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後漢末期、三国志の時代は人口が一千万人くらい?
の時代ですが結局圧倒的に国力が抜けていた魏が中華統一出来なかったのは人口の絶対数、マンパワーの不足が原因の一つですか?
中国歴史上屈指のリーダー指導者曹操がいても中華統一出来なかったのはやはり当時は人材の水準及びレベルが高かったですか?

A 回答 (4件)

地図観て考えてみなよ。

軍隊が歩いて北海道から沖縄まで行くのに何日かかるか想像してみれば、当時の中国で戦に出かけるのにどれだけ時間と労力が必要だったか。そう何度も頻繁に戦争はできない。
戦先々で毎回陣を造るとか、途方もないだろ。
日本の統一とは「広さ」が違うんだよ。豊臣秀吉でも無理だったと思うよ。
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呉も蜀もまだ盛んで抵抗できていたことと、曹操の死後の魏国内の混乱⇒曹一族の勢力低下と司馬氏の台頭…ってところでしょうかね。

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「統一の途中で、曹操が死んじゃった・・」と考えて、差し支えないと思いますよ。



なぜなら、三国統一を果たした晋は、魏の後継国であって、「晋≒魏」ですから。
曹操は、その途中で寿命が尽きちゃったワケですが、もし生きてたら、そのまま魏が統一していたでしょう。

曹操の活躍ぶりからは、ちょっと想像しがたいのですが、曹操のデビューは、実はかなり遅めなんです。
曹操は兗州を得たところから「魏武の強、これより始まる」と言われるのですが、この時、既に38歳です。
それ以前も曹操は活躍してますが、後漢に仕える公務員的な立場での話であって、覇業はここからです。

現代だと、38歳で官僚を辞め、ちょっとした会社を起業した社長さんみたいな感じですが。
紀元前の中国の寿命を考えれば、+10~15歳くらいのイメージかも知れません。

ちなみに、曹操のライバルの一人、劉備(曹操より6歳年下)が徐州を得たのは34歳の時ですから、出自の悪い劉備と比べても、遅いデビューと言えます。

曹操にとって「天下分け目」と言えるのは「官渡の戦い」「赤壁の戦い」ですが、官渡46歳,赤壁54歳。
その後、蜀討伐に乗り出して、最後に劉備と対峙したのが65歳で・・なんと逝去の前年です。

わずか30年足らずの覇業で、死ぬ直前まで動きまくり、「中国統一まで後少し!」と言うところまで辿り付いた曹操は、やはり「破格の人」と言うにふさわしいのではないでしょうか?
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司馬一族の台頭、曹一族の衰退が原因ですね。

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