プロが教えるわが家の防犯対策術!

日経サイエンス2015年6月号に掲載されたE.ナ―ミアス著の「意識と無意識の狭間に」を興味深く読みました。以下の引用は、前半のごく一部です。

<この実験で彼は、被験者の頭部に電極をつけ、当人が動かしたいと思った時に手首を素早く曲げてもらった。この結果、人々が手頸を曲げる約0.5秒前に、「準備電位」と呼ばれる電気的活動が検出された。だが被験者が手首を曲げようという意図を自覚したのは実際の動作の約0.25秒前になってからで、脳は本人が意識する前にすでに決定を下しているとの結論に至った。つまり、脳の無意識のプロセスが事を取り仕切っている。>
 彼すなわち実験者は、リベットである。

私の感想を書きます。自由意思といっても、自己が決定するものではない。身体のプロセスが先に実質的に決定し、それを自己があたかも選択や決定した、などと思う。すなわち、自由意思は、たんに追従しているに過ぎない。以上のように思えてくるのですが、如何でしょうか?

A 回答 (20件中1~10件)

お礼ありがとうございます。


リベット氏の実験について調べてみると、実験内容は以下のようでした。
被験者は、任意の時間に手を動かす。
被験者は、任意の時間を1/25s[s:秒]単位の時計を読んで申告する。
結果は、脳波の変化は、準備電位が、手を動かす0.5s前から発現する。
被験者が申告した時刻は、手を動かす0.25s前であった。
筋肉の応答時間は、0.15sである。(動かそうと思っても、筋肉まで信号が届くのに0.15sかかる)
ここで、問題なのは、視神経が反応するのにどれくらいの時間がかかるのかと言う事です。(人間の目が時間をどの間隔で識別できるかです)
被験者の行動は以下の2種類が考えられます。
時計を見る→手を動かす
手を動かす→時計を見る
もし、この2種類ならば、それぞれでバイアス(時間遅れ)が異なるはずです。
また、最初の動作の前に意思が発生するはずなので、その前に脳波が変化する事になります。
意思(動作の0.5s前)→時計の針の確認(動作の0.25s前)→手を動かす信号(動作の0.15s前)→手が動く
意思(動作の0.5s前)→手を動かす信号(動作の0.25s前)→時計の針の確認(動作の0.15s前)→手が動く
もし、この実験で、被験者の申告時刻が、ほとんど動作の0.25s前だったとしたら、このプロセスは、必ず時計の針の確認が先行する事になります。(これは、これで重要な意味を持ちます)
被験者の意識の中では、この動作は同時におこっています。
つまり意識の同時性は、誤りだと言う事です。
実験結果が意味しているだろう事は、人の意識は動作の同時性を0.5s以下では認識出来ないと言う事です。
それ以上の意味は無いような気がします。
意識と身体の機関の反応には、信号伝達の物理的なバイアスが必ず生じます。
外部刺激からのバイアスをリベット氏は0.5sと推定しました。(これは自由意思の実験では無く、外部刺激の実験から得た結果です)
何故か、両方共同じ時間ですね。
動作も、外部刺激も0.5sかからないと、人間の意識は認識出来ないのでは無いかと推定できます。
これらの実験からわかる事は、人間はおおむね0.5s以内の事は、行動も認識も出来ない。(単純に言えば、0.5s間隔で、意識は行動しているのではないかと言う事です)
ただ、それだけの事だと思います。
意思から行動へのプロセスは2種類考えられます。(これ以外もあるかもしれませんが、どちらかが最短でしょう)
本来は、誤差が生じないとおかしいです。(誤差があったかどうかは、リベット氏の実験データを見ないとわかりません)
誤差が無かった場合は、一方のプロセスしかないと考える事も出来ますが、これはおかしいでしょう。
つまり、プロセスによらず、脳の行動は、0.5sで一連の動作が行われると考えるのが自然です。
実験はこのような事しか説明出来ないような感じがします。
自由意思の有無というのは、この実験では説明出来ないと思います。
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この回答へのお礼

