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昔は「夢」を語れる余地が社会の中にあったと思いますが、今は迂闊には
言えない空気を強く感じます。

それは、動画の中に出てくる「ドリームキラー」がとても増えているから
ではないかと思います。

Facebookを設立したザッカーバーグ氏は、人間の幸せの為には「使命」が
必要であると言っています。

既成の権威が次々と色褪せてきて、乱世の様相を呈している現代において、
新しい哲学が必要なのは言うまでもありません。

何百年も前の哲学者の真似ごとをしていたって埒があきません。

私は「夢」と「使命」という概念が、哲学的に大変重要ではないかと考えます。

皆さんはどのようにお考えでしょうか?

質問者からの補足コメント

  •   補足日時:2018/11/02 15:47
  • 既存の権威が色褪せ、崩れ落ちている現代ですから、次は武力の争いでは当然なく、
    思想・哲学の争いであり、一般大衆の支持を得たものが勝利すると、私も思います。

    私の言っていることも、危険な香りがしますか?(笑)

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/11/04 15:23
  • No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/11/09 04:51

A 回答 (14件中1~10件)

現実にはないかも知れないが、真実にはそうであるのでしょう。


平等を体得する事は容易ではないと思いますが、結局、どの様な人間観に行き着いたかでその可否が変わってくると思います。

人間の本性は獣と変わらないとか、獣と人間性の混成物だとか言う人間観では平等を体得する事はできないでしょう。
人は、免れ得ない苦しみに見舞われてしまう。如何ともしがたい事が人にはある。人が、諸々の苦難とそれに対する本能的挙動を背負っているものであると知るならば、平等を体得するに向けた人間観の形成が培われます。

一言で言うなら、人間理解が平等の体得には欠かせないという事です。そして、真実に生きる人は、平等を体得し、現実にもその通りに生きることができると私は思います。

先ほども申しました様に、ピラミッドの頂点に位置する者も、底辺に位置する者も、中間に位置する者も、本質的には皆変わらない人間であるでしょう。老いて病んで死ぬ事から逃れられない。それ故にそれらに対して起こる本能的挙動を知って、争いを超えることを目指すなら、平等も見えてくる。
なぜ至ると言わず見えてくると言うのかと言うと、ここには理性的な挙動は含まれていないからです。平等は、理性的な挙動をも超えたところにあると思われます。
即ち、老いて病んで死ぬ事について起こる本能的挙動と理性的挙動をも超えたところに、平等はあるのだという見解です。

平等を可能とする要素は、この様な人間理解であると思うわけです。
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この回答へのお礼

あらゆる人間が平等であるという認識は、時空の認識と同レベルでアプリオリに
人間は所持しているのではないかと思っています。

子供のころのことを思い起こすと、そうであったとしか思えないんですよね。そ
れが、大人になるにつれ常識を吸収してゆくと消えてゆく。いや、正確に言えば
建前では平等、本音では差別、ということでしょう。

その社会の、本音と建前のカラクリがどうなっているのかということを考えるこ
とも面白そうですし、カントをもう少し勉強しながら、アプリオリな人間の能力
というものを考えるのも面白そうです。

仏教は「修行」によって境涯を開いてゆくという考え方、世間一般でも「努力」
を重要視してきましたし、キサラギさんは「体得」ということを仰る。
そのようにして人類は自らの持つ潜在能力を開いてきたと思うのです。このこと
が人間の生きることの内容であり、生きがいというものであり、また種の進化・
退化ということに大きくかかわってくるものかもしれないとも思っています。

AI化による合理化、遺伝子操作技術などによる能力の操作などが「新しいもの」
として期待する人も多いと思いますし、この流れは何らかの大きな変化がない限
り止めることはできないでしょう。

すでに、人間の能力は、知的な部分と精神的な部分で著しく落ちているだろうと
思います。
ザッカーバーグも大した奴ではなさそうです(笑)。

お礼日時:2018/11/13 08:59

確かにピラミッド型のヒエラルキーでは無く、仰るような役割や個性と言ったものの、有機的かつ総合的な連携によって出来上がる複合体としての社会像を見る事は基本的な意味を持つ事であり、それを詳しく見る事がより整合性の取れた社会像の想像に繋がると思います。



