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あの蛇のタトへを例に採ります。

ヘビが計略を案じ エワをして神に背(そむ)かしめた。このくだりは 
省略しますが そのあと:
▲(創世記3:14-15) ~~~~
主なる神は、蛇に向かって言われた。

 「このようなことをしたお前は
  あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で
  呪われるものとなった。

  お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。

  お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
  わたしは敵意を置く。

  彼はお前の頭を砕き
  お前は彼のかかとを砕く。」
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ということになった。

この部分にも のちのイエス・キリストの話につながるタトへもしくは
物語があると言われています。すなわち:
▲ ~~~~~~~~~~
  彼(=エワの子孫)はお前(=ヘビ)の頭を砕き
  お前は彼のかかとを砕く。」
~~~~~~~~~~~~~

☆ この箇所が のちのイエス(エワの子孫として)とヘビの闘いだと
言われます。



このようにタトへ話はそれなりに説得力を持ち 正解へとみちびかれる
ための補助線を引いたものと受け取られています。

ですが これを安易に受け容れてしまうわけにも行かない側面があるの
ではないか?

それは では ヘビは 世界における現実の問題であるのかどうか。で
す。

端的に言えば ヘビ(そして ヘビ=悪魔)のタトへは もともとこの
悪魔に比されるヘビなどは 存在しないということを イエスは示した
に過ぎないと考えられるからです。

いわゆる《原罪》の物語にもかかわって来ることです。
同じく端的に言って 原罪は 物語としての《表現のあや》である。

タトへや物語をとおして表現したほうが 分かりやすい。というただ一
つの理由で つづられたものではないのか?

これを問う質問です。どうでしょう?

A 回答 (5件)

タトエと言うか、単なる物語として考えても、創世記自体はかなりの矛盾があるわけです。


3:15については、さすがにキリストに対する預言と見るのは、無理があると言うのが、大多数のようですが、2:17に対しては、英語では”but of the tree of the knowledge of good and evil you shall not eat, for in the day that you eat of it you shall surely die.”となっており、知恵の実を食べると、その日のうちに死ぬと表現しています。(日本の聖書では、その日のうちとは書いていません)
では、アダムはどうなったか?
その日のうちに死んでません。
これを英語圏では、どう捉えているのか?
「神」が嘘を言った→これはありえません、何故なら「神」は全能性により嘘はつけないと言うか、「神」の言葉は全て真実になるからです。
一般的には、「神」の慈悲によって、アダムの死ぬ時期は延期されたと考えているようです。(日本では、その日のうちがありませんから、単純に命に限りが出来たと考えます)
ユダヤ教徒は原罪をそれほど重視しないと言われています。
それは、ユダヤ人(教徒)が何回も「神」に「赦されて」きたからでしょう。
原罪自体は、人間本来が持つ、罪を犯す可能性を意味すると思いますが、ユダヤ教徒は律法により、罪を犯さない道を選んだわけです。
単純に言えば、律法により、罰を与える事により、罪を贖わせたり、罪を犯さない事にしたと言う事です。
キリスト教の場合は、これより実は、より厳しい呪縛を与えていると言えます。
単純に言えば、律法では原罪からは、逃れられないと告げたわけです。
「罪」とは、誤った選択と言えるでしょう。
ユダヤ教においても、キリスト教においても、それは「神」の言いつけを守らなかった事です。(極言すれば、「神」を信じなかった事です)
このタトエに何故、「蛇」=「悪魔」を介在させる必要があるのか?
そこには、人間が何の誘惑も無ければ、「罪」を犯さないと言う前提があるのかもしれません。
無垢な存在が、「誘惑」により「知恵」を得て、「楽園」から追放され、「知恵」によって生きて、死んでいくと言うのが、原初のタトエでしょう。
キリストがその「悪魔」=「誘惑」が存在しないと示したかどうかはわかりません。
単純に「誘惑」は存在しないとしたら、人間は自発的に「罪」を犯す事になってしまいます。
それも真実だとは思いますが、キリスト教徒はそうは考えないんじゃないでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

質問のねらいは むしろはっきりしているのですが 問い方がまづか
ったかも分かりません。煮詰まっていないような感じが残りました。

▲ (創世記 2:17) ~~~
https://www.blueletterbible.org/kjv/gen/2/1/t_co …

・בְּיֹום ( be-yom )
KJV: in the day
~~~~~~~
☆ 《その日のうちに》ということですが ただ《日》と言っても
神にとっては千年が一日だという言い方をもしますし 24時間のこ
とではなく 長い期間を言うかも分かりません。


