1. いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは:
○ 神が 人間となって 人間として(ということは人びとに決してその生前に
は 神であることを悟られずに 人間として)去っていくこと
だったのではないか。
2. この命題について問います。但し書きをしるして その次に趣旨を説明しま
す。
① タトへ(あるいは 仮説法)による議論です。
② この命題は 論理を問題にしていると言わざるを得ないかも知れません。
③ 神とは 超自然・超経験として人知を超えたところの場ないしチカラを言い
ます。
3. さて 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後には
全員かれを裏切ったという事態に現われます。イエスが逮捕されたときかれを去っ
て逃げた。
3-1. あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出た
ということ。そして実際に死を死んだということなどです。
4. 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上で奇蹟を起こした
なら 話は別だという意味ですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の
生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思っ
てしまう。
4-1. 言いかえると キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だから
そう出来るのだ われわれ人間には関係ないことだと言っておしまいになる。
5. しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間としてだ
けではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者とし
てでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や感性の光
にとどまってしまう。
5-1. 広い意味の芸術および科学の光――アマテラス普遍語(科学語および感
性をふくめた人格語)による認識――になってしまう。
5-2. 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその能力やそれを発
揮した成果なのではないと かさねて 知らせる必要があった。
5-3. 人間のかんがえる啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るが この闇を晴
らすことは出来ない。
5-4. その闇は 人間が自分で――その自由意志で――つくったものなのだか
ら。
5-5. つまり 人間が この世界について自分たちの知性の光で考えに考えた
成果を手にして ほんのちょっとそのときヘソを曲げスケベ心を出してしまったと
きの仲間への――ダマシとしての――裏切りによって 陰という陰を自分のものと
して帯びてしまった結果出来たものだ。
5-6. やがて 悪貨が良貨を駆逐するの喩えのごとく芋づる式に人びとをその
陰(または 寄らば大樹の陰)へといざなって作ってしまったその大きな闇なのだ
から。
5-7. 《ブッダターの光にて一隅を照らす》こともいいが 闇を晴らすことが
できるかの問題なのだ。
☆ 以上の趣旨説明にて 初めの命題を問います。
念のために言えばこれは 哲学です。よろしくどうぞ。
A 回答 (11件中1~10件)
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No.11
- 回答日時:
no.8です。
十字架の地点を通り越した先にしか到達できない土台から
取り巻く社会環境の実態とすり合わせながら構築された拠り所は
キリスト教だけではないと考えています。
つまり「十字架=キリスト教」ではないという立場です。
十字架上のイエスの言葉に関しては
1まで、さらに1.4までやった後の残りの0.1に対してまで
全方向という土台からの方向を見失った勝つこと至上の敵意を向ける
暴虐が存在したことを意味していて
つまりは骨を折られてそこを痛めつけられていたがらない人間はいない
ということだと思います。
突き詰めると
そこまで致死量を越えさせてまで縦のものを横にしないと気が済まない考え方をなくさないと
平和の実現は不可能。
そういうことまで府に落ちる形で分かることが
闇から光を見るということなのではないかと思います。
ご回答をありがとうございます。
ご見解の展望するところとでもいうような志向性について 理解できた
ように思います。
ただし それだとすれば やはりその人類の志向性――たとえば平和へ
の――として展望される内容が どうしてイエスの十字架上の死なる事
件をめぐって〔直截に〕受け留められるのか? これについてなお疑問
があります。
★ 十字架の地点を通り越した先にしか到達できない土台から
取り巻く社会環境の実態とすり合わせながら構築された拠り所は
キリスト教だけではないと考えています。
☆ でも 《はりつけ事件》は ほかにはあまりないと思うのですが?
異端視されて迫害に遭うといった要素は ほかにもあるかも知れません
が そこから思想としての志向性が取り出されるかとなると イエスの
ような事例は ないのではないかと。
(また あるとすればそれらは いづれもイエスを先駆者としての二番
煎じであると思われます)。
★ 〔神よ なぜわれを見捨てたか? という〕十字架上のイエスの言
葉に関しては
☆ もし:
★ つまりは骨を折られてそこを痛めつけられていたがらない人間はい
ないということだと
☆ 要約され得るのならば それは 受難の難のことだけをふつうに取
り上げていることになります。
けれども:
★ 1まで、さらに1.4までやった後の残りの0.1に対してまで
全方向という土台からの方向を見失った勝つこと至上の敵意を向ける
暴虐が存在したことを意味していて
☆ ということをも意味するとすれば 一方で暴虐も問題だが 他方で
それに対する《形勢不利であっても何とかして勝利という形式を得ずに
はおかないというやはり同じような敵意のむき出しが感じられる》とお
っしゃっていますよね?
