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萩の城下町の保存状態がいい理由はなんですか?萩城を中心に住んだのは当時の武士ですよね?これは江戸時代、士農工商の身分制度があり、城の周りを守るため武士が住むよう命じられたせいですか?私の理解が合っているかどうか説明してください。

A 回答 (5件)

>城の周りを守るため武士が住むよう命じられたせいですか


当時のお城はもれなくそうだったので、理由にはなりません。

となると、その後の経緯になります。
①戊辰戦争で敗れて処罰されなかったため、転封がなく明治以後も家臣が住み着いていた。
②土地開発が少なく昔の姿がよく保存された。
③戦争による損耗が少なく昔の姿が生き残ることができた。
④史跡保存の意識と取組が活発な地域であった。
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>海に面しているのに外部からの干渉が少なかった理由を教えてください。


外部とは外国の事では無いです、あえて皮肉を込めて政府を外部と表現しました
30数年前 山陰地方を旅した時、萩に限らず山陰地方は「遅れている・取り残されているな」と感じました

政府主導の近代化政策から取り残された
気がつけば古い町並み・家屋敷が残っていた
国鉄(当時)のディスカバージャパンという旅行キャンペーンに乗っかって、自治体がそれらを保存・観光化していこうとシフトチェンジしたからじゃないでしょうか
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戦禍に巻き込まれなかったから


山陰という地形上外部からの干渉がなかったから

↓↓萩に限らず、江戸時代以前の城下町は概ねそのような作りになっています
>江戸時代、士農工商の身分制度があり、城の周りを守るため武士が住むよう命じられたせいですか?
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この回答へのお礼

山陰って日本海側ですよね?海に面しているのに外部からの干渉が少なかった理由を教えてください。

お礼日時:2019/11/15 15:31

漆喰のボロボロになったイメージしかないのだけどw



萩城は海沿いの街の外れにあるイメージですね。海と川に挟まれた三角形の頂点に城があってその近くに武家があった感じでしょうか。
萩の歴史は良く知らないのですが、鉄道が街を避けるように迂回して引かれたため、鉄道の駅を中心に町が発達して武家屋敷あたりは取り残された。加えて山陰側で街の発達自体が低かった。結果、武家屋敷あたりまで開発が進まずに屋敷が残ったのではないでしょうか。
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・萩は毛利36万石の城下町として発展、天災や戦災を免れたため、当時の町並みや建物が継承されています。



・萩は4つの地区を重要伝統的建造物群地区として指定し、建造物の保存に取り組んでいます。

・世界遺産の取り組みとして『明治日本の産業革命遺産』は他府県と共に登録され、萩では萩城下町・松下村塾など5つの遺産があります。

以上のことから萩城下町の保存状態が良いのではと思います。
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