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宇喜多家の侍大将 明石伯耆守は大阪夏の陣でキリシタンを率いて奮戦しましたが
関ヶ原の戦いでもキリシタンを率いていたのでしょうか?
それとも関ヶ原では普通の足軽・雑兵だったのでしょうか?

A 回答 (2件)

azuki-7 さん こんばんは。



私もNo.1 の回答者と、同じです。

豊臣秀吉は、1587年に、バテレン追放令を出しています。

五大老のひとりである、主君、宇喜多秀家が守らなかったとは思えません。

家臣である明石全登も関が原では、普通の足軽・雑兵と思われます。

しかし、ここからは私の歴史ロマンですが、明石全登は、高山右近と結託し、日本におけるキリスト教布教のため、マニラから1人で10人の侍をしとめる、フィリピン人傭兵や、イエズス会のスペインから騎士部隊を日本に呼び、闘ったかもしれません。

関が原における宇喜多秀家部隊は矢面に立ち、かなり善戦しましたから。

そのうち、どこかの旧家のお蔵から、「なんでも鑑定団」に文献資料が出てくるかもしれませんよ。

azuki-7 さんはその資料はいくら位の値が付くと思いますか(笑)。
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この回答へのお礼

ありがとうございました
関ヶ原での奮戦ぶりはすばらしいですよね
福島勢を500メートルも押し返し あわや壊滅寸前まで追い込んでます

お礼日時:2015/01/09 17:43

明石伯耆守 は関が原では 浮田秀家の家臣で、浮田勢(約8000人)の先方大将として浮田の兵を率いて戦いました。


(関が原当時、明石は浮田家の全体を取り仕切る家老のような高い地位にいました。)
キリシタン信者でしたから、中にはキリシタンの兵もいたかもしれませんが、いたとしてもキリシタンはその他大勢の一部に過ぎなかったでしょう。秀吉もバテレン追放令を出していますので、大っぴらにはキリシタンの兵は養えなかったはずです。

大阪の陣では浮田の家は取り潰されており(当主 秀家は八丈島に遠島)明石全登は浪人でした。兵がいないので、キリシタンである明石はキリシタンの兵を募って参加し働いたのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2015/01/09 17:44

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