人体においても、頭脳が中心と考えるのでは無い方が、この複雑な機構を理解するスタンスとしては合っていると思います。


この短い人生において、自分以外の何かに従っている暇は無いでしょう。しかしそれは他者と軋轢を起こす個人主義とは違います。文明論からは離れるのですが、自分に従うことで、人は行き着くべきところに行き着くだろうと思っています。それを自由と言い、また人と人の間には上下や同じと言う立場は無いと言うのが平等と言うのであろうと思います。

有職者であろうが無職者であろうが、そして老若男女問わず、皆、この自由と平等を得ているのでしょう。
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この回答へのお礼

「平等」ということについてもう少し。

日本でもかつては、「平等」ということが正しいものと認識され、必ずしも
それを実践できない自分を恥じたのが一般的であったと思います。

私も人間は平等であるべきであるという信念を持ちながら、人間を階層的に
見ていた自分を恥じたものです。

ところが現在では、自分を恥じるということはなく、平等などというものは
観念としてあるにすぎず、現実には「ないこと」であるとの認識が一般的に
なっていると思います。

キサラギさんは、一般的に、人間が人間を平等に見ることが可能であると思
いますか?
そうであるならば、可能ならしめる要素は何だと思いますか?

お礼日時:2018/11/12 00:04

結局、選択の問題なのかも知れません。


なんの選択かと言うと、飼い慣らされた羊として生きるか、人間としての誇りを持って死ぬか、賢い羊飼いになるかです。

人間からすれば、生存の為に文明や支配構造は形成されてきたのだと私は思います。
この中で羊として生きると言う事は、文明の枠組みの中で支配されて生きると言う事です。これは、どんな大金持ちにしても、文明の主にしてもそうです。
人間としての誇りを持って死ぬとは、文明の枠組みと恩恵を捨てる事ですが、現代ではこれはよく想像出来ません。でも何となくあり得るかなと思います。かなり精神的な事だと思います。
羊飼いになるとは、自分の中の飼われたがりな性分を統御して生きると言う事です。文明を利用すると言えば良いでしょうか。これは一番現実的な選択でしょう。

文明の法則性や摂理を見出そうとする事はとても有効なことですが、にゃんぽこさんがそれを、ある意味で無責任な視点と思われるのも理解はできます。しかしながら述べておかねばならぬ事は、自由意思と本能は異なるのであり、文明は自由意思で作られたのではなくどちらかと言うと本能的な作用で作られたのではないかという事です。自由意思で作られたのならそれを制御するのは比較的簡単です。しかし、本能的な作用は制御が効かない。そして事実、文明の振る舞いは人間の制御を超えています。だからどうするのかと言うことなのであり、これが難問と言われている所以だとも思うのです。
賢い羊飼いになる事は一つの現実的な回答であるでしょう。超越的な回答は生き物としては死ぬが、人間として生きることだと思います。最後の羊に成り下がる事は、生き物として生きるが人としては死ぬと言うことです。

レイヤーとしては、文明に生きる羊、文明と自然界に生きる羊飼い、自然界に生きる人間、という事になろうかと思います。

ちょっと極端な話でしたか。
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この回答へのお礼

人間の身体は60兆もの細胞が有機的に繋がった統合体です。
一つ一つの細胞が役割を持って生体の活動・維持という目的において統合されています。

人類社会もこれと同様の摂理によって統合されるべき生命体であるということが考えられ
ます。
これは、無理のない自然な考え方であると思います。これを正しいものと仮定した場合、
それぞれの個性は役割となり、かけがえのないものとなります。その、かけがえのなさに
おいて人は「平等」になると思います。

人体の中の細胞に自由があるとは思えません。役割を与えられ(何に?)短い期間で死んで
ゆくわけです。
しかし、60兆の統合体である人間には自由があります、いや、あるはずです。少なくとも
人に支配されることを拒絶し、自分の望むことを選択することができます。これは自由意
志ではないでしょうか?
私はこれが「自由」の基本形ではないかと考えています。

人の個性にはIQによって数値化される頭の良し悪しが一つありましょう。また、マクロ的
な見方の得意な人と、ミクロ的なモノの見方の得意な人といるでしょうし、独断的な考え
方の人と懐疑的な慎重な人もいるでしょう。