これは 腑に落ちません。《人なら誰でも痛みは痛みとして感じる》と
いうだけではなく そうであってもなくてもとにかく敵には勝たなけれ
ばならないというかたち(内容)がうかがわれる・・・ということです
よね?
イエスは 完全に負けたのではないですか? おまけに父なる神によっ
ても見捨てられるということまでついて来た のでは?
〔しかも だから そのあとで――事実かどうかや その意味するとこ
ろがどうなのかを別として――《復活した》といううわさが流れた と
いうことなのでは?〕
つづく
No.10
- 回答日時:
我が神、我が神、どうして私を見捨てたのですか? イエスでさえ、神の意図に目を向けず、十字架にはりつけにされた、結果を見、苦しむ、このこと、人間にありがちな傾向ですよね。
結果のみを見、苦しむ。実際はこの先にまだ展開があるのに。プラトンの洞窟の比喩に、イエスも苦しんだのですね。ご回答をありがとうございます。
★ 我が神、我が神、どうして私を見捨てたのですか? イエスでさえ、神の
意図に目を向けず、十字架にはりつけにされた、
☆ ここは 一筋縄では行かないところだと見ています。
基本として〔と言うのもへんですが〕 イエス・キリストは 人間イエスと
して 《この盃を去らせてください》と願ったように 大声で泣きながら十
字架じょうに上りました。また同時に 神の子キリストとしては 《わたし
は 命を捨てることも また回復することも出来る》と言っていたように
すすんで・みづからの意志で(或る種の神のハカリゴトとして) 磔に成る
という手段を採ったのだと見ます。
★ 結果を見、苦しむ、このこと、人間にありがちな傾向ですよね。
☆ 盃から飲むことを嫌ったのですが それでも《最期まで イエスは父な
る神に従順だった》わけではありますが。
★ 結果のみを見、苦しむ。実際はこの先にまだ展開があるのに。プラトン
の洞窟の比喩に、イエスも苦しんだのですね。
☆ イエスは 大泣きに泣きました。
(出典をはぶいていますが)。
No.9
- 回答日時:
人間レベルの認識の光は、物事の背景にある、意図に向かう傾向になく、結果に向かいがちで、あーあだ、こーだといいがちなんでしょうか、ちょうど、プラトンの洞窟の比喩でも、本体に目が向かず、結果として、壁に映る物事の影=結果を見ている傾向が、人間にはあるのでしょうね。
ご回答をありがとうございます。
★ 人間レベルの認識の光は、
☆ このとき認識のほかにも 行動をふくめてもよいと思います。
要するに 思いやり あるいは 災害避難者の救助や援助などが身近な
光なのだと見ます。おのおのが自分の境遇に応じて《一隅を照らす》の
だと 最澄が言ったと思います。
これらは 人間の知性におさまりますし 努力によって実践しうるとこ
ろです。
★ 物事の背景にある、意図に向かう傾向になく、結果に向かいがちで、
あーあだ、こーだといいがちなんでしょうか、
☆ そうかも知れませんが いま上に見たとおり ひとまづ・それとし
て《闇を照らす光》なのだと見ますが どうでしょうか。
★ ちょうど、プラトンの洞窟の比喩でも、本体に目が向かず、結果と
して、壁に映る物事の影=結果を見ている傾向が、人間にはあるのでし
ょうね。
☆ 一度だけだったと思いますが このカテでその主題が持ち上がった
ことがあります。
わたしは 初めから成案としての解を持っていませんでしたし 相手の
方の見解も 正直に言ってなお明解ではなかったんです。
洞窟の比喩 これがわたしには 理解し得ておりません。と お詫びし
てお伝えしなければなりません。
いつものことですが ぶっきらぼうですみません。
☆ いつなんどき闇が来ても それに対処する光を持つようにすればよ
い。という考えもあるかも知れません。
いまここで問うのは そもそも闇じたいを晴らしてしまう光は あるの
か? あるのならそれは どういう光か? だと思います。
No.8
- 回答日時:
闇としての常識の慣性にまみれた日常に一石を投げかける経験。
そういう経験をする人が
