プロが教えるわが家の防犯対策術!

いろんな場合があるかと思われますが ひとつの事例を示しますので 
その成否を問い内容の検証をおこなってください。
つまり ご見解をお示しくださいという意味です。

1. 何も規定しないこと。ただし 言葉は発するし それを必要なか
ぎりつらねる。

2. そのことによって 相手の心の周りに何がしかの雰囲気を醸し出
す。むろん 心地よい場として。

3. 極端に言えば その雰囲気は 相手の周りを囲っているのである
が 決して目に見える囲いを築いているのではない。

4. 囲いを作らないとは 第一項に言うように 言葉は発せられてい
つつも それによって何か一定のまたは特定の意味内容をもって規定す
ることがないという意味である。

5. 雰囲気はつくるが それは ただ抱擁される相手に対して 抱擁
する人がそこに・そのいま一緒にいるというただそれだけの内容にとど
まる。

6. 外国の事例については知らないが 日本人がそこにいて心地よく
心に安心を感じるというのは こういったむしろ中身のないクウキの中
にいるということではないか?

7. このクウキなる場が――つまりは 抱擁する者も抱擁される者も
ともに居続け得て――永続すると感じられるならば それは 無限抱擁
である。か?

8. その中身の分析がさらに問題であるとともに おそらく単純に言
ってこのとき 抱擁する側の人間とその思想というのは いったいどう
いうものであるのか? これが 大きな問題であるように考えられるが
果たしてどうか?

9. つまり早い話が 抱擁者は 慈悲の人か? ヒトタラシか?

A 回答 (3件)

> 哲学としての有効需要ではないように思うのですが



哲学以前に、あらゆる思索の場所で、場の質を落とすことには、なるでしょうね。
思考の枠をアグレッシブに変えてみる、というレベルで問題が解決へ動いていく方法に、疎いことに由来するのではないですか。

それも、円卓なら可能なことでも、直線的な時間に縛られた情報ツールでは出来ないものがあります。今日、テレビ、パソコン、電話を通じてインターネットが日常の人々の「声」の道具になっていることを思えば、もう、認識の棄揚が、直線的だし場当たり的なんでしょう。

そうなると、まず自分目線で規定の思考を否定された、とショックを受けるとか、または相手側の方でもショックを与えたのではないかとか、そこを問題に取るわけでしょう。
弁証法よりずっと後退しないと。

公立小学校がいま、わりとそういう教育ですよ。
「お友達の話を聞くときは、ほほえんで、うなずきましょう」と壁に貼ってあります。
さらに国語科の学習で、ほんとうにおざなりな付け焼刃の発表をしあって、聴き手は拍手して、褒めるところを見つけて述べたり、質問をする、という単元があるのです。

しかし、解決型の思考ツールをあらかじめ与えて、一緒に議題をポイント分析しながら話し合う、という高度な実践では、子供は生き生きとコミュニケーションするんですけれどね。
結局、視座がね。。。 あるかないかという。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

昔むかし 小学校の国語の授業で これこれの言葉の意味は何ですか?
と教師が尋ねると すぐさま手を挙げる生徒がいました。

そして いつも決まって これこれは これこれのように使うと 同
語反復で答えます。

その意味は どう説明すればよいかな? などと先生はていねいに対
応して みんなの回答が続けられ やがて正解を得るに到ります。

★ 解決型の思考ツールをあらかじめ与えて、一緒に議題をポイント
分析しながら話し合う、という高度な実践
☆ などというものは 当時考え及ばないものであったと思います。

★ 結局、視座がね。。。 あるかないかという。
☆ これも・つまり視座も 明示的に・意識したかたちでは 持ち合
わせませんでした。

でも それでも:
★ 自分目線で規定の思考を否定された、とショックを受ける
☆ こともなかった。と思いますね。つまり それ相応のショックだ
ったはずですが それは乗り越えたんだと思います。

地下にもぐったかという惧れをいまふと持ちましたが どうもそれも
ないのではないか。

というのも 中学校で同じ生徒らと話していた時にも そういう後遺
症は見られませんでしたね。



と考えて来るとすれば 問題はひと言で言って:

 過剰保護 あるいは 過剰防衛

といったことなのでしょうか? 現代人の生活態度ないし人間関係の
あり方は。


もしそんな考え方の中で育って来ているとするのならば 世の中の勝
負という勝負を競うゲームや競技は どういうふうにその人たちには
映っているんでしょうね?

でも:
★ 自分目線で規定の思考を否定された
☆ と受け取っているとすれば こんどは否定されないような回答を
考えてやろうと思ったりするとは 思うんですけれどねぇ。


つまり 昔とさほどは変わっていない。のではないか? とは 取り
あえずの結論として思えては来ています。

《解決型の思考ツール》といったたぐいのメディア材料が 違って来
ているだけと言っては 早合点でしょうか。

あぁ おれは何てバカなんだ! とは誰でも思うし そのことを誰で
も知っているはずです。これが 他人の発言をきっかけにして起きる
と パニックに落ち入るのですかねぇ。

そしてそんな現代人だからと言って ヒトタラシの専門家が要るとは
・・・。

お礼日時:2016/12/13 14:56

こんばんは、ぶらじゅろ~ぬさん。


先日はお礼をいただきましてありがたうございました。
続編と考えてよろしいですか。




1.僕のことですね。僕のやうな宙ぶらりんのことですね。でも僕は必要なときにしかしゃべりませんし黙りたいときは黙りたいですと云いますしお手上げなときはお手上げですと云います。僕は自分の生活を最も大切にしているからです。