過去を振り返ってみると、IQが高く、マクロ的見方が得意で、独断的な考え方の男性が、
雄弁でもあり、威圧感もあって…

この存在を信奉し、これをピラミッドの頂点とした階層的観念が身分差別を生み、不平等
理不尽、不幸を生んできたというのが文明の実態であったと思います。

仰るところの「本能的部分」というのは、細胞でいえば生体の目的であり、人間でいえば
人類全体の目的ということになり、それに従うということだと思います。
この本能的部分が失われたならば、目的の喪失つまり、文明の衰退、死ということになっ
てしまうでしょう。
だから、失ってはならないのですが、その目的を権力者を頂点とした「階層観」から見て
いるという点に問題があると思うのです。

つまり、平等、民主的であるべきだということです。

お礼日時:2018/11/11 05:13

消費は、現代稼働している文明の代謝活動の様なものですが、我々が知らなければならないのは、この文明が何を目指して発展していっているのかという事です。

何を目指していると思いますか?
 
ところで、私たち人間も同じく代謝します。その際、ピーマンやサンマ、牛乳など具体的な食物の命について思いを巡らすことがあるでしょうか?精々”いただきます”と言うくらいでしょう。おそらく文明も、消費される個々の人間の人生についてはそれくらいにしか思っていない。

富の集積は文明の発展の原動力であります。樹木の枝先にエネルギーが集中して、花や実、種がなるように、文明についても、エネルギー(富や知識、労働力など)の結節点において、その未来が開拓される。古代、文明の黎明期において、その場所は海や大河の周縁でした。船による大量交易が可能となった場所です。そこに都市が生まれた。都市は周辺の土地から富を集めて、どんどんと増殖、巨大化する。根っこや幹、葉から、花や果実、種が栄養を集めるようなものです。

そして、現代のエネルギーの結節点の一つは、仮想空間という事になるでしょう。結局ザッカーバーグも、従来の文明の形態の運動法則からは逃れてはいないのです。

百人ばかりの人間に、人類社会の富の50%が集中しているという話がありますが、この名も知られぬ世に隠れた文明の支配者の思想や哲学、信念について知ることが、文明の方向性、向かう先を見出すのに役立つであろうことだと私は思います。彼らは、場合によっては革命による粛清の対象になりかねないので、決して身を明らかにすることは無いでしょう。しかし彼らが人類の敵かというと決してそうとは言えないし、そのように言える根拠もない。ただ分かる事は、彼らも老いて病んで死ぬという事であり、本質的には我々と変わらぬ人間であるでしょう。そのような彼らが、想像を絶する富を抱いて尚、その富に圧殺されないような精神的な器量を維持していることを考えると、そこになにかしらの思想や哲学、信念というものがあると考えられるのです。一般大衆が目もくらむような富を得ると、大抵破滅するでしょう。その富を制御するだけの技術も思想も持たないからです。

私が思うに、おそらく彼ら文明の支配者もまた、生存するためのフロンティアを目指しているのではないでしょうか。それが宇宙なのか、仮想空間なのかはどちらでもいいことです。
ただ、ムヒカの言うように、しあわせになれるかどうかという事を、彼らの信念が許容しているかどうかという点については興味があります。例えば大きな責任を負った組織の長は、自らの幸せよりも、他の為すべきことを優先せねばならないときがあります。同じように、文明の支配者にも、その信念に従った行動が求められていると思われます。彼らが、自らの私利私欲のために行動しているとは思えない。彼らがそのような小さな器の人間ならば、とうに破滅しているからです。

おそらく、文明の先にはさらなるフロンティアが待っているでしょう。その実現のために個々の人間は消費されてゆくのも定めでしょう。生存の欲求に縛られる限りは、この業からは逃れられないのではないでしょうか。
しあわせとは何か、これに答えを出さない限りにおいて、どのような文明を持つべきかどうかの話にも決着はつかないと思われます。当然、文明の支配者は、フロンティアに人類を導くことこそが、しあわせなのであると考えていると思われます。
私は、しあわせとは、道の達成であると考えています。そこは新天地ではないかもしれないが、完成された土地であることは間違いないでしょう。
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この回答へのお礼

人類の文明が何を目指しているのかと言えば、これまで目指してきたもの、であると思います。

文明は、仰るような「運動法則」を原動力として動いてきたと考えると、資源も動植物も人間す
ら「消費物」ということになってしまうと思います。
しかし私は、このことが重大な間違いであると考えます。

