プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

吉田茂がサンフランシスコ平和条約にどう活躍したかなどできれば詳しく教えてください!
(詳しくでなくても大丈夫です。)

A 回答 (3件)

吉田茂は大戦中イギリスでのうのうと暮らしていました。

何もしていません。税金ドロボーの爺さんでした。とさ
    • good
    • 0

目的は不明ですが、質問と称した丸投げですね。




>吉田茂がサンフランシスコ平和条約にどう活躍したかなどできれば詳しく教えてください!


あなたがこの質問をする前に、どれだけの事自分で調べて知っているのか不明なので「詳しく」の程度が不明です。

私はあなたが知っていることまで語るような無駄な頃はしたくありません。
聞いていない事を語らなかった という理由で文句を言われたくもありません。
怠け者を甘やかす事を親切と思ってもいません。


それに、そのような努力をしているなら、このような漠然とした丸投げではなく、質問の内容を調べてもわからなかった事に絞って、それを文章で表現できると思います。
それは、好意の回答を求める質問者がするべき義務だと思います。

そもそも、主旨(疑問点)を明確にせず、ただ「詳しく教えろ」と要求するのは、はたして質問でさえあるのでしょうか。


また、安易に「詳しさ」を要求しているようですが、「それ」に関する全てを詳しく語る事がどれだけのリソースを消費するのか考えた事があるのでしょうか。
そして、それは知識のある親切な者ほど苦労をすることになる事を理解していますか。



>詳しくでなくても大丈夫です。

詳しくない程度なら、自分で調べられると思いますが、それすらしていない(する気が無い)という事でしょうか。

ここはあなたの資料庫ではありません。
回答者はあなたの奴隷でもありません。
「吉田茂がサンフランシスコ平和条約にどう活」の回答画像2
    • good
    • 0

サンフランシスコ講和条約は、第二次世界大戦後に(日本にとっては太平洋戦争後に)アメリカを中心とした48か国と日本のあいだで結ばれた条約です。

当時の総理大臣、吉田 茂によって調印され、戦争の終結や日本の主権回復が各国に認められました。

条約締結に反対する国民の声もあったなかで吉田 茂が調印に踏み切ったのはなぜなのか。その理由をご説明します。

第二次世界大戦で敗戦国となった日本は戦勝国の占領下に置かれ、国としての主権を失っていました。政治を行うのにも他国の監視と干渉を受けており、日本は非常に不自由な状況だったのです。占領された状態から一刻も早く抜け出すためには、日本の主権を取り戻し、独立国家として地位を確立する必要がありました。

主権の回復には、戦争で敵対した国々との講和(=戦争終結の合図)が不可欠です。そこで吉田 茂は、アメリカを中心とした連合国と「単独講和」を結ぼうと考えました。単独講和とは、アメリカなど一部の対戦国だけと講和を結ぶ方法です。いっぽう、すべての対戦国との講和を求めるのが全面講和になります。

日本国内は単独講和派と全面講和派に二分されていましたが、吉田 茂はアメリカに使者を送るなどして、単独講和を押し進めていきました。なぜなら、一気に全面講和を結ぶことは到底できないと悟っていたからです。

第二次世界大戦が終結した後も、アメリカを筆頭とした西側諸国と、ソ連を筆頭とする東側諸国は対立を深めていました。全面講和を望むのであれば、西側諸国と東側諸国の双方と講和を取りつけなくてはなりません。両者が冷戦状態にある限り、同時に講和を進めることは不可能だと吉田 茂は読んだのです。

どちらか一方しか選べない状況でしたから、吉田 茂は西側諸国の中心的存在であるアメリカとの講和成立のために尽力します。日本は形式的に連合国軍の支配下ということになっていましたが、実際に日本を占拠していたのはアメリカだったからです。だから、日本を支配していたアメリカとまず講和を成立させることが日本の主権の回復への最短ルートだと吉田 茂は判断したわけです。

吉田 茂がアメリカとの講和を画策するいっぽう、実はアメリカでも日本と講和を結ぼうとする動きがあったのです。アメリカ側とソ連側が冷戦状態にあったからです。 勢力を拡大していたソ連など東側諸国に対抗するための拠点として、アメリカは日本を味方につけて利用しようと考えていたのです。

講和を結び、日本とアメリカが友好関係を築けば、日本は自然と西側諸国の仲間になります。主権を取り戻した日本国が国力を高めていけば、ソ連などを牽制するうえで大きな力になるとアメリカは考えたのです。こうして、主権回復を求める日本と、独立国家としての日本を利用したいアメリカの思惑が一致しました。

吉田 茂はこれをまたとないチャンスと捉え講和成立に向けて話を進めます。1951年9月4日、日本の全権を委任された吉田 茂は講和会議の行われるサンフランシスコへと渡りました。そして同年の9月8日、アメリカを含む計48か国が署名した文書に吉田 茂が調印したことで、サンフランシスコ講話条約が締結されたのです。簡単ですが…。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!