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「浄に依存しないでは不浄は存在しない。不浄に依存しないでは浄は存在しない。(中論 23)」
というのはあまりにも有名な言葉かもしれません。
ただこれは「A,非Aが共に真/偽が成り立つことは無い」という排中律に抵触しないのでしょうか?

またこの縁起に対して、自立論証派のシャーンタラクシタと帰謬論証派のツォンカパの間にはどのような解釈の違いが有ったのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • おお! なるほどやっと疑問が氷解出来ました(^^)
    浄や穢でもない自性によって成り立つ第3の物の可能性を排除する為に、浄と不浄による関係性を説いているだけであって
    排中律自体には抵触していなかったんですね。スッキリしました!

    別途で質問を立てようと思うので、もし良かったらそちらの方でも回答宜しくお願いします。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/09/26 06:41

A 回答 (3件)

復次


 不因於淨相  則無有不淨 
 因淨有不淨  是故無不淨
若不因於淨。先無有不淨。因何而說不淨。是故無不淨。
復次
 不因於不淨  則亦無有淨 
 因不淨有淨  是故無有淨
若不因不淨。先無有淨。因何而說淨。是故無有淨。

ここに書かれている内容は、「浄が無ければ、不浄も無い」、「不浄が無ければ、浄も無い」、つまり、浄・不浄は、それぞれの関係性からしか、決められないので、それだけで成り立つ「浄」、「不浄」は無いと言う事です。
排中律は、ある状態に相反する状態が同時に成立しないと言う事です。
ここでは、「浄」・「不浄」が、一つの状態にあるとは述べていません。
むしろ、別々の状態が、それぞれの、対立概念が無ければ、成立しないと言っているので、排中律を表現していると言えるのでは無いでしょうか?
結論としては、「浄」・「不浄」と言う概念自体が、浄(概念A)不浄:浄に非ざるもの(非概念A)という、構造だと言っているだけだと思います。(つまり、排中律には、抵触しません)
この後は、この関係性から、浄が無ければ、不浄も無いと言う形で、それぞれの対立概念の相手が無ければ、両方無くなると言う論理で、進んでいきます。
この回答への補足あり
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>「排中律」は、論理学用語。

排中原理,排中法ともいい,英語ではlaw of excluded middle。命題Aに対して〈AかAでないかのいずれかである〉ことを求める法則。同一律,矛盾律と並ぶ三大原理の一つ。
人はこのように、分別知で考えてしまいます。

>質問者さんの疑問は「即非の論理」ですね。
「AはAだというのは、AはAでない ゆえに、AはAである。」

これを理解するには、無分別知を理解する必要があります。
般若経典の金剛経から摘出。「仏説般若波羅密、即非般若波羅密、是名般若波羅密」がその原文で、現代語にすると、「仏の説く般若は即ち般若に非ず、是を般若と名づける」となる。
般若(はんにゃ)とは、サンスクリット語: प रज ञ , prajñā (プラジュニャー)、パーリ語: पञ ञ , paññā (パンニャー)に由来し、全ての事物や道理を明らかに見抜く深い智慧のこと 。

即非の説明法は、般若心経の「色即是空・空即是色、色不異空・空不異色」と同じ基礎を持つ。
空とは、有と無が同時にある状態ですから。空(有、無)です。今でいえば、素粒子レベルまで掘り下げると対消滅している。これが、空となります。

>白隠禅師の「隻手の公案」で出題される「両手のひらを向かい合わせて叩くと、拍手の音が鳴る。片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい」で考えると。
「拍手は拍手だというのは、拍手は拍手ではない ゆえに、拍手は拍手である。」
拍手の音はそれ自体では拍手という音はない 拍手の音は拍手とは関係ない両手のひらを合わせて叩くことで、拍手の音となる。です。
これが、無分別知です。

>またこの縁起に対して、自立論証派のシャーンタラクシタと帰謬論証派のツォンカパの間にはどのような解釈の違いが有ったのでしょうか?
ネットで調べてみました。確信はありません。

自立論証派のシャーンタラクシタは、苦の原因を元から無くす。
帰謬論証派のツォンカパは、苦は絶えず生まれるので中道がよい。

>私は、その状況に応じて、原因を考えて適応していく。「人間万事塞翁が馬」的なかな。
何故なら、お釈迦様は四苦八苦をなくすこと。すなわち、当時、輪廻転生から生まれたカースト制度によって人々は自由意志を損ねていた。
輪廻転生思想からの解脱によって、人々は、自由に生きることができます。
諸行無常という空の思想。原因結果という縁起。知彗(分別知と無分別知)によって、人間は自由に生きることができると、お釈迦様は考えたと私は信じています。


ちなみにご質問と関係ないかもしれませんけれども、

>ゲーデルの不完全性定理は、
第1不完全性定理 自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。
第2不完全性定理 自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない

第1不完全性定理は 「体系の中に,それ自身もその否定も証明できない命題が必ず存在する」
第2不完全性定理は 「体系が無矛盾であるならば,その無矛盾性はその体系の中では証明できない」

不完全性定理の証明のポイント

証明のポイントは,パラドックスを逆手にとった観点と,論理式を自然数で表した「ゲーデル数」というアイデア. カントールの集合論以降,多くのパラドックスが見つかったが,どれもそのポイントは「自己言及」だった.
例えば「うそつきのパラドックス」.

「すべてのクレタ人はうそつきだ」とクレタ人のエピメニデスが言った

>自然数の濃度と無理数の濃度(言い換えれば実数の濃度)の中間の濃度が存在するのか というのが気になってくるが,これが「存在しない」と言ったのが「連続体仮説」というもので, カントールが終生かけて取り組んだ問題だ
カントールの対角線論法

https://blog.riywo.com/2008/10/21/235635/
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この回答へのお礼

助かりました

おお、かなり詳しいですね…。回答ありがとうございました。

お礼日時:2018/09/26 06:44

二項対立を揚棄するのは 善悪の彼岸などとして つとに言われて


います。

浄不浄(浄穢)・聖俗・貴賤などの二項対立は 経験事象だ。
つまり 相対性の世界である。

そして揚棄する場合は ブディズム風に言えば:
煩悩即菩提・生死即涅槃・娑婆即寂光土。



問題は 有限で相対的な経験世界では この揚棄がかなわないこと
です。

だったら どう捉えるか?

善悪などの対立する二項を《超える》ことです。



【超経験の場】:
《信じる》:非思考の庭・・・・善悪の彼岸
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【経験世界】
《考える》:思考の緑野・・・・善悪の相対する世界
《感じる》:感性の原野・・・・  (同上)
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この回答へのお礼

ありがとう

回答ありがとうございました。

お礼日時:2018/09/26 06:43

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