人類の文明の発展の原動力は、特権者の利己的欲望だと思います。権力・財力を運よく掴んだも
のの意思、つまり、限りない力と富を(不老不死なんてのもありました)目指し、一般大衆は自己の
生活の為にそれに従うという構図は現在も変わりはないと見ています。

文明自体を何か「摂理」的に捉える考え方が多いことにあるときに気づいたのですが、これは学校
教育によるものではないかと推測しています。
私はかなり昔から否定的に考えています。

文明は人間の「自由・平等・幸福」の追求を原動力として存在し発展してゆくべきだと思います。と
すると、資源も動植物も無尽蔵に消費されるものではなく、人間が消費システムの歯車として消費さ
れることはあってはならないことですが、近未来にはその歯車から外されることすら予想されていま
す。

人間の宿業ともいえるその”支配"体制を、根源的に改革するということをザッカーバーグは夢見てい
ると思います。
彼は優秀なのでしょう。しかし、デジタル人間である彼とか、彼の影響を強く受けているであろう日
本の若い世代にとって、自由とか平等とか幸福といったものを"どう"理解しているのかということに
は強い興味と不安はありますね。

現実は変わることができるのか?ムヒカ氏も「極めて難しい」と言っています。難しいから諦める、
というのは人間の堕落だと思います。
便利で快適だと人間さらに堕落するでしょうね。歴史を見れば不屈の人間たちが偉業を成し遂げてき
たわけです。

お礼日時:2018/11/09 22:04

私もほぼ同感です。


私も10代後半から20代前半は、自由や善、平等などを目指しあれこれと考えたり友人と討議したものです。当時の私には、それらは考えだけでなく体得されなければならないものであるというのは分かっていたのですが、どの様にして体得されるのかは分かっていませんでした。30も後半になった今、どうやら本質に至るには、(余計な事を為さない事も含めて)為さなければならないらしい、そして、為してはならない事もある様だ、と分かってきて、今その様にしている次第です。
ただこれらある種の求道は、少なからずの人々が、いやむしろ多くの人々が歩いて来た道とも思われます。ごく限られた人だけがこの道を歩いたのでは無いはずであると思います。つまり求道するその事自体は、自慢する様な事でもなんでも無く、自分が至らないので求道が必要であったと言うだけの事だとも思うのです。それを勘違いして、自分を特別と思ったり、自分のしたこと、見出した事を特別と思いなして他を卑下するならそれは、甚だ愚かだと思います。

haru27さんについては、良いところがあると思います。正直な感想を言うのは彼の良いところです。日米首脳の晩餐会に出た寿司のくだりで、"そんなことはどうでもいい"と彼が言ったのにはスカッとしました。
悪い所は、"願望"と"信念や理想"を履き違えている節がある事です。彼には強い願望があるのを感じますが、信念はどうかな?と言う気がします。信念のある人は、むしろ自らの願望を抑えて、信念を貫いて"やって"生きているものでは無いでしょうか。
勿論彼が、ちゃんとした信念の人である可能性はあります。私はここでのharu27さんしか知らないからです。

さて、仮想現実がもたらす文明への影響は考察する価値があると思います。しかし喫緊は、仰る様な不都合な真実、現代の文明の弱点について考える事だろうと思います。
これらについての問題意識は共有できていると思います。

特に、支配被支配の実際や、個の開発や自立が結果的に社会発展を安定的に促進し、また人々の幸福に寄与するであろう事について興味があります。

年をとったせいか今は、未熟な頃にあった社会不信が薄れて来ており、より客観的に社会について見れるようにはなっているのかなと思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

>私もほぼ同感です

そうでしたか。

インターネットが作り出すコミュニティーでは、文字かせいぜい画像でのやりとりであり、
本音の世界であり、色んな人が色んなことを言っていて、面白いなと思うときはとても面白
く、嫌になると何もかも嫌になり、また疑わしくなり、でもなかなかやめられないという思
いを皆多かれ少なかれ持っているのではないかと思っています。

しかし、ネットの世界であろうがリアルの世界であろうが、少し違う角度から見た「娑婆世界」
であり、つまり現実であるわけですから、人間はここから去ることはできないということです
よね。

如何なる哲学・思想と言えども、この現実にぶつけて価値を生むものでなければ意味がなく、
現実の人間から離れたものは偽物の骨董品のようなものです。(価値については別途考えたい)
哲学・思想とはいわば上から示されるもので、一般大衆である我々は現実社会の第一線から
「体得」するものであり、その一致点において一般大衆が選択するものべきものと考えます。

