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サルトルさんとか言う人が「実存は本質に先立つ」なんてカッコいい言葉を“創造”したようですが、実際のところは『本質』というものを言葉で表すのが困難なので、苦し紛れに「先立つ」なんて言ったように思えます。

私は次のように言い換えたい。
『実存は本質を覆い隠す』と。

サルトルさんは、本質は元々あるものではなく、創られるもの、造り出すもの、と言ったようで、それを受けてボーボアール女史は「、、、女に成るのだ」言ったのでしょう。

リンゴを実存的に捉えれば、丸くて赤く食べて美味しい、と言うことになると思いますが、これは変化してしまいます。
腐ってもリンゴはリンゴ。
リンゴとして消滅します。

この“実存”が変わってもリンゴはリンゴとして在り続ける、その事こそが本質である筈で、決して実存によって作られるものではないと思います。

従って『実存は本質を覆い隠す』と成りました。

ご意見頂けないでしょうか。
宜しくお願い致します。

質問者からの補足コメント

  • 今は、サルトルの云う"本質"は人間としての精神性の事を指している、と受け止めるのがいいのかなと思っています。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/10 07:57
  • 社会性、と云った事柄には私の頭は全く働きません。情けないです。

    あほなさんの考えを私の言葉に置き換えてみると、
    現実の存在を通して概念が生じ、その概念からエッセンスを抽出するとその本質が見えてくる、となりました。

    今は、実存主義がだんだんと分かりかけてきたように思います。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/10 08:40
  • レトリック。

    私もこのカテで使っているかも、と思いましたが、、、

    思い過ごしか?
    いい気になるな!って声が聞こえてきそうです。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/10 08:46
  • neutralingさんは以前にも私に理解出来るように、やさしく回答をして貰ったことがありますが、今回もとても分かりやすかったです。

    有り難うございました。

    No.11の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/12 22:13

A 回答 (16件中1~10件)

こんにちは、yy8さん。




たとえば、の話です。林檎や蜜柑やバナナは【(主に)食べるため】に存在します。椅子は【座るため】に存在します。鞄は【ものを入れて持ち運ぶため】に存在します。鋏は【ものを切るため】に存在します。布団は【寝るために】存在します。冷蔵庫は【ものを冷やすため】に存在します。湯呑は【茶を飲むため】に存在します。傘は【雨をよけるため】に存在します。木の根っこというのは【地面から水分や栄養を吸収するため】に存在します。学校という建物は【勉強するため】に存在します。会社という建物は【仕事をするため】に存在します。以下省略します。



今僕が【】の中に入れた【○○のため】という部分をサルトルさんは【本質】と呼んだのだと思ひます。林檎の本質は何か、椅子の本質は何か、鞄の本質は何か、鋏の本質は何か、以下省略しますが、たいていのモノたちには【本質】があるらしい、ということにサルトルさんは激しく違和感を覚えたのだと思ひます。【嘔吐】といふ小説は、だいたいそんな内容だったやうに思います。いえ僕がそう思ふとうだけです。間違いがあれば誰か直してください。よろしくお願いします。



ただ、人間には【僕は○○のために存在する】という、サルトルさんのいうところの【本質】が皆無なんですね。だから、今とりあへず実存している僕は【僕の本質を自由自在に創ることができる】のだし、だからこれはつまり人間の【本質】といふのは無限大だといふことです。ただ林檎や椅子や鋏のやふにそこに存在していれば実存している目的や意味が初めから用意されているというわけでもない、といふことだと思ひます。


現在あまりオツムが回らないのですが、補足要求など歓迎します。また他の回答者様からのご指摘も歓迎します。ではでは。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

なるほど、なるほど、なるほど!

実存は本質に先立つ、との表現はレトリックだったんですね。

あまりオツムが回らない状態でこの回答とは、さすがです。

サルトルを読まずしてサルトルが分かった!

そのうちに【嘔吐】を読んでみます。
有り難うございました。

お礼日時:2016/06/10 09:02

本質の意味を調べると「あるものがそのものであると云いうるために最低限持たなければいけない性質」となっています。

人間なら人間としての普遍的な性質、プラトンなら「イデア」というでしょう。
実存主義者は「本質」というものを全く無視するかまたは重要視しません。本質というのは恣意的に決定された固定観念に過ぎないと見るのです。なぜなら人間の本質と言っても現実の人間と人間以外の境界は必ずしも明確ではないからです。直立猿人を人間として認めるか認めないかは「恣意的」な判断によるしかないからです。
そのような観点に立てば、現実存在としての〈私〉は未既定ななにものでもない者ということになります。〈私〉が何者であるかは、既存の規範によって判定されるのではなく、具体的に生きることを通じて決定されるのです。実存主義者は普遍的な心理を求めるものではなく、あくまで〈私〉にとっての真理を求めているものだからです。
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この回答へのお礼

火のない所に煙は立たぬ、と云いますから辞書的な意味での「本質」と云うのはあるとは思いますが、それでは"これ"の本質はなんだ、それを言ってみろと云われてもたぶん、みんな云えないのだろうと思います。

