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2.26事件が後の日本に与えた影響を具体的に教えて欲しいです。
出来れば、その際の政府側の対応も具体的に教えていただけると有難いです。

A 回答 (4件)

 最大の影響は「軍にとって都合のわるいことをするとテロでやられる(軍にはそうしたテロを積極的にとりしまる意思がない)」という恐怖感を政治家に植えつけたこと。

次にこれは二・二六以前から顕著になってきていた世相ですが「世の中はこのままではいけない。貧しい苦しい思いをして生活している人をどうにか社会が助ける制度を作らなければいけない」という社会民主主義の潮流がたかまったこと。社会民主主義的傾向は、右翼ではいわゆる新体制・統制経済もしくは北一輝的な国会改造論の方向へ、左翼では社会主義革命の方向へ進みます。以降、政党の影響力がうしなわれてゆくのは第一の事情によって政治家がおじけつき、その分軍の進出をゆるしたことと、第二の事情が政争にあけくれていた政党の内部でつよく認識されていなかったために、国民心理から徐々に乖離しはじめていったこと、の二つの理由によります。その意味でも戦前の議会制民主主義の終焉となる事件だったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

この事件が社会民主主義にこれ程影響しているとは知りませんでした。
青年将校達の行為も、無駄では無かったということですね。
御回答、有難うございました。

お礼日時:2004/11/25 20:22

2・26事件後、「軍を統制しようとすると暗殺される」という感覚が文官の間に出来上がった、というのは既に皆さんも回答なさっていることですが、蛇足ながら付け加えたいと思います。



明治時代に作られた「軍部大臣現役武官制」というのがあります。陸軍大臣は現役の軍人でないとダメ、という規則ですが、この規則は軍部にとって非常に都合がいいのです。軍部の息のかかっていない人間が総理大臣になった場合、現役武官全員が陸軍大臣になるのを嫌がれば、それによってその内閣はつぶれてしまうからです。
つまり、軍は「軍部大臣現役武官制」によって内閣を思うがままにできるのです。

しかしこれではいけない、ということで、「軍部大臣は現役でない武官(予備役など)でもOK」ということになりました。

これまたしかし・・・2・26以後、首相となったのは外交官出身の広田弘毅でした。広田は軍を抑えるべく、寺内寿一陸軍大臣に軍の過激派を一掃させます。多くの陸軍大将が予備役(引退して後輩の指導にあたる人たち)になりました。
しかし、軍も黙ってはいません。
「せっかく予備役にしたのに、そいつらが陸軍大臣としてカムバックしてはいけないだろう」という理由をこじつけて、「軍部大臣現役武官制」を復活させたのです。

これによって日本政府はますます軍部のいいなりとなってしまうのです。
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この回答へのお礼

そういった制度があったことは初めて知りました。
ただ軍の言いなりになる前に、広田のように軍を抑えようとする行動があっても、軍を抑えきれなかった程この事件の影響は大きかったということでしょうか。
御回答、有難うございました。

お礼日時:2004/11/25 20:35

 2.26事件(昭和11年)で陸軍がやった粛軍と言えば、それまで10人いた現役の陸軍大将のうち7人が一挙に予備役にまわり、現役の大将は、突如、最年少のたった3人になってしまいます。

すなわち植田謙吉(陸士第10期)、西義一(同第10期)、寺内寿一(同第11期)です。
 
 植田は関東軍司令官として満州の責任者となり、西は教育総監となり、のこる寺内は広田内閣の陸軍大臣になるように求められます。しかし、寺内は入閣に先立ち、組閣の方針や他の大臣予定者の中に、まだまだ自由主義的色彩のある者がいたり、現状維持派や消極派がいるということで入閣を辞退します。
 吉田茂(戦後の首相)、下村宏(新聞界出身)、小原直(法曹界出身)は広田内閣を成立させるため、入閣を辞退し、それで陸軍が妥協、内閣は成立します。

 しかし、その後広田内閣成立2ヶ月たった昭和11年(1936年)5月18日には、寺内寿一陸相と永野修身海相の共同提案という形で陸・海軍大臣および次官を現役の軍人とすることにし、その旨勅令が出されました。

 これによって、軍部の賛成を得ない組閣は一切不可能、つまり日本の政治は結局2.26事件の後始末のどさくさまぎれに、軍に乗っ取られたのです。それを元に戻すことは、明治憲法の下では統帥権問題を持ち出される限り、どうしよもありませんした。
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この回答へのお礼

御回答有難うございます。
2.26事件は軍にとって非常に都合の良いものだったんですね。
軍の対応が細かい所まで分かりました。

お礼日時:2004/11/25 20:05

統制派が、皇道派に対する粛軍を断行して陸軍の実権を握りました。

皇道派の目指したのは、いわば天皇を頂点とした社会主義体制のようなものですから、果たして上手くいったのかどうかわかりません。

政府としては、戒厳令を出して、一度はクーデターを認めましたが、天皇の勅命により逆賊として討伐されました。朕の忠臣を殺害したとして、天皇がご立腹されたようです。その後首謀者と思想的先導者とされた北一輝が秘密裏の裁判を経て処刑されました。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます!
とても簡潔で直ぐに理解することが出来ました。

お礼日時:2004/11/25 19:45

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