かつては上から押し付けられるものであったものでしたが、これからは我々が選ぶ時代である
と思います。無思想というものも含めて。
現在から近未来にかけては一面的には、思想的乱世であると思います。結果はどうなるかは分
かりませんが…

現代文明の問題視については細かい部分はともかく、骨組みにおいては同様の思いであるよう
です。
ウルグアイの元大統領である、ムヒカ氏をご存知でしょうか?私は彼の考え方に大変共感して
います。

お礼日時:2018/11/09 04:38

何か、にゃんぽこさんのお話を聞きたくなりましたね。

骨組みだけお話いただいたと言う事ですが、肉付けの方も良ければ聞きたいです。議論は共同作業であると言う事は以前申し上げましたが、お話を聞く事でより良い識見を得る事を目指したく思います。
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この回答へのお礼

骨組みだけお話したと申し上げたのは、肉付けがきちんとできているということでは
必ずしもなかった、というのが真相でありました。
まあ、しかし、キサラギさんの考えを聞きながら、一歩深くまとめる機会と捉えるこ
ともできるかと思いましたので、少々お話したいと思います。

私の思想の原型はおそらく15.6歳で出来上がっていたものと思われます。それは、学
校の教育は全く関係がなく、その時までに受けた教育によるものであると思います。

親の教育と、読んだ漫画や書物の中から、自分で選択したものです。
大学の時にはすでにそのことについてあれこれ考えて文章にしたりしていました。今で
もその文章は残っています。

何を考えていたかと言いますと、今の私の言葉で表現すれば、一人の人間が本当に自由
に人生を謳歌するにはどうしたらよいのか?

そして、その自由を幸福に結びつけるには何をすべきであり、何をすべきでないのか?

人間とは如何なるものなのか?人間社会とは如何なるものなのか?

平等とは何なのか?

そして、個が埋もれている現状の社会の中で、人間の自由と平等と幸福を確立させるた
めにはどういう方途があるのか?

ハルさんと基本同じです。だから私は彼の気持ちが分かる気がするのです。

しかし、19.20歳の私は、この大問題から見ればあまりにも未熟でした。心も弱かった。
だから、その後長い年月かかかってしまいました。この問題に取り組める自分を作るのに。

私は、人間というもの、人間社会というものの本質を人類が理解してゆくほどに、社会全
体を変化させてゆくことは人間の潜在能力を考えれば十分に可能であると信じています。

まず、第一点には、現在の文明が如何なるものであるかという「客観視」です。

科学的には人類の歴史を振り返っての比較論と言うことになるのでしょうが、その作業は
すでになされているし、それでは不十分ではないかと思います。
想像力を働かせることです。

ザッカーバーグは、仮想現実・拡張現実が人間の想像力を刺激すると言いました。弊害も
想定すべきかと思いますが、効果もあるでしょう。

現代文明は持続不可能であると思います。環境問題等、不都合な真実は一般大衆には明か
されないでしょう。だから、想像力が必要だと思うのです。

この問題意識の共有が、まず、あるべきでしょう。どうでしょうか?

お礼日時:2018/11/07 05:35

にゃんぽこさんは平静で、話のできる人です。

前から知っては居ましたが、こう、本音を含んだ回答をした時には、相手のお礼が気になるものですので、にゃんぽこさんの平静な態度が私にはありがたいです。

さて、これからは思想、哲学の争いになり、大衆の支持を得た方が勝利する、との事ですが、その争いは、(外面は善悪で覆われていても)結局、自己の生存範囲を拡大せんとする本能的なものであると私は見ます。そして確かに、何かの思想哲学が多様性の中においても有力になる可能性は少なくないでしょう。
しかし私は思うのです。
それで?と。

例えば左派が右派を打ち負かした、それで?
その逆、それで?
こんな事に一生懸命になるのは、群雄割拠の戦国時代にも見られた様な事で、繰り返す歴史作用の中で踊っているに過ぎません。古いインドに曰く、世に三柱の働きがあって、それは破壊、創造、維持であると言う教えがあるのはご存知だと思います。
かかる様相を世間は呈するものであると見るならば、どうしてその中の一要素に執することができるでしょう。確かに戦いはおもしろい。だけれどそれによって得られる勝利は、真の勝利とはならないのです。では真の勝利とは何か。