そんなこと、いつまで経っても分からない事に執着していて、それが何になるんだと云った思いが現実存在に注目する動機になったのでは、なんて考えています。

実際、実存主義は具体性があってそれが"武器"となり、説得力が在ります。

サルトルさんが本質と云う言葉を使ったのは、捜したところで見つからない本質にいつまでもこだわるのは無駄ではないか、とのメッセージでも有るようにも思います。

また、かりに本質が分かったとしても、その本質には"力"がないかも知れない。実存を通してこそ"その力"を活かすことができる。いや活かさなければならないと主張したのでしょう。

もっとも、こんな感想を持っても"本質"への未練が消えたわけではありませんが。
有り難うございました。

お礼日時:2016/06/11 22:36

★(№13お礼欄) だから、もぐらたたきを例えとして使う


なら、本質論派が実存主義派の数々の本質論(腐臭を放ったり、
ナルシシズム的だったりする)に対して使う事になるのでは、
と思いました。
☆ なるほど。そう見たほうが 公平であり普通ですね。

現実主義としての実存主義派も 本質論派が やたらに本質を
――理想や理念として――持ち出して来てこれを振りかざすと
きには やはりもぐらたたきをやると思います。

どっちもどっちですね。

われら穏健派は 振子が極にまで振り切ってそこに止まってい
ることのないようにと言ってやる。ということでしょうね。

     *

実存主義の本流と見られる≪現象学≫にあっても 初めは≪本質
直観 あるいは 純粋意識≫というようなことを言っていまし
た。(長くその探究をおこなっていました)。

その後 ようやく本質論から≪生活世界≫の重視という見方にた
どりつき 現実派に戻ったようです。

【Q:現象学の 本質直観について くわしくおしえてください】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7034634.html

閲覧者の方で関心がおありになる方のために。
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この回答へのお礼

現象学なんてのも有るんですね。

興味が湧きます。

有り難うございました。

お礼日時:2016/06/10 17:53

人間にも「本質」はあるのです。

それはあほなさんの云われるような、「個々のモノから抽象された概念」=「類的な属性」です。
ただ、それらは個々のもの自体に目を向けていない。このリンゴのこの傷、この色のむら、この手触り。そういう個別性はすべて捨象されてしまっている。それが抽象化であり抽象化されたものが「概念」になります。

瀬里香さんの問題提起はいつも刺激的です。

yy8さんのレトリックは、どうでしょう?レトリックは「表現の修飾法」ですから『実存は本質を覆い隠す』もレトリックではありますね。・・・(?)かな?(笑)
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この回答へのお礼

「本質」は言葉に出来ないですね。

間接的な表現を通して想像するばかりです。

「本質」は究極の真理、に触れることになるのでしょうか?
興味深いです。

有り難うございました。

お礼日時:2016/06/10 14:47

★(№10お礼欄) 物がその物になる根拠のようなもの


☆ としての本質については残念ながらよく分かりません。

≪ぶっつけ本番≫志向については かつてルネサンス人のひとりが次の
ように言ったそうです。ご紹介します。

▲(ピコ・デッラ・ミランドラ:arbitrium(判断・自由意志(?))) 

《汝(=アダム)はいかなる制約によっても抑制されないで わたし
(=神)が汝をその手中においた自由意志にしたがって自己を決定す
るのだ。

わたしは世界の真中に汝をおいた。それは世界の中にあるすべてのも
のをそこからいっそう容易に考察するためである。

わたしは汝を天のものとも地のものとも 死すべきものとも 不死な
るものとも造らなかった。

それは汝が自由で名誉ある造り主また形成者のように 自分が選んだ
どのような形にでも汝自身を造りだすためである。

汝は堕ちて獣の世界である低次のものとなることも 神的なものであ
る高次のものに自分の心の判断により再生されることもできる》。

(『人間の尊厳についての演説』――金子晴勇よりの孫引き)
△ Oration on the Dignity of Man
https://ebooks.adelaide.edu.au/p/pico_della_mira
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ ということは この考えによるならば ≪いま・ここに現実に生き
ている存在としての我れ≫が 

  いやこのわれらが存在には モノのことはり コトのまことといっ
  た≪本質≫があるはずだ。
  われらはこの本質を突き止め その本質に基づいてこそ生きるべき
  なのだ。

と考えてもおかしくない。となります。

つまりは 現実存在なる我れ――つまり実存――は ありうべき数々の
本質論を覆い包むと見ることができます。よね。

包んだその本質論を必要に応じて おもてに出して来ることもありです。

そうすると 実存志向であるだけではなくそれを原理原則として訴えて
いる≪実存主義≫の側からは もぐらたたきが繰り広げられます。

それに対しては ≪本質論≫派から いや実存主義のやからの言うことや
ることには≪ひどい腐臭がする。やれやれ≫といった反撃が打たれます。

どうしたもんでしょう。
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この回答へのお礼

▲(ピコ・・・)何とか、以下は「自由の刑」の事ですよね。

ブラジュロンヌさんのいう≪本質論≫派は、人間を一般的概念で捉えて見た時の人間の本質(人が人たるための、と云った)に付いてですね?
また≪実存主義≫派は個々人に在ると思われる本質(資質が持っているところの、と云った)の事ですね?

