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新撰組の役職名について質問します。
この組織のトップの局長は近藤勇ですが、普通に考えると「局長」ではなく「組長」あるいは「隊長」となるような気もするのですが、なぜ「局長」と付けたのでしょうか?
どういう事で「局」が選択されたのか、ご存じのかた教えて下さい。

A 回答 (4件)

 


江戸時代の幕府の組織における「長官」は普通、「頭」と言います。またその組織は、一般に「組」と呼ばれています。しかし、「組長」とは言いませんでした。「組頭」とか「番頭」と言いました。また特別な組織の場合は、長官は「奉行」と言います。

「隊」というのは、後の日本軍においては、軍隊組織編成の単位名が「隊」で、連隊・大隊・中隊・小隊という風に「隊」が編成され、その指揮者は「隊長」と言いますが、この「隊」という組織編成単位は、江戸時代にはなかったのです。確か、土佐藩(坂本龍馬)の「海援隊」がその最初の「隊」の使用例で、以降、明治時代に入ると、「隊」という名で、組織単位を呼びます。

「局」というのは「つぼね」と読むと、中世の頃から、宮中や、また江戸城大奥などの女性の役人の詰め所のような意味で、また女官や江戸城大奥の女性の取締役などで、それなりの地位があって、「独立した個人の部屋・事務所」を持っている人のその独立した部屋などを「局(つぼね)」と呼び、この主を「局(つぼね)」とも呼びました。

新撰組の「局長」の起源は何かというと、おそらく、この「局」とよく似た用法から来ていると考えるのです。彼らは、壬生屯所で、「会津藩預かり」となりますが、「新撰組」という呼称は、後に功績をあげて、幕府を通じて、朝廷から賜った名前です。壬生屯所を彼らの「部署・事務所・局」と見做し、その統括者を「局長」と呼んだのだと思えます。

局長は、最初二人とか三人とかいたのであり、芹沢鴨が近藤勇と共に局長であり、芹沢の方が格が上であったともされます。他方、子母澤寛が、小説のなかで「局中法度」という言葉を造りましたが、こういう五箇条の法度は実際にはなかったとしても、新撰組は組織において厳罰主義の組織内統制規則を持っていたことは事実で、この規則に従って、多くの隊士が切腹や斬首になっています。大幹部であり総長であった、山南も、「脱走」の責で切腹しています。

芹沢他を斬殺して粛正することで、近藤勇派が覇権を握り、近藤勇が唯一の局長、その参謀として土方が副長となるという体制ができます。

子母澤が「局中法度」という言葉を造ったのは、「局の中の法度(規則)」という意味である以上、新撰組が自分たちの組織を、「局」と考えていたということを裏付けると言うことになります。それは、以下の参考URLの「局長の由来」についての回答が述べるように、会津藩の組織のなかの「一部局」として、新撰組を認識していたので、彼らは「局」の組織であり、その統括者が「局長」なのだと言うことで話が合って来ます。

近藤勇が斬首で処刑されるのは、1968年明治元年で、大政奉還の翌年ですし、副長土方歳三が函館政府の陸軍奉行として五稜郭の戦いで戦死したのが1969年で、新撰組は、この時まだ存続していました。土方は、フランス軍の軍制を新撰組に導入し、戦死したときは、フランス軍将軍の軍服を着ていました(徳川慶喜も、末期には、フランス軍元帥の軍服を着ていました)。

「隊」というのは、江戸幕府にはなかったのですが、明治が近づくにつれ、尊王派・倒幕派だけでなく、佐幕派も幕府も、西洋式軍備や制度を取り入れ、新撰組も、「一番隊」「二番隊」など、八個の隊を編成しますが、その隊長は「組長」と呼んでいました。

会津藩預かりの立場から、近藤勇は直参旗本・幕臣となり、若年寄格となり、新撰組も、幕府直轄の組織となったので、近藤は、会津の一部局の「局長」ではなく、独立した部隊の「隊長」であるとも自称したのでしょう。

参考>レファレンス
http://www.lib.pref.yamanashi.jp/tosyokan/catch/ …
 
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この回答へのお礼

いろいろと詳しい回答をありがとうございます。
「局長」の起源が「局(つぼね)」にあるとの事、なかなか興味深いですね。「組頭」「番頭」などという幕府の職制に直結する名称を用いなかったのは、彼らの立場の複雑さがあったのでしょうか。

お礼日時:2004/06/28 09:11

正確には「隊長」と書くのがいいでしょう。


というのは、会津藩の記録などには親見錦や近藤勇、芹沢鴨らを隊長と称しており、中でも芹沢は「巨魁隊長」とされています。
また壬生の旧前川邸にある近藤勇直筆の落書きにも「会津新選組隊長 近藤勇」と書かれています。

それに新選組隊士とはいいますが、局士とはいいませんし、この辺りの事を考えると当時は「隊長」といわれていたように思われます。

ここからは私の推測ですが、後世、子母沢寛が創作した「局中法度」が有名になったために小説家などの多くが「局長」という表記をし、そこから「局長」という言い方が広まったのではないかとも思われます。
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この回答へのお礼

古文書には、「局長」ではなく「隊長」と記載されてるとの事、参考になりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2004/06/28 08:51

こんにちは~。



うろ覚えなうえ、調べたわけではないので確証は持てませんが、
たしか会津藩預かりの地位を得た時点で、
会津藩の職制に従うとの名目から
「組」を「局」に置き換え(言い換え)
そのリーダーを「局長」と呼称するようになったのだと思います。

つまり会津藩は各部署を「局」と名づけていたのです。

しかしそれはあくまで理由付けにすぎません。
新撰組は全体的に「カッコよさ重視」の方針があったようで、
「助勤」というネーミングにもそれらしい姿勢が窺えます。
ようするに語感重視です。(^_^;)

そういえば、
揃いのギザギザ模様の羽織や
緋に白抜きの「誠」の旗も「カッコよさ重視」ですよね。

なんだかこの辺は後のナチスドイツに似ているような気もしますが、
同時に副長土方歳三の関与を感じてしまうのは、
偏見でしょうか。(^_^;;;
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。「局」という職制は幕府の職制にはなかったのですが、会津藩にはあったのですね。

お礼日時:2004/06/28 08:48

あまり意味はなかったのではないでしょうか?


名前についても紆余曲折があり、また、役職についてもイロイロ使っていたようです。
推測にすぎませんが「組長」というと当時は「火消し」のように聞こえたからではないでしょうか?

参考URL:http://www.atn.co.jp/town/na/db/history/isami/si …
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。参考にさせていただきます。
江戸時代の職制に「局」を使うのは珍しいですよね、明治時代以降は使われてると思うのですが。

お礼日時:2004/06/28 08:43

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