたようなこともあったので(徐々に発行中止になりました)、企業としては容易に学生に直接アプローチ可能でした。
学生は、だまって待ってさえいれば、どこからかアプローチがあったのです。情報誌は申し込むものではなく「勝手に」送り付けられる有難迷惑なものだったのです。

都会の大手企業も地元企業も選び放題。協定がある中、3年次の9月に内々定が出てしまうといったありさまで、協定がはずれるころには、内々定が内定に変わるだけといったようなことも起きていました。
ですから、早く内々定を得ようと、3年次の3月ごろにはずいぶんと動いていた学生がいました。今では当たり前ですが、3年次の春先2月ごろから動く学生が多かったと記憶しています。大学の就職部としても、3年次の単位認定のあたりから本格的に動くといったことがありました。

当時は、資格検定試験が今ほど重要なファクターではなく、資格検定自体がそれほど多くなかったものですから、会社で「使える」人材かどうかは、会社の中で決めるといったことがあって、大量に採っても、使えなければ捨てられてしまうということも起きていました。

OB訪問は、ようやく出てきたころであり、当時、企業としては、なにがなんでも人手がほしいといった状態であって、たとえ、文系の学術色の強い学科出身であっても、証券会社やゼネンコンに入ることができてしまえるようなことがあって、今から考えるとウソみたいなことがあったんです。ですから、私の知っている限りではOB訪問はほとんどありません。中小の大学なら、そもそも大手企業に入っている先輩がいないことがあったので、なおさらなんです。
また、学生の増加を背景に、学生自体の質が中小の大学では高まっていたということもあって、大学によっては初めてづくし、大学史上初が続出するといったことがありました。
新興企業や異業種進出も多くあったものですから、企業側としても様々な人材が必要でした。そういうところは先輩はいませんよね。
また、当時、非常に忙しかったんです。まだ、土曜日は休日ではない時代でしたから、24時間働けますか?といったCMがはやるくらいだったので、社員を採用のタネに使うことはあまり考えられていなかったし、企業とすれば、OB・OG訪問は超繁忙のなかでは迷惑な話でした。
ですから、前例がないのですから、OB・OG訪問はあり得ないし、迷惑だから業務外とみなされて、できなかったということです。

大学とすれば、実績を作りたいがため、むりやりにでも大手企業に入らせようということから、かなり、実力の伴わない学生が大手企業に入ることも多々あったように思います。また、大量に「大学生」がほしいことから、女性でも男性でも構わなくなったというのが、当時の風潮で、男女の格差が企業の人材需要が大きかったために、採用においては、一部を除いてあまり差がなく、気にしなくてもよいといったことがありました。
入社後の処遇などで不満が出たのは、そのあとのことです。

一例ながら、ある、大型トラックを使う運送会社では、運転手に大学生をやとっており(実際に就職雑誌で見かけました。)、月給100万円と記載されていたと記憶しています。運送会社のようないわゆる3K業界は高卒獲得には苦労していて、身体を動かさない・キレイな仕事を高卒も大卒も望んでしまったということがあると思います。

採用試験があったのは、あまり聞いたことがありません。公務員くらいでしょうか。ほとんどが、履歴書と面接だったと記憶しています。あと、担当教官の縁故がありましたが、たいていの場合、学生が自力で獲得するもので、大学が応援に走ることはめったになかったと思います。
あまり、就職試験向け問題集などというものは大学内の書店でも見かけたことはなかったと記憶しています。
公務員を目指していた人は、まわりが民間企業の内々定が決まっていく中、ようやく6月以降にペーパーテストであったため、非常に心理的に厳しいということがあったと思います。採用通知は10月ごろが多く、多くの学生が卒論・卒研に取り組んでいるといった有様でした。

また、このころから、3年次の夏以降、企業の見本市に行く学生が現れたと記憶しています。企業研究のためと称し、企業と接触するために、見本市会場へリクルートスーツで行ってきて、名刺を置いてくるといったことが始まったのがこのころです。出身大学のPRにもなりましたので、それまで学生が特定の業種の見本市に行くということはなかったのですが、企業側も学生が来たといって驚いていました。
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この回答へのお礼

経験者の方から具体的な詳細が聞けて嬉しいです。
当時の就職活動の状況が大変よく分かりました。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/30 13:22