既存の枠組みが時間の経緯とともに形骸化してひずみが蓄積していく中で
数として膨れ上がっていきその中から光を与えるものが現れる。
というのがニーチェの超人思想で
その光がキリスト教ではキリストの十字架上の奇蹟ということになると思います。
十字架上の奇蹟を比喩と解釈して
十字架の地点を0、1、1.5のプロットの1の地点とします。
そして1を普通の人間が一生かけて人生を進んで死ぬときに到達する地点とします。
そうすると、十字架上の奇蹟を起こしているのは1~1.5の段階で
それは、生きている間に1まで到達できないほとんどすべての人間にとって
奇蹟といってもいい成果をあげている段階ということになると思います。
その奇蹟といってもいい成果というものが
字面通りの理解の域を出ない人には想像できなかった。
だから4-1のように、みんなには関係ないという話になっていたんだと思います。
十字架上の成果というのは
全人類がひずみのない方向に向けて進歩していくための知恵
といっていいと思います。
つまりみんなに関係ないどころか
みんなが幸福に暮らすための日常をキープするためにも
一番大事な成果だったと。
念のために付け加えますが
そうした知恵としての拠り所になっている宗教はキリスト教だけではありません。
そしてそういう拠り所は宗教だけではありません。
ご回答をありがとうございます。
★ ・・・既存の枠組みが時間の経緯とともに形骸化してひずみが蓄積していく
中で 数として膨れ上がっていきその中から光を与えるものが現れる。
というのがニーチェの超人思想で
☆ あいにく ニーチェ嫌いで通っているぶらじゅ君です。
でも 超人とは 《大自然・大河》のことでもあったのでは?
★ その光がキリスト教ではキリストの十字架上の奇蹟ということになると思い
ます。
☆ 死のあとのいわゆる復活を言うとすれば 《奇蹟》ですが 磔による刑死に
ついては 奇蹟はないと思いますが。
そうですね。今回の文章だけからは 分かりづらく 解釈を早とちりさせかねま
せん。問い返してお訊きしたほうがよいと思いました。
★ 十字架上の奇蹟 / 十字架上の成果 / 比喩として 1~1.5の段階
★ 全人類がひずみのない方向に向けて進歩していくための知恵
☆ これらは じっさい具体的にどういうことを言っているとお考えなのですか?
いまひとつ わたしにははっきりしないところを残しています。
たとえば:
★ ~~~
念のために付け加えますが
そうした知恵としての拠り所になっている宗教はキリスト教だけではありません。
そしてそういう拠り所は宗教だけではありません。
~~~
☆ という見解をふくむのであれば 十字架上に終わるイエスの生をいまここで
なぜ特にあつかっておられるのか?
そのときイエスは 《わが神 わが神 どうしてわたしを見捨てたのですか》と
も言っています。
これらをまとめて どういうふうに受け取っておられるのか? まづ先にお尋ね
したほうがよいと考えました。
No.7
- 回答日時:
悟ら せす"に去りま、シタ!
ノシ
No.6
- 回答日時:
相変わらず高い!
高尚な議題に取り組まれておりますね。
今晩は
お久しぶりです。ブラジュロンヌさん。
少ししか時間がないため回答は柔らかめにしていきます。
現在私が掴んでいる心理の情報からゆいうと、
どうやら、周波数にてその存在の感覚、感性、色々な
味が規定されているようです。
周波数、有名な所は
BPM (ビート パー セコンド)
一秒間で、何回の回数 その振動(当たり!)が、
出ているか!
拍とも言います。
これにより、十二原色、そして、十二の音階におおよそ、それに対する印象(☆クオリア!)が存在し、
その色のような気分というものがあります
原色はおおよそこれ
赤、朱色、ピンク(愛)、
紫、青、スカイブルー(空色)
水色、青緑(碧・エメラルドグリーン)、緑
そして
黄緑、黄色、茶色です。
光とは、おおよそ理解!
黄色を中心としての輝き☆
情報共有におけるシンパ沈むに表せる知覚を指します!