争いに見えたものは実は争いではなく、敵に見えていたものが実は敵ではなく、自分が正しいと思っていた事が実は片落ちした執念であって、自分の為していた事が我執に満ちた行いだった事に気がついた時に、争いを超えた自分を見つける。それが真の勝利なのです。

にゃんぽこさんに物申すのは勇気のいる事ですが、時代を変える事よりも、成り行きを知って時代の変遷を超えた見地に立つことの方が、真の勝利者たる立場なのであると言っておきたく思います。それは傍観しているのでもなく、訳知り顔をするのでもなく、真実を知ったことで得る、"人々への確かな信頼"によって、立ち得る場所なのであります。

ザッカーバーグからすればトランプは敵であり倒すべき相手ですが、何故自分の前に敵が立ちはだかっているのか、その真相を知れば、最良の答えもまた湧出されるのです。

にゃんぽこさんの胸を借りるつもりで偉そうな事を申しました。
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この回答へのお礼

本音のぶつかり合いであるべきだと思います。しかしそれは、信頼関係というか
お互いに認め合う関係でなければ難しいとは思いますが。

矢吹ジョーと力石徹の関係のように、相手を認めるからこそ全魂を込めてぶつか
り合える、良きライバルの関係は、苫米地氏の言う「集合的エフィカシー」とい
うことではないでしょうか?

人類は太古の昔から争いを繰り返してきていて、21世紀の現在も軍事的・経済的
争いを繰り返していて、むしろ激しくなっていると思います。

ザッカーバーグはその争いの螺旋を終結させる「野心」に燃えていると思います。
私は、彼の思想の全体をまだ掴んでいませんので、引き続き情報収集するつもり
です。

彼は、その目的の為に三つのことが重要であるとも言っています。

1.世界中の人をインターネットで繋ぐこと、つまり、人種・国家を超えたコミュ
ニティーの場をつくること。

2.AI技術

3.VR(仮想現実)、AR(拡張現実)の技術

この考え方は、日本でも大いに支持されていると思います。そして、おそらく世
界中で支持されてゆくのでしょう。

それが一つの勝利であり、現在の正義であると思います。しかし、真の勝利であ
り正義であるかと言えば、私はそうではないと考えるわけです。

結論だけ言いますと、これでは「最大多数の最大幸福」は得られないし、争いの
螺旋を終わらせることは出来ないと思います。
でも、彼らの思想が正義になるのは間違いないと思います(すでになっていると言え
るかも)。
だから、闘いにならざるを得ない、ということです。

人類の争いは、人類が幸せになり、その状態がベストであると思った時に終わると
考えています。もちろん諸問題がなくなるということではありません。

考えていることの骨組みだけ申し上げました。

お礼日時:2018/11/06 04:40

>正直、これ以上出来ないというくらい頑張りましたよ。



この世に生を受けてきて、それで十分でしょう。それで、「一つの目標であった「独立」という夢は果たした」のですから、これ以上何を望むと言うのでしょうか。

ニャンポコリンさんは、『新明解国語辞典』と言う面白い国語辞典をご存知ですか、それの第四版(1989年版)山田忠雄主幹の版は特に面白いです。その中の「俗人」の項を引くと、

「俗人:高邁な理想を持たず、すべての人を金持ちと貧乏人、知名な人とそうでない人とに分け、自分はなんとか前者になりたいと、そればかりを人生の目標として暮らす(努力する)人」

と出ています。私はアメリカに渡ってうん十年経ちますが、これって「俗人」の定義ではなくて「アメリカ人」の定義なんじゃないかと思うようになりました。イチローのことも孫さんこともジョブズことも、あなたにとってはどうでも良いことなんじゃないでしょうか。「これ以上出来ないというくらい頑張って」一つの夢を果たせたと言うだけで、ニャンポコリンさんはこの世に生まれた者の中ですでに例外に属する経験ができたことになっている。聞くところによると、80を越えた高齢者に聞くと、そのほとんどの人が自分の人生を振り返って一番後悔したことは、自分の生き様の中で「挑戦」をしてこなかったことだ、とのことです。有名人がどうのこうのではなく、俺はこうだったってだけに興味のある「聖」なるものが手に入れば、それで十分だと思っております。