2.これも僕のことですね。感情労働も労働のうちです。逆さまから読むと、僕の報酬を得るために僕は肉体労働の他に感情労働をして当然であるということです。

3.はい。檻とか鎖とか手錠とか縄とか毛布とか無菌ルームとか、目に見える形の【囲い】以外の【無形資産】での労働に該当しますが何か問題がありますか。

4.【保証】が何も無いまま、彼女の発する言葉が無担保で受領された場合のことを言っているのですか。それは彼女の責任ではなく受領した側の責任だと思ひますが。をかしいですか。

5. >そのいま一緒にいるというただそれだけ
:わお!これこそまさしく僕のことですね。これで満足するのが僕です。いえ僕は目的を果たしたのではありません。手段として彼女と一緒にいることを喜んでいるのです。得たものは彼女と一緒に過ごした時間や空間です。このことに何か問題がありますか。


6.>日本人がそこにいて心地よく心に安心を感じる
>というのは こういったむしろ中身のないクウキの中
>にいるということではないか?
:いえいえ、そうではないのです。卵の殻の中に閉じ込められれば安全が保障されますが退屈を強要されることと同じですから生きてゐる人間は例外なく誰でもこれを嫌ひます。人を子ども扱いしてはいけません。

7.たかが人間のすることですから無限なわけがないでせう。

8.分かりません。

9.どちらでもありません。彼女は彼女の人生を生きてゐるだけです。何か問題があるのですか。放っておく、という親切心さえあなたからは発生しないのですか。

10.他に書くことが無いので僕はこれで撤収しますが誰かもっと上質な反応をしてくださる方が現れ、ぶらじゅろ~ぬさんの質問が解決されると喜びます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

そうですね。全体として捉えて 第1項から7項までは きわめて単純な・
どこにでも見られる世間の現象をわざわざ長たらしく捉えようとしています。

◆(回答№1) ~~~~~~~~~
「そばに居て、頷いてくれるだけでいいの。解決方法や理屈なんか訊きたい
んじゃない!」という三流ドラマみたいなセリフを、教えて差し上げねばな
らないでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~
☆ と言われてしまうのも無理もないほど ありふれた現象を取り上げてい
ます。

問題は 第8項・9項にあります。

ありふれた現象としてありその限りでふつうに起きる縁起(人間関係)だと
考えますが 果たしてそれだけとして認識すれば 哲学の役目は終わりか?

これが 問いです。

すなわち №1でのお礼欄に書き込んだところが 同じくこちらのご回答に
対してもそのまま当てはまります。

そういう事情・そういう情況にあると思われます。



★ 7. たかが人間のすることですから無限なわけがないでせう。
☆ その通りです。そして ここではレトリックとして あたかもその抱擁
が互いのあいだで永遠に続くかに思われるといった感じを指して言っていま
す。

★ 6. ・・・人を子ども扱いしてはいけません。
☆ この場合 《殻》はないのです。せいぜいが シャボン玉のような透明
の繭で保護し抱擁するといったかたちなはずです。

その時の抱擁は 相手の意志の自由に任せる恰好ですから 子ども扱いはし
ていないように見えます。それでも 抱擁する側とされる側とに分かれるの
は 慈悲の問題ではなくヒトタラシの気配があるという問題提起です。

★ 9. 放っておく、という親切心さえあなたからは発生しないのですか。
☆ この場合も 現象としてはそのまま認めたその上で 哲学は 人間論の
重要な主題であるのではないか? とさらに考え進めると思うわけです。

おそらく抱擁する側とされる側とに固定して分かれるといった人間関係が問
題になるのではないか? 

極論して言えば その時には 親分・子分の関係が――クウキとしても――
形成されるのではないか? この問いです。

お礼日時:2016/12/12 21:09

抱擁者は、世間に求められる人ですよ。


「そばに居て、頷いてくれるだけでいいの。解決方法や理屈なんか訊きたいんじゃない!」
という三流ドラマみたいなセリフを、教えて差し上げねばならないでしょうか?
くだらねえ、、、愚痴や無駄話するくらいなら黙ってればいいのに、、、
なんて、人として愛がないものねえ。喋りたい人はやっぱり喋るわけだし、怒りたい人はやっぱり怒るわけだし、泣きたい人はやっぱり泣きたいわけだし、
そういう発露を無視しない人は、他者に求められますわね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ですから その《需要》がですね 有効需要かどうかではないのですか?

つまり その時その場の要求を満たす心理学としての需要は 哲学とし
ての有効需要ではないように思うのですが そこのところは どうお考
えになりますか?




世の中 現象としては れっきとした有効需要です。それに間違いあり
ません。

ですが たとえば経済学だとか物理学だとかのカテゴリで 現象に対応
する心理学的有能さが求められているわけではないはずです。

哲学カテは 何でもありの駆け込み寺であるということでしょうか?

でも 人生相談や心理学のカテもちゃんとあるようですし。・・・



★ 抱擁者は、世間に求められる人ですよ。
☆ この命題は 絶対肯定なのでしょうか? 無条件なのでしょうか?

お礼日時:2016/12/12 20:35

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