大学の卒論か何かで研究されているのでしょうか。



>またはOB・OG訪問から企業と接点ができ、個別面接とか

このケースが多かったです。
学校の先輩と後輩が会う分には
何ら不自然はありませんから。


今年も就職協定で選考・内定出しは遅れますが
リクルーター採用は早い時期から行われます。
高卒採用などもそうですね。


一流企業の若手社員が
出身大学(一流どころ)のサークル・ゼミの後輩を集めて
(もしくは個別で)会社説明をして、見どころのある人には
この日この時間に会社訪問してね、と電話連絡。
社外でご飯をおごりながら面談。お茶を飲みながら雑談。
お酒や夜のお店へ連れて行くことも行われていました。
学生の間で「俺は●●商事の先輩からカツ丼おごってもらった」
「俺はXX堂の先輩からバーベキュー連れてってもらった」と
学生の奪い合いがありました。売り手市場と言うやつです。

>あるいは、学生が大学や就職情報誌の求人票をチェックして
>企業に送ると、企業から個人的にコンタクトがあり、
>個別に面接してもらえる、
>そういうパターンが多かったのでしょうか?

就職シーズンになれば大学生の自宅に分厚いリクルートブックが届けられました。
新卒向けのリクルートブックは広告の掲載費でまかなわれ、受け取る学生は無料でした。
様々な就職の情報を「職種」「給与」「男女」「年齢」と言った様々なキーワードから
検索をすることが出来ました。

各会社のページを切り取りとハガキになり
学校名学部名氏名等記入して
ポストに投函すればエントリー完了です。

学校・個人にPCが普及してリクナビが出来る迄の話です。

>また、当時、形だけでも「採用試験(筆記試験)」があったのか、
>それとも履歴書送付と面接だけでほぼ決まっていたのか、
>そちらも教えていただけたら幸いです。

会社・コネの強さによりけりですが
形式だけの採用試験があり、「俺全然出来なかったよー!」と
学生たちに悲壮感はありませんでした。


1985年が舞台ですが↓
参考図書:東京エイティーズ 安童夕馬原作、大石知征画の漫画
連載:ビッグコミックスピリッツ
単行本:(小学館ビッグコミックス)

Webドラマ:横浜エイティーズ
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この回答へのお礼

参考になりました。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/30 13:21

バブル期というのは無法地帯です。



私はこの時期より前から仕事をしていましたから就職戦線をこの時期に迎えたわけでなく、助かりました。

無法地帯、というのは、ルールがあってそれを守るだとか必ずこうする、ということを誰もしないということです。

協定なんて誰が守りますか。表向ききれいごとにしているだけです。
自分は守らないけど、他社は守ってほしい、みたいなのがきれいごとです。

映画なんかは、縛りを入れないとストーリーがおもしろくならないから、縛りにもかかわらず抜け道、という設定にしますけど、そんな行儀のいいことをしたところはまずありませんでした。

入社してくれたら自動車をタダで上げる、というような餌をつけた求人もいろいろあり、予想通りこれで入社したものはクルマをもったまま退社しました。でも企業側は平気でしたね。

つまり、企業としては黒字を減らしたいのです。
黒字は税金につながりますから、それは払いたくないわけです。
ところが地価は上がりますし、持っているだけで評価額が上がります。だから転売し、お金になります。
土地ころがしといって、売られるごとに値段は上がります。
ど素人が株やっても上がります。
使わなければ国税にむしられますから、経費にしやすいものをみつけようとします。
福利厚生施設の建設だとか、無駄な人材雇用が流行るわけです。

税金に払うくらいなら捨てたほうがましだ、といわんばかりのことをやらかしました。

このときに人材だった世代は、まだ枝についているままで腐っていく果物のような状態になりました。
とはいえ貴腐葡萄のような絶品になったのは少なく、柿のように落ちていったのです。

で、この世代は育っていませんから、まさにこの年代の人材が現在どの会社でも不足しています。
本来管理職として、次世代につなぐという役割を果たさなければならないのに、いないのです。

このときに株長者なんていっていた人間がどうなったかは千昌夫さんなんかを見たらわかります。

福利厚生施設がどうなったか、も、そういうものが周囲に一つもない人いないと思います。

まあ郵便局はもともと政府機関でしたけど、このバブル崩壊を10年遅れでやってくれたと思います。
かんぽの里、という福利厚生施設が今どうなっているか、見ればわかります。
民営化後、なかったことにしたいから東京中央郵便局なんかをさっさと壊そうとし、当時の鳩山邦夫総務大臣が烈火のごとく怒りまくった記憶もあります。
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この回答へのお礼

かなりひどい時代だったようですね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/30 13:20

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