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親の実家の地域の近くにある村(現在市に吸収されてます)に調べてみたら、実家と同じ苗字がそこの村(区域)で人口の約4分の1が私の実家と同じ苗字です
私の実家の村(現在は市)は分家含め四軒だけです
うちの先祖が江戸時代本家ですが、そのうちと同苗字が沢山ある近くの村とは関係あるんでしょうか?
ちなみに珍しい部類の苗字です
因みに地方で農村ですから人口もそんなにいないです

質問者からの補足コメント

  • 庄屋ではなく郷士ですね
    分家のかたも苗字を公文書で名乗ってますので、郷士の可能性はあるかなと思います
    私の先祖は戦国期、城下町に住んでいて、武士だったらしいです
    江戸時代には大名転封で先祖の地元地域は関東の天領になりました

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/31 11:42
  • 郷士身分は江戸時代初期、天領または旗本領の時に与えられたみたいです
    先祖の地域では4世帯くらいですが、その村ではその何倍も先祖と同じ苗字がいましたからね
    因みに、自分の苗字は現在日本人一万人に一人ぐらいの割合らしいです

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/31 14:21

A 回答 (5件)

#3です。

補足拝見しました。
>庄屋ではなく郷士ですね。分家のかたも苗字を公文書で名乗ってますので、郷士の可能性はあるかなと思います

質問者様の先祖が武士身分であったらなら、いつの時代か分かりませんが、ほぼ確実に苗字が同じ人たちが住む集落に関係があるとおもっていいでしょう。

なぜなら「苗字は土地を守るために一番重要な情報」だったからです。土地の名前と自分の家系の苗字が同じになるのは「この土地は先祖代々俺のうちのもの」ということを知らせるためです。

武士というのは、土地を守るために武装した集団がスタートですが、それが鎌倉・室町と時代を経るごとに武士=役人、百姓(郷士などを含む)土地を耕す農民、と言う形で分離していったのです。

推測ですが、質問者様の先祖は「元の集落の郷士の中から、なんらかの功で取り立てられて武士身分になり、武家としての本家を確立した」人である可能性が高いと思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2018/08/31 14:23

私の実家は、江戸時代最後の庄屋でした。

江戸時代に倒産夜逃げした庄屋は複数あり、資産を持った自作農がその後釜に指名され、名字帯刀を許されていました。明治に至り、逃散した旧庄屋の分家は、庄屋時代に名乗った姓を名乗りました。当然我が一族も同様です。

郷士は、戦国時代前後に敗退やその他の事情で帰農した武士が殆どで、当然自作農であり、大百姓でもありました。地方の中核をなす家系であり、地方を納めるためには、各領主はこれを利用し、郷士身分を作り名字帯刀を許したのです。幕末の坂本竜馬の実家は、郷士ですが元を糺せば長宗我部の有力な家臣です。それが故土佐藩三大分限者と言った大金持ちです。

我が姓も珍しい姓ですが、江戸初期に実家の近在に数家族入植したようです。そして藩主と同じ寺に祀られていて、近在の寺の檀家では無いと不思議な関係でした。私は15代目ですが、それ以前の記録が無く、調べようも有りません。

戦前は、断絶した家系を復活させることは良くあることで、あの山本五十六元帥も長岡藩家老職の山本家を継いだことは有名です。又自作農は、分家を行い家系が増えたことも知られています。近隣の村落で分家する事は、しばしばある事で、それは婚姻関係が大きく作用していたと思われます。つまり土地の購入や、分家のの創立を、婚姻した有力な親戚が手助けしたといったところです。

旗本は、領地持ちとそうでないものが有りましたが、陣屋のない領地持ちの旗本は、陣屋の代わりになる組織が当然必要で、郷士をこれにあてたものです。大久保彦左衛門は、千石の旗本(長安事件で半分となった)ですが、陣屋の実質は、太助(一心太助のモデル)という手代が取り仕切っていたのです。太助は百姓の子弟ですが、士分に取り立てられたのです。
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この回答へのお礼

江戸時代に同じ村、近隣の村に住む親戚に助けられたことがあったそうです
ある理由で家を失ったとき、親戚が集まってお金を出し合い、数十メートル離れたとこの土地を与えてもらい、家も建ててくれたらしいです
田んぼや畑は大丈夫だったみたいですね

お礼日時:2018/09/01 11:48

江戸時代以前から続く家系なら、その村の名前と関係がある可能性はかなり高いと思います。



多くの人が誤解しているのですが、江戸時代以前からの家系なら苗字はもっていたのです。ただ秀吉の兵農分離と徳川幕府の士農工商分離政策によって「百姓は苗字を名乗るな」ということになったわけです。

その結果、江戸時代に大量に出現した小作農は苗字をもたなかったため、明治になって「苗字を名乗れ(逆に諱は使うな)」ということになって、庄屋の名字を分けてもらったり、1字もらって作ったり、新たに作りだしたり、村長とか寺の住職など学のある人が苗字を考えてあげたりしたのです。

その時点で「いいかげんな苗字作り」も相当に行われたと言われていますが、元々江戸時代以前からの家系なら苗字はあったので、それを名乗った可能性が高いです。

で、村というか一つの集落ごと同じ苗字ということは、そこは「その苗字を持つ人の先祖が開墾した場所」である可能性が高いといえます。日本は開墾永年私財法ができてから、各地で開墾し、その開墾した場所の地名がそのまま苗字になっているからです。

質問者様の家系は江戸時代の本家のようですが、たぶん、同じ苗字の集落から出てきた次男坊や三男坊(土地の跡継ぎになれない人)が今の土地に移り住んで開墾するなりして成功し、親戚を増やして土着した可能性が高いと思います。

その時に当然「元の本家」の苗字は知っていて、代々伝えてきたのだと思います。また質問者様の家が江戸時代庄屋レベルであったなら、その地域の総代として苗字帯刀を許されていた可能性も大いにあると思います。

この時に違う土地とはいえ、元の集落の苗字と全く同じ、それも珍しいものを使うことはトラブルの元になりますので、やはり何らかの関係性があったと考えるほうがいいでしょう。

これらの事を調べる方法はありますが、結構大変でもあります。一つ簡単にできるのは「家紋」と「宗教」で同じ苗字が多い集落の人々の家紋とお寺の宗派が質問者様の家系と同じなら、元は同じ家系である可能性はかなり強いといえるでしょう。
この回答への補足あり
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江戸時代で家族の姓があったのは、士族だけ。

町民、農民では姓はなく、名前だけ。明治時代になり戸籍も作るで、姓を決めるように。そもそも一般人は姓と言ってもピーン来ない、決める日も近ずき村長さんが、エイヤーでお前はこれからこの姓と名のれ。それも、家族毎に姓を考えるのもじゃまくさく、例えば、田下・田中・田上で村の衆の姓を決定。それで、同じ町に同じような姓が多くみれるように。

また、江戸時代以前の姓のある武家家族でも、改姓は頻繁に行われていました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます
村長さんが苗字を決めてたとは知りませんでした
庶民の苗字はお寺とかで貰うものかと思ってました

お礼日時:2018/08/31 07:36

昔の姓の付け方は、安易でしたから、同じ名前の全く違う家系というのはよくありますよ

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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2018/08/31 07:33

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