干天に慈雨のようなご回答を、頂きありがとうございました。
一部理解できないとはいえ、実験の手順などを教えて頂き、この実験により何処までの範囲が分かるのか、が理解できました(つもりです)。
<自由意思の有無というのは、この実験では説明出来ないと思います。>
ですね。被験者は、手首を曲げるように指示され、自分で意図したのですから、一番最初のトリガーは、意図ですね。もし、次のような観測(実験はできそうもない)があれば、自由意思関連を調べることができそうです。被測定者がたとえば道をぶらぶらと歩いているとします。その時、何の気なしに腕を曲げようかな、と意図して、動作をしたとします。その際に、身体の方が先に(意図より先に)何か反応を起こしているのか、(すなわち体が心に指示すことになる)、を調べることです。言うは易しく、行いは非常に困難だとは思います。今後の研究に望みを抱くだけです。

お礼日時:2015/11/29 21:33

#10です


「マインドタイム」などの本を読んでも、もしかしたら、問題は解決しないかも知れません。なぜなら、切り取られた部分のみが記述されているからです。

既に何人かの方が記述しておられますが、特に「身体が覚えた」というような動作の場合、フィードフォワード(無意識に先行する脳での予測)とフィードバック(身体の動作からの脳への信号)という2方向の脳と身体が連携する働きによって、ダイナミックな運動が可能となっています。

人間は生まれて直ぐに自由意志を持つのではなく最初は反射が主体です。どれ位成長した段階で自由意志と呼ばれるものを持つのかは難しいところでしょうが、自我が目覚める時期というのが、ほぼ該当することでしょう。リベットの実験よりもはるか昔から、人類は「行動より意識が遅れている」ことを「知っている」のです。反抗期や思春期を超えて、心身の統制を充分に成し得たと思った段階でも、部分として切り取られた行動は認識より僅かに先行するという事に過ぎません。

投げられたボールが怖くて目を閉じてしまう時、「目をしっかりと開けてボールを見るように」指導されます。恐怖心に打ち勝って目を見開いたままボールをキャッチする一連の行為を行おうと思う(思った)のは、ボールをキャッチした後でしょうか?

フィードバック、フィードフォワード、フィードバック、フィードフォワード・・・と連綿とした繋がりに対し、都合のいい極一部分のみを抜き出して『「そういった行為を行おうとした」ということ』を認識する(意識する)時間が僅かに遅れていたことを理由にして、「それは自分ではない」と思うとすれば、「では、誰がやったんだ」という事になるでしょう。自身の体を分割して「意識する主体」を無意識レベルから切り離し「無意識の部分が悪いんです。切って捨てて下さい。」と言えるのでしょうか?
無意識を含めて自分自身なのです。

人間であることの尊厳と限界の両方を知りつつ、(全人的なレベルにて)関連性の中で生きているのです。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。
<人類は「行動より意識が遅れている」ことを「知っている」のです。>
のですね。それらの二つに
先行するものが、無意識と言われているもの中に潜んでおり、その無意識は当然
<全人的な>
ものと切り離せないのですね。

お礼日時:2015/12/02 16:55

#16です。



>.ただし、本当に意図がいつも先か、どうか疑いたくなる場合もありそうです。例えば、歩いている時に、ここで手を上げようと思ったとします。この際は、身体が先に動いて、心が追従しているのかも、と疑っています。

おっしゃりたいことは良くわかります。
ただ、わたしの申し上げたかったのは、それは「自由意思」とは別に考えるべきではないでしょうか、ということです。
いきなり光を当てられると瞬間的に目を閉じると思います。
しかし、これは、あくまで反射作用であり、自由意思とは呼べませんよね。
これらを同列に論じてしまうと収拾がつかなくなるのではないかという気がするわけです。
『歩いている時に、ここで手を上げようと思った』の場合も、虫を避けるために手を挙げたような場合、あるいは突然現れた UFO を同伴者に教えるために咄嗟にその方向を指差す、などは自由意思には含まれないでしょう。
しかし、何かの目的物をわかりやすく指し示すために、「そうだ、手を挙げて示せばいいかも」などと考えて手を挙げる場合は自由意思になると思います。

>今、k_jinen様が紹介された前田隆司氏の著作を読もうと思っています、

ご感想を楽しみにしております。
色々、教えてください。
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この回答へのお礼

