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吉野ヶ里遺跡はいつの時代に繁栄した遺跡ですか?

A 回答 (6件)

5~3世紀、弥生時代です


細かいことは吉野ケ里のサイトに書いてあります
http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=1
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他の回答にあるように紀元”前”5世紀~紀元後3世紀、縄文時代の終わり頃から弥生時代の終わり頃までです。


邪馬台国や卑弥呼で有名な魏志倭人伝の魏の使いが来たのが紀元後3世紀(AD240年ころ)なので、ぎりぎり範囲に入っていますが、やはりそのころには衰退していたのではないかと見られています。

魏志倭人伝には魏の使いが、梯儁と張政の2回あったことが書かれています。それぞれが別のルートだったとすると、末廬国(現在の唐津市)から東南500里+東南100里+東100里で、佐賀平野にぬけて吉野ヶ里遺跡の位置に丁度着くことになります。ルートとしては現在の国道323号線に近いものだったと思われます。里程がここで終わっているのも、そこがゴールだったからで、おそらくこのルートは2度目の張政のたどったものでしょう。なので魏志倭人伝に書かれている楼閣などの記述は、張政が吉野ヶ里遺跡で見たものが書かれていると私は確信しています。

張政が来た時、吉野ヶ里遺跡には台与が居ました。卑弥呼は数年前に亡くなっていますので、径百余歩の『卑弥呼の墓』が何だったのか気になるところです。卑弥呼の居た邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡とはまったく別のところです(こちらには梯儁が行ってるのですが・・)。

甕棺墓は北九州あたりに特有の埋葬方式ですね。いろいろ見ると、身分の高い低い関係なく同じところに埋葬してある遺跡も多いです。墳丘墓といっても共同墓地のように数百体の甕棺墓が出てきたりと、『身分が高いから墳丘墓』というわけではないようです。
卑弥呼は甕棺墓だったのでしょうかね。張政が来た数年前に卑弥呼は死んでいるので、有棺無槨などは倭人からの伝聞情報ということになります。棺が甕棺の可能性は十分にありそうです。
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邪馬台国が存在されたとする3世紀に最盛期を迎えていたという説が定説です。


縄文時代から存在していたみたいですが、弥生時代に最盛期を迎え、その後消滅した、と。
吉野ケ里遺跡=邪馬台国
はないでしょうが、時代からして、魏志倭人伝に出てくる国の中の一つかもしれません。
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縄文・弥生時代

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およそ50ヘクタールにわたって残る「弥生時代」の大規模な環濠集落(環壕集落)跡で知られ手います。

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飛鳥時代!

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