また、

>でも、そこが「ゴール」ではなく、事業を大きくすることが「ゴール」でもありませんでしたので、自分で設定した「ゴール」を今後とも追い続けることになります。

と言うのも、ある意味、一つの目標を達成した者は誰でも経験してきたことではないでしょうか。僭越ですが、私もあることで我武者羅に努力をして一つの目標を達成した経験があります。その時、一人で酒を飲みながら、これって、自分の人生の中でゴールだったんだろうか、それとも出発点なのだろうかと、感銘の涙を流しながら自問した経験があります。振り返ってみて、実は出発点でした。その後も我武者羅に前に進んで行く人生でした。私のとっての宝は、それで出してきた成果ではなくて、我武者羅な人生を送れたという、その行為そのものなんだと思っています。ニャンポコリンさんにとっても、「正直、これ以上出来ないというくらい頑張った」が宝であってほしいものです。
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この回答へのお礼

「一念に億劫の辛労を尽くせば本来無作の三身念念に起こるなり」(日蓮)

一瞬の心に限りないほどの思いを込めれば、究極の知恵である仏性があらわれる。

この言葉を知るはるか以前、子供の頃に心に刻まれる漫画の場面がいくつかありました。

一つはジャイアント馬場の自伝的内容の漫画で、師である力道山から教えられたのが「
死に物狂いの力」というもので、苦しい時に心でこの言葉を叫びながら強敵を倒していっ
たという場面です。

もう一つは、大好きな「明日のジョー」のラストシーンです。真っ白な灰になったジョー
の姿です。

死ぬその時に、僅かでも後悔を残したくない、ということが私のゴールと言っていいでしょ
う。

>振り返ってみて、実は出発点でした。その後も我武者羅に前に進んで行く人生でした

そのはずであると思っていました。

私は実績も欲していますが、それはイチローと同じように、私を笑った人間たちを見返して
やりたいからです。
でも、所詮は人間、我武者羅に頑張る以外にないと言えるようです。それから、信念を貫く
ことですかね、宝は。

お礼日時:2018/11/04 20:07

私はほんの少し絵を描くんですが、絵を描き始めのころは、エジプト時代の壁画のような、平らな絵しか描けないんですよ。

描いているうちにだんだんレベルが上がってきて、ルネサンス前くらいの絵だとか、ルネサンス期くらいの絵だとか、印象派くらいのレベルになったとか、さらに上達すれば現代的なレベルの絵になり、そしてついに達成すると、時代を作るような画家になるのだろうと思われます。もちろん、私は時代を作るような高度なレベルに達しているわけではありません。手先のテクニックはともかく、絵画、視覚の認識レベルとしては中世ぐらいのレベルです。

哲学の話をすると、私自身のレベルはギリシャ時代にも至ってないと思っていますが、数百年前というと、カントとかでしょうか?それくらいの時代の哲学や考え方のレベルに至っている人はどれくらいいるでしょう。過去の天才や開拓者のレベルに追い付いていないのに、現代のクリエイターに成れるのでしょうか。未来の開拓者に成れるのでしょうか。らちが明かないのは一足飛びに物事を成そうとする(ここでは新しい哲学の成立を狙う)からだと思います。今、私の言っていることはドリームキラーの言葉だと思われるかもしれませんね。何故、難しいことほど積み重ねが必要なのに、まるで簡単に言ってしまうのか。なぜ、小さいことから始めようと思わないのか。非常にステレオタイプなことを今から言いますが、例えば地球の環境破壊を考えるなら、まず自分の生活態度の見直しや住んでいる町の清掃が出来ていなくてはならないのではないか?それも出来ていない意識レベルで、地球規模の環境破壊問題に実感を以て取り組めるのだろうか?遠い国の貧困問題を解決したいと思うなら、月々のわずかな金額でもいい、募金などに取り組んでいるべきではないのだろうか。私が問題視するのは、ドリームキラーの方ではなく、”声高に叫ぶのに、その人自身は極小さなことにすら取り組んでいない事実がある”時です。叫ぶだけでやった気になる、良い影響を及ぼした気になる、でもその実は、自分にある何かのうしろめたさの免罪符にしているだけ、もしそのような心理が働いているなら、私はその欺瞞を指摘したい。口では善い事を言いふらしながら、自ら身を投じて善き行いをすることが無い。しかも、自分ではやらずに他人に”やれ”、と言う。このような者は傲慢で偽りの存在であると人々は簡単に見抜きます。