再三のご回答ありがとうございました。
No16のご回答で、反射作用などについて、触れるのを忘れていました。おそらく人開だけが折角獲得した自由意思を抜きにして、身体が動く場合がありますね。それ以上に、運動などでは、自由意思を強制的に省くために、猛練習を実施しているのですね。今、パソコンのキ―を打っていますが、習いたての頃は、自由意思(打つべきだという自己への強制意志なのでしょうが)によっていたのですが、重い自由意思を飛び越えて・敬遠してキ―を打つようになりました。
場面によって、いろいろ使い分けがあるものでね。

お礼日時:2015/12/02 11:46

連投です。

週刊誌ビッグコミックに連載中の漫画「レインマン」2015/11/25号、2015/12/10号、さらに次号にこのテーマに関係したのが載っています。2015/12/10号では運動準備電位BPや分離脳のことが載っています。見えているもののについての説明(意識され言語化された認識)が(事実として識別感知しているだろうこと)と異なる可能性も暗示されています。http://rocketnews24.com/2012/01/02/169147/  https://www.jstage.jst.go.jp/article/sicejl1962/ … 
通常"意識"というと、何らかの概念化を行った結果で、稲である、黄金色に輝いている、実っている、たくさんの籾が着いていると認識します。稲や麦を観たり知っていないヒトは、こうした認識ができませんが、見えてはいます。私は中国語や英語でなにか言われても、言葉として聞こえません。それと同様です。ただ、状況次第では叱責されているのか、案内されているのかは認識できます。うちのネコは注意叱責されているのがわからないみたいです。 "意識"を概念化や言語化(言語を使用することで概念を増やせます。"右手首を曲げるぞ"はこうした概念化、言語化の利用ができないと難しいです) でも、イヌなどは、言語理解のプロセスを経ずに、止まれ、進め、お座りを認識して行動を制御できます。心理実験などで動物を使用して学習に関する知見をえる場合、動物の自発的行動を調べることをしますが、その行動にあたり"人間が問題にするような意識の自覚"はないものとして扱っているのではないかと思います。餌をとるときに道具として棒や石を使用しても、その意識はあるから行動がコントロールされるのでしょうが、意識の意識、意識の自覚はないのだと思います。 親が狩りや餌の取り方を子に示す場合も、子に示す行動をとっていることと、"餌の取り方の手本を示す行動をとるんだという顕在化した意識に構成する"こととは別なのだと思います。
そうした概念操作を伴う意識の構成は、行動をコントロールしたり、知的に問題を検討するときに必ず随伴するとは限らないのでしょう。学者研究者やスポーツマン、演技者、将棋の棋士なども、いちいち意識を顕在化させることは時間の無駄、ロスタイムの発生でしかないと思います。訓練、習練、積み重ねてきた結果として、高度な処理回路を利用しパッと判断し動けるから、難しいことも何なくできるのだと思います。 それは脳をはじめもう"概念操作を伴う意識の構成とその認識"を不用とする状態を造っていくことだと思います。
"意識"という文字を手書きするとき、老化・痴呆化が始まっていなければ、字形や書き順を頭の中に思い浮かべるのはロスタイムでしかないです。そうした顕在化はしなくても、意識、違式、居敷、石城の文字やその後に書く文字は自然と出て来る。それは"顕在化させてない意識が何を書くのかを指示・指令している"からだと思います。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。
<見えているもののについての説明(意識され言語化された認識)が(事実として識別感知しているだろうこと)と異なる可能性も暗示されています。>
ですね。ご回答を拝見して感じたことをずらずら書きます。自分の意識、少し広げれて自分の考えや思いや記憶などは、自分の身近であるからよく分かる、と思いがちですが、必ずしも正しくないですね。変形やバイアスが掛りがちでですね。ただし、あまりにそれを考えると、自分も世の中も全て、懐疑の沼に足を取られてしまいますが。
猫や犬を使った説明は良かったです。人と対比される動物を考えることによって、人をより理解することができる、と思っています。
人は、大切な意識を使わず、あるいは重くなりがちな意識をわざわざ外して、行動することがありますね。
そして、見えているもののに・・・に関連して、誤読していることを承知で書きますが、大切なものは目に見えない、を思いました。今、星の王子様を読んでいて。