★ ユダヤ教徒は原罪をそれほど重視しないと言われています。 / そ
れは、ユダヤ人(教徒)が何回も「神」に「赦されて」きたからでし
ょう。
☆ 同じくそのように理解します。


《善と悪とを知る木から採って食べた》の問題は 基本としては自由
意志の問題を〔聖書記者たちは〕扱ったのだと考えます。

おのれの意志ないし心にもさからう自由度を 人間の意志自由は持つ
ということ。それゆえ 《善と悪》なる倫理観が来ると。

単純に捉えるなら わが心のヤマシサ反応のこと――色をつければ
良心のこと――だと見ます。これが 自由意志の〔持つ善悪にまたが
る〕自由度なのだと。

ただし・その基本線を踏まえても たしかに:
★ 誘惑
☆ の問題もが 人間には付き物であると言わざるを得ないようです。

そこからは 単純に
★ 悪魔
☆ のことが出て来て これは ヘビに譬えられる。このお話にはほ
とんど無理がないように思われます。

★ ~~~~~~
単純に「誘惑」は存在しないとしたら、人間は自発的に「罪」を犯す
事になってしまいます。
それも真実だとは思いますが、キリスト教徒はそうは考えないんじゃ
ないでしょうか?
~~~~~~
☆ ということになり ともかく厄介ですね。

自由意志も自由も良心も善も みな相対的なものだとしたら そのと
うとき自然本性にも 朽ちざるを得ないという人間の条件があり 何
ごとにつけても知恵の働かしようである。
――といったふうにまとめては あまりにも無味乾燥なのでしょうね。

人間は 誘惑に弱いです。ですから 罪というものを規定し その償
いや あるいは延いては その贖いの話になります。

お礼日時:2016/11/12 19:18

konnnichihaohayouは惜しいね。

惜しい。
他はくずだね。
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この回答へのお礼

えすえすてぃー・・・さんも がんばって。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/11/12 18:45

No,1です。


物語(聖書)の作者は 一人では有りませんよ。 よって、
ころころと 立場・考え方が変化 して、当然です。

要は、オムニバス方式 でしょう。
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この回答へのお礼

だけど 創世記と民数記とヨハネ福音のそれぞれの記者は
のちの者がみな すでに書き上げられた聖書の一編を踏襲
しています。

一般に前提として 同じ内容が共有されていたと考えられ
ませんか?

★ ころころと 立場・考え方が変化 し
☆ たと言うよりは そうではなく もともと多様な捉え
方をしていたと考えられる。という意味です。

つまりそこから タトへと 実際に伝えようとする意味内
容とは互いのあいだにズレがある。と考える余地がある。

よって・さらにそこから伸びれば タトへはあくまでタト
へであって 実在しない悪魔をもその物語の中には登場さ
せている・それだけのことに過ぎない。――と見る見方も
できないわけではない。と。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/11/11 14:17

bragelloneさん、今日は。

失礼します。まず、私は哲学の正規な教育は受けてい無い事を、述べておきます。ですから、全くの素人考えです。                                               「蛇」は、原始時代には特別な生き物であった事は、日本でも民俗学でよく言われます。実際、ヨーロッパでも、グリム童話などによくみられる様に、原始時代には、象徴的な生き物であった事をうかがわせる記述があります。ルー=アンドレアス・サロメが、ニーチェ達と若い頃撮った写真で、「蛇」のおもちゃの様な物を持っているのは、印象的です。     恐らく、「蛇」とは、石器時代も含め、「未開な」古代、の象徴なのではないでしょうか。逆に、ヤーヴェ旧約は、「先進した文明」の宗教、なのではないでしょうか。そう考えると、「原罪」の「楽園」のモチーフも、「失われた太古の時代」という事も、浮かび上がって来るのではないでしょうか。とにもかくにも、「旧約」が書かれたまさにその時は、それが「最先端の宗教」だった事は、疑う余地はありません。                             
   「未開な原始」との決別。これが、「蛇」にこめられた象徴、なのだろう、と思います。              つたない考え、つたない文章ですみません。これが、私の考えです。失礼いたしました。
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この回答へのお礼

こんにちはおはようさん 今日は。
ご回答をありがとうございます。

何だかむつかしそうですね。
★ 恐らく、「蛇」とは、石器時代も含め、「未開な」古代、の象徴
なのではないでしょうか。
☆ ううむ。

未開・自然・感性に対して 先進・文化・理性といった対比なのでし
ょうか。

ううーん。どうなんでしょうね。
つまり 反対の意味に取れるタトへもあるかも知れません。

たとえば 
▲(マタイ福音書 10:16) ~~~~~
「わたしはあなたがたを〔人びとの中に〕遣わす。
それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。
だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。
~~~~~~~~~~~~
☆ もっとも それは《ずる賢い》のかも分かりません。