そうだとすると、実存主義派の本質は結果としては人それぞれ、と云うことになりそうです。
そして、本質論派の本質には理想的な意味・内容、が欠かせないと思いました。

そう思うと"ありうべき数々の本質論"は実存主義派のほうに有るのであって、本質論派は理想的な本質と云う事になるので統一感が出て来ると思います。

だから、もぐらたたきを例えとして使うなら、本質論派が実存主義派の数々の本質論(腐臭を放ったり、ナルシシズム的だったりする)に対して使う事になるのでは、と思いました。

こう、解釈するのにだいぶ時間がかかってしまいました。

"誤解釈"でしょうか。
有り難うございました。

お礼日時:2016/06/10 13:48

こんばんは、yy8さん。



そして瀬里香さん。なるほど、わかりやすく面白い解説ですね。

蛇足を承知で。

「本質を創造する」のは、本質をその時々に選び取ってゆくということで、「ぼくは椅子になる」とか「じゃあぼくははさみになる」という限定(固定)された本質を選ぶ(創る)のではないということ。

前に瀬里香さんが言われたサルトルのもう一つの有名な言葉、『人間は自由の刑に処せられている』というのは、これといった「本質」=「予め決められた役割」が存在しないために、一瞬一瞬に自分を「選び取ってゆかなければならない」からです。「何にでもなれるがゆえになにも決められてはいない」という完全なる「自由」の「刑」です。

そこでは必然的にE.フロムのいう「自由からの逃走」が生じます。つまり「みなと同じに考え、行動する」「群れる」「既成の価値観に身を寄せる」などという「自由の放棄」です。

最近ここで「何のために生きるのか?」という質問が見られますが、サルトルー瀬里香風にいえば、「決まった本質」がない以上、生きる意味は「個々に見出していく以外にない」ということです。

「自由の刑に処せられている」存在の対極にあるのが「飼い馴らされた状況」です。
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この回答へのお礼

今の私は、結構この回答を理解できるようになったかな、と思っています。

「刑」とは自身で選べ、と云うことですね。

有り難うございました。

お礼日時:2016/06/10 09:07

≪本質≫とは何か?



実存の本質とは ≪実存が本質に先行する≫である。

けれども 実存志向の場合には この≪本質に対する先行≫と
いう本質にもとづき 思惟したり行動したりすることはない。

そのような本質に対していま・ここなる我れの存在が先行し
ているゆえ。つまり ぶっつけ本番である。つねに・どこで
も。

すなわち 本質とは何かは 本質論者にまかせておけばよい。
その議論については それとしてまなび利活用したり批判し
たりする。そのことも ぶっつけ本番である。

実存志向は あらゆる本質論――論をですよー―を覆い包む。
だと思います。

★ (趣旨説明欄) 『本質』というものを言葉で表すのが
困難なので
☆ という捉え方には ≪本質があるはずだ。本質はある≫と
いう前提が敷かれていますか?
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この回答へのお礼

今、いただいた№12までの回答を読み返しているところです。
たくさんの回答を見て、質問する前のなんとなくの感じが、はっきりしてきました。

私のいう『本質』は人としての本質、人たる所以と云った精神性の事ではなくて、物がその物になる根拠のようなものを指してるのだと。
いわばその物になる種のような"原因"のことを『本質』として、これをサルトルの言葉に当てはめるから疑問が生じたのでしょう。

また、ブラジュロンヌさんがご自身の事を実存思考だ、と云っていることも少し分かりかけてきたように思います。

回答有り難うございました。

お礼日時:2016/06/10 06:56

途中でした。



言い換えれば、この世に「りんご」があるかぎり、りんごの(類的)「本質」を持つりんごは永遠に存在します。
そのような「本質」に先立つ「永遠の中の一回性」=「実存」を大事にし、その生をいかに主体的に生きるか、というのが「実存主義」です。
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この回答へのお礼

なるほど!

有り難うございました。

お礼日時:2016/06/10 08:50

ついでに「りんご」についてですが、yy8さんが手に持っているりんごは、りんごとしての「本質」を備えています。


けれどもその手の中にあるりんごは、それひとつきりの、一回限りの存在=「実存」です。「同じりんご」は二度とありません。
ですから実存主義では、一回限りの個別の生を「類的本質」よりも重んじるのです。
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この回答へのお礼

なるほど!

有り難うございました。

お礼日時:2016/06/10 08:49

その通りですね。

実存から本質が見出され、本質は実存を生み出すが、ときに実存は本質を失わせ、本質は実存から乖離する。
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この回答へのお礼

自分の考えを再確認できました。

有り難うございました。

お礼日時:2016/06/10 08:48

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