お礼日時:2015/12/02 09:50

随分多くの回答が寄せられ、また繰り返して補足説明されている方の多いテーマですね。

 こうしたことに私は詳しいわけでも、多くの回答を熟読したわけでもないのですが、雑感のようなことを記入させていただきます。
1)“自由意思”と“意思”、“意思の認識”、“意思形成のプロセス”などとわけて考えるのも大事ではないか
2)“認知”、“認知の認識”、“認識のプロセス”、“動作や反応などの(出現までのプロセス)と、動作や反応の(開始あるいは完了)の用語使い分け”もわけて考える

昔の列車は、先頭の機関車と連結された客車や貨物車があり、機関車が動き出しても連結された車両は前から順にガタンガタンと動き始め、動き出しには時差がありました。機関車自体も運転手が操作を開始・操作終了から機関車が動き出すまでには時間差があります。
さらに乗客として乗っている場合、動いたと認知するのは、体に振動や加速度がかかった瞬間ではなくて、感覚器官で得たものを神経が伝達し、脳内で総合判定した後になります。

実験で、実験者が任意の瞬間に手を曲げるとして、➀手の筋肉が動き出すのと手の筋肉に電位差が生じるのとは同じタイミングではないです http://www.sakaimed.co.jp/special/kinden/img/img … ②もしも脳内から信号がでて手を動かすのならば、その信号の伝達にも時間が掛かります http://www2.oninet.ne.jp/ts0905/emg/emgsemi.htm ③脳内から手を動かす信号がでた場合、“手を動かそうという意識”を自覚するのにもそれなりの時間が掛かっていると考えるなら、{“手を動かそうという意識”を自覚するまでの時間差a}と、{“手を動かそうという意識”で手に向かって信号が発せられるまでの時間差b+信号が手の筋肉にまで届く時間差c+信号で手が動くまでの時間差dのb+c+dの合計}も考える必要があるでしょう。④さらに{“手を動かそうという意識”を自覚するまでの時間差a}については、実験者が1/25sec単位で時を表示する時計の時間を認知判断し記憶開始するプロセスまでにどうした過程が必要なのか、そのための時間を考える必要がありそうです。
“今この瞬間の時刻を見極て記憶する”という行為には筋肉の稼働は不用なのかもしれませんが、「記憶しよう」「時計の表示を見極めて時刻として認識する」の2つのプロセスは必要です。「記憶しよう」というタイミングと「手を動かそう」というタイミングは同じなのでしょうか。瞬時であり同時刻とみなしても構わない状態だとしても、「時計の表示を見極めて時刻として認識する」と「手を動かそうという意識を自覚する」という2つのプロセスに掛かる時間はどちらが短いのでしょう。

他人と話をする場合に、発話に先だって発話内容を意識していないことは多いです。箸を使って食事をする場合も箸の操作に関して意識してから使うヒトはほとんどないでしょう。色々の形の食品から選んでどの部分をどう挟むのか力加減や角度は条件反射ではなくてやっているのでしょう。身体運動や手足、指、口や舌、発声などはいちいち意識しないでも脳がコントロールし身体各部がそれぞれ分担して運動をします。http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n3296 それに対して、"右手首を内側に曲げ動かそうと思った"のような具体的な意識は、ちょっと変わったことであり、普段は意識することがないので、私はそう考えたと認識・自覚しようとすると脳内では相当に手間取るものと思います。
テストで数学の比較的簡単に短時間で解ける問題の場合には、問題を読んだ瞬間にどうやっていくと正解が出せるかを思いついてしまいます。その種の問題に慣れる前は、出題文や式、図などから条件を抽出し条件の組み合わせや過去に知っている公式などで使えるものを当てはめようと盛んに頭を使うことになります。逆に云えば、かなり高度に知的な行為と思えるものでも、実は内容を細かく意識しない状態で問題は解けてしまう事実を私たちは日常多く経験しています。意識に顕在化するような行程は思考や行動にとっては、むしろ希であって、通常は行動も思考も、会話や読書、作文執筆でも、意識されない状態(意識を顕在化させる行程を無用として)で脳がコントロールしているのだと思います。