その上で考えてみて:
★ 「未開な原始」との決別。これが、「蛇」にこめられた象徴、な
のだろう、と思います。
☆ という結論は 《悪魔や原罪の仮想》説をとなえるわたしの立ち
場からは 歓迎すべき命題ではあるのですが。

悪魔が実在であるとか 原罪についてどうやっても抜け出せないよう
なこだわりに落ち入るほどのやはり実在説であるとかに のめり込む
ことのないようにと願っているのですが。


まだちょっと煮詰めた格好にはなっていないかも分かりません。この
質問はです。

結論は いま現在 さきほど述べましたようにはっきりしているので
すが。

お礼日時:2016/11/11 14:33

そんなに 難しく考える必要は、御座いません。



ただ、物語(聖書)を作成した人物が、
ヘビを嫌いだった だけです。

まさか、聖書は、神が創作した 何て、
思っていないでしょうね。
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この回答へのお礼

★ ただ、物語(聖書)を作成した人物が、ヘビを嫌いだった だけで
す。
☆ それは ちょっと早合点ではないかと考えます。

ほかにもヘビは タトへとして用いられています。

水の神として・また生殖力ゆえに どちらも生活や生命の象徴とさえ
なったらしい。

と同時に 水の神は 洪水や大嵐などであらぶる神としても・それゆ
え悪の象徴としても用いられているようです。


そして 聖書記者が《ヘビが嫌い》という決めつけでは持たないとい
う事例として 聖書には《青銅のヘビ》のタトへと物語があります。

《モーセにおける蛇との闘いの事例》とそれにちなんだイエスの事例
とです。:

▲ (民数記21:6-9・・・《青銅の蛇》) ~~~~
〔* 民がせっかく奴隷状態にあったエジプトから脱出してきたという
のに そのことを荒れ野をさ迷うあいだに悔い始めたので〕主は炎の
蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみイスラエルの民の中から多
くの死者が出た。

民はモーセのもとに来て言った。

 「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、
  わたしたちから蛇を取り除いてください。」

モーセは民のために主に祈った。
主はモーセに言われた。

 「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれ
  を見上げれば、命を得る。」

モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、
その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。

▲ (ヨハネによる福音3:14-16) ~~~~~~~~~~
――イエスは 《青銅のヘビ》か――

そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(=イエス)も上
げられねばならない。

それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

~~~~~~~~~~~~~~~


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/11/11 13:55

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