ムービーを観ました。成功した左寄りの思想を持つ者たちが溢してきた存在をどうするつもりか、平等を見直すことを唱えるザッカーバーグに答えてもらいたいですね。孫正義が、現実に埋もれる人々とひとくくりにしている人々が創り出しているものは何なのか、彼は分かって言っているのでしょうか。もちろん、私は彼ら成功者達に恨みがあるわけではありません。思想と思想の戦いとか言っているようなレベルだから、おっさん連に青二才と笑われたりするのです。

人生を歩むことで到達した、果てしなく広い大地を前にして感じるものの中にあっては、かつて抱いていた夢や使命などが、その役割を終えて、野の花のように微笑んでいる。夢を達成した人も、夢に破れた人も、等しくいつかこの大地に立って、感慨深く思うに違いない。

夢や使命感を持つことを、いい大人たちは否定しない。むしろ、夢や使命感を持てと諭しもする時さえある。しかしいい大人たちのねらいは、その抱いた夢や使命が達成されることにあるのではなく、彼らの得る成長や人生経験にこそ主眼が置かれているのだと知るべきでしょう。
ドリームキラーとか、ドリームサポーターとか、思想の戦いとか、現実に埋もれるとか言って、人々を敵と味方、成功者と非成功者に分けるような考え方をしている時点で、彼らの人間的成長はまだ途上にあるのだと容易に知られる。しかしもちろん、彼らが敢て知っているすべてを語らず、わざとそのレベルで語っている可能性はあります。

少し語りましたが、にゃんぽこさんにはすでに理解されている、あまり効果のない回答かもしれません。このQAを読む誰とも言わない人々へ向けての回答と思っていただければと思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

私は子供のころは、図画・工作、技術・家庭などの科目が得意でした。成績も
満点でしたよ。だから、絵を描くことが趣味だなどと聞くと、いいなあ、と思
います。

西洋哲学も、私は貴重な文化遺産だと思っていますし、専門家だけでなく一般
大衆もよく学ぶべきだと思っています。

問題は、哲学というものを観念の殻に閉じ込めてしまうことであると考えます。
この行動は、哲学というものに複雑な、いや、奇怪な(といっていいでしょう)論
理の鎧を纏わせて、人間の実生活と切り離す行為に他ならないと思います。

そうして出来上がった哲学体系は、権威化し、人間から離れ、ドグマと化してし
まうでしょう。
かつて宗教が権威化してしまったことは事実であると思います。だから、宗教を
批判する「感情」は分からないでもないですが、その権威化は宗教であろうが、
科学であろうが同じであると考えます。

また、行動を伴わない哲学的啓蒙も、結果的に哲学と人間を、あるいは理想と人間
を皮肉にも切り離すことになるだろうと思います。

この二つの事実に共通することは、「観念の操作の簡単さ」ということになると思
います。
観念の操作によって巨大なものを動かしたつもりになれるという快感の虜になって
しまっているのではないでしょうか?
しかし、善意がないわけではない、というところが人間の心の複雑さなのでしょう。

いずれにしましても、「口だけの人間」は当然信用されません。そのままでは孤独
地獄に陥るはずです。
ですから、お怒りはご尤もですが、私は正直、かわいそうと思うわけです。なんとか
そこから抜け出せないものかと…それは多くの人が感じていることでもありましょう。

イチローの淡々とした哲学は共感できますね。同じスポーツ関係では、サッカーの本
田圭佑の哲学がシンプルで好きです。

孫さんとか、ジョブズ、ゲイツなどは、実はあんまり好きではありません(笑)。あ、
ホリエモンも。
哲学の深さでは松下幸之助には及ばないと思っています。ただ、現代社会をリード
する存在であるという意味で、注目はしているということです。

ザッカーバーグのことはほとんど知りませんでしたが、「使命」ということを語って
いることに驚いたのです。
彼は今34歳。新しさ、新世代の聡明さ、少々危険な香りを感じます。(つづく)

お礼日時:2018/11/04 15:22

孫昌男氏がペッパーに似てると思いました。


孫昌男氏がモデルなのでしょうか。
孫マサヨシが増えると。

今回はドラクエではなくてffですが
レビ手とで浮かびました。

課とシンゴなのでしょうか。
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この回答へのお礼

孫さんがペッパー君に似てる?

うーん、似ていると言えば似てるかな。

お礼日時:2018/11/04 13:46

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