"自由意思"は別の場面で多く使う用語ですから、身体活動と顕在化した意識の時間的前後関係や因果関係、メカニズム、所要時間を問題にするときには"自由意思"を使わない方が、誤解や混乱を防げると思います。

ちょっと想い出せないのですが、「右上げて、左上げて、右下げて、右上げて、左下げないで、」のような遊びがあります。聞いて、その通りにやれば良いのですが、実際には勘違いというかミスをします。そのミスは聴力的な聞き違いミスではなくて、聞いた内容の判断ミスか運動指令のミスです。もちろん、次の行動を聞き手が勝手に予見して行動を開始していたので運動を止められなかったというミスの可能性もあります。しかしどの場合も、脳の活動で手を上下させていたには違いありません。その時の手の上下運動についていちいち「右手を挙げる・左手を下げる」という意識をしているのは最初の内だけで、やっている内にもうそうした意識をすることは止めてしまうのが普通だと思います。反射運動に近いともいえないことはないhttp://www.tennis-one.jp/22/muishiki01.htmlですが、反射運動、反射とは違いますhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E5%B0%84 … 錯誤や行動・運動コントロールの問題です。 意識(言語で認識や感情、判断などを顕在的に自覚した内容)の把握にはそれ相応のプロセスがあり、時間も掛かるのだと思います。意識を把握することなく、脳は知的な活動もしてくれると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
皆様から思ったより沢山のご回答を頂いてあります。その理由は次のことと考えています。①何方にも関心のあるテーマである。②質問が、突っ込まれやすい考えであった。
<信号の伝達にも時間が掛かります。>
ですね。この部分の解説を読んでいて、相対理論における同時を思いだしました。私のような凡人は、単純に同時だよ、と言っていますが、相対性理論では、同時も難しいものですね。
<意識を把握することなく、脳は知的な活動もしてくれる>
こともあるのですね。反射のような意図に無関係なものもあれば、隠れた意図がまず引き金になる場合もあるし、はっきりと見える意識から、という場合もありますね。その場合毎に分析が必要ですね。

お礼日時:2015/12/01 22:03

#13です。



ふたたび失礼します。
条件反射とは別のご質問だと思うのですが、それでよろしいですよね。
たとえば、ピッチャーがバッターとのタイミングを見計らってボールを投げようと腕を上げる。
このとき、「ここで上げよう」と意識する。
この意識が、どこか他のところから勝手にやってくるわけではないでしょうし、あくまでピッチャーという自覚があるからこその意識だろうと思います。
そうすると、「身体のプロセスが先に実質的に決定し、それを自己があたかも選択や決定した」とは、どうしても思えないのですけどね。
あくまで意思したからこそ、腕の筋肉を動かしたという順になると思います。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
1.例に挙げられたピッチャー・・・の場合は、おしゃるように、ここで上げようとする意図から出発し、身体が反応する、のだと思います。
2.ただし、本当に意図がいつも先か、どうか疑いたくなる場合もありそうです。例えば、歩いている時に、ここで手を上げようと思ったとします。この際は、身体が先に動いて、心が追従しているのかも、と疑っています。
今、k_jinen様が紹介された前田隆司氏の著作を読もうと思っています、

お礼日時:2015/12/01 15:28

腕を動かそうとする意志が生じてから、腕が動くまでに時間がかかる


からといって、それが意志に基づいたものではないとは言えない。
意志の発生を自覚するのも同様だ。
意志の発生を自覚する以前の脳の活動が、意志を形成するものであれば
(他の意志の介在が認められない限り)、それは自由意志だ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<意志の発生を自覚する以前の脳の活動が、意志を形成するものであれば>
<それは自由意志だ。>
ですね。

お礼日時:2015/12/01 11:53

たぶんこのあとには しかしながら やはり



  《カラダがその運動において先行する》

 という問題があるかに思われます。

 心臓がわが自由意志とは関係なく勝手にうごいているし 
 毒をふくむと白血球がおのづから集まって来てこれを排除するうごきを為す。
 
 ここで手首の曲げに相当するような事例は 持ち出しにくいけれど 陰茎の
勃起なる現象ではないだろうか。

 この事例のばあいは おそらくわが自由意志の発動などまったくないかたち
で 何らかの刺激を受けて反応している。

 ぢゃあ この事例は ひとの意志自由なる公理を無効にするだろうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
今までの回答や考え方とは、一歩進んだ回答を頂きました。
<《カラダがその運動において先行する》
という問題があるかに思われます。>
<自由意志の発動などまったくないかたちで 何らかの刺激を受けて反応している。>
など、含蓄深い示唆ですね。ここらあたりは、難しい問題なのでしょうね。

お礼日時:2015/11/30 19:28

【「準備電位」と呼ばれる電気的活動】自体が意志によって発生している、という推論はいかがでしょうか。


「動かしたい」と意識することによって、脳の A 神経細胞から神経伝達物質(化学物質)が放出され、それがシナプスを介して B 神経細胞へと移動する。
この受け渡しが完了するまでは、「動かしたい」という意識は有効性も持たない。
受け渡しが完了するまでの時間は 0.25秒。
そして、おそらくですが、「準備電位」というのは、神経伝達物質(化学物質)のシナプス間移動(という運動)を検出したものではないでしょうか。
受け渡しが完了すると。「動かしたい」という意識が有効となり、脳からの指令として腕の筋肉に伝達される。
伝達にかかる時間は 0.25秒。
結果として、意識してから実際に腕が動くまでの時間は 0.5秒。

以上の推論が正しいとすればですが、【脳は本人が意識する前にすでに決定を下している】という結論に関しては、正しいとも言えるし正しくないとも言える。
つまり、「意識」という作用の定義次第、ということになると思います。
一般的には「自覚(する)」と同義に解釈されるでしょうから、その意味では正しい。
しかし、意識される(自覚される)までに化学反応が必須だとすれば、その作業も含めて「意識」と解釈することもできるはず。この意味では正しくない。
わたしは後者の考え方をしたいと思いますが、ただ、この考え方には、ひとつ未解決の問題が含まれています。
では、その化学反応を起こすための意志自体は、一体、どんな力によって発生するのか?
ということです。
この力(意志の発生源)を明示しない限り、神とか霊とかいった力を主張する人も出てくるでしょうが、それこそが、まさに意志の力であって、意志することで神経伝達物質(化学物質)のシナプス間移動が可能なような脳の造りになっているのが人間なのでしょう、と考えます。
この点に関しては、前者の場合でも大差はなく、仮に「準備電位」の発生によって意識が制御されるとした場合であっても、では、その「準備電位」を発生させる力は、そもそも何なのか、ということになるでしょう。
質問者さんの表現を拝借すれば、『身体のプロセスが先に実質的に決定』するとした場合、その身体のプロセス自体は、どのような力によって稼動するのだろうか、ということになるでしょうか。
『自由意思は、たんに追従しているに過ぎない』とは思いません、というのが私の考えということです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<「意識」という作用の定義次第、ということになる>
わけですね。①自分が自覚した時のものを「意識」とも言える、ということですね。②また、被験者は、手首を曲げるように指示され、自分で意図したのですから、隠れている一番最初のトリガーすなわち
<【「準備電位」と呼ばれる電気的活動】自体>
を起こしているものも、意識といえる、ということですね。
戻って、「意識」という作用の定義次第になるのですね。

お礼日時:2015/11/30 08:50

くどくなりますが。



 ★ (№8お礼欄) ただし、今回、私は、大きいあるい高い人間存在という話題では
なく、手首を曲げるような、小さな・低いレベルを考えていました。したがって、カラダ
と心とを分ける方が、考え易いかな、と思っている次第です。
 ☆ おっしゃるように《考え方の違いによる》のでしょうけれど このように提出され
る考え方についても ひとこと触れさせてください。

 《手首を曲げる》という動作について考えてみても 

  《カラダとしての手首が手首じたいで運動を起こすわけではない》

 ということではないのでしょうか? なのですが。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
最初から、カラダも手首も心も切れ離せれないもの、と考えると、少なくとも私には、(たいしたものでないのですが)思考が停止してしまいます。それより、皆な別々だ、そしてどこが違う、どこに差がある、どこに食い違いが発生するのだ、と考える方が、私には容易だ、と思っています。

お礼日時:2015/11/29 16:39

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