そして、十二の原色に対して、円の真ん中に白を置き
更にそれを球の中心に見立てると、黒の位置は、
球体の真下部分に生まれます
黒は闇とは異なります。
闇とは、未明という意味です
恐らくですがね。
詰まりは恐怖や孤独等の負の感情。
畏敬&畏怖を覚えたるものでもある闇とは、
未明ゆえの不安でしょうか。
無明也!
光明を探しましょうか、皆さん!
似たものとして、黒には力そのものの迎合意識が、存在します。
合理などにての是正要求!
力に手の強引な解決を望むものはクロノス(じゃなくて、黒が好き)
このようにイメージにおいて、精神性の薄くは決まって聞きます。
つまり、やや曖昧(黄緑味)に見なければ真理にはたどり着けない
共感性、これが人間外所の空気を読むというと事!
シンパシズム
恐らくは、スタンディングオベーションが起きたりするのは、
無意識に近い意識迎合での、
世界共感…
信じて、共に歩む心。
わかりにくいでしょうか、共感覚
音の周波数帯を人は色で見える人もいるのです。
観念!
つまりイデアとは、精神内に共有される波の理解(波乗り…笑)
朱色の風、天を衝く
求道の意識
激情たる進化の情熱!
美的 秩序構築とは、
真下より真上を目指す!
本能たる↑飢えのようですな
この心理の球体を私は研究し、すべてのバランスある天秤を人間精神の座標位置で心理を計算、
真理を演算している最中です
イデアは、およそヨーロッパの、ソクラテス、プラトン㈹の、観念遺産ですが
現行の世界での観念は、達観され、闇の未明の時代は終わろうとしている、ように感じますね♪
イデアの周波数体にテレパスのような超感覚が目覚め始めます。
すなわち光含む、周波(宗派)の波の、感覚器官での共有です。超経験をも見つけられる理解シンパシズム それがコスモス!
キリストが唱えし天国が降りてくる時代、と言えば、
不明瞭な捉え方しかできなくなった人でも見えてくるでしょうか。
断っておきますが、これは昔からおそらく人が猿から進化したあたりからすでに持っているものです。
アカシックレコード的な、集合体意識。
コミューン(集合)にも表せます。
なぜ今の時代なのか…、
それはひとえに、冷戦が終わり、アルファたるリーダーシップを持つものが現れて差し支えない時代(これが戦時下などなら、犯罪的独裁者が現れる可能性もあった)
また、そして月、外惑星たる
地球外の火星♂
こちらへの到達
予定では2025年ほどとなっています
新世紀の幕開けです。(もちろん西暦も継続予定)
神聖銀河 宇宙(歴)世紀代
紳士、淑女たる 基盤道徳を用いた、宇宙探索用の紳士!
宇宙霊長紳士たちを必要とされる時代なのでしょう、
みんなの意思をシンクロさせる必要がある。
音階もいろと同じく
十二(段階)有るのです
ド レ ミファ ソ ラ シ
!♯ ♯ ♯ ♯ ♯
半音が上がる♯と、全音の音階(半音2個分)これが合わせると半音で全て十二に収まる。
キリストの使徒や円卓の騎士が十二で会ったように。
(十三をまた、良しとできなかったみたいに)
世界は、今後、精神周波数帯の基盤で表せる、セッションを基準に満たして行くことになる
さて、どこまで、信じられたでしょうか?貴方は、ね?
そう呼んでおる皆さんにシンパスにて問うて居ますよ。
私はもはや覚醒し、見開くもの、目覚めしものとなりますた。
哲学は真理の扉を押し開ける。
他の学問体系もまとめの時期です。
現代までの集大成を本と出しましょう!!
遠ざかる星は緑色!
太陽は時にオレンジ(陽気)に表しますが、光は高熱にて白にしか見えない目の錯覚体制にもなりうる。
軽めに来ましたので、軽めにさりますね。
私達、神聖騎士団クラウソラス!
今是にて、戦争を終わらせた世紀を作ります。
既に、多くの仲間が、コスモシスズムにて覚醒をし始めています。
また、多く市政よりも、人々が目覚め始める時期でもあります。
神聖者セイントたちよ!
賢者として、私は黄昏の賢人を名乗り始めます。
今後どうか、暁の賢者団!
教えて
goo!のオレンジの賢(識)♯者達よ。
世界を良き方向に廻す為に、目覚め、仕事を手伝ってほしいのです
まだまだ、
多くの人の子の人手が要ります!
ジャッジメントを誰も犠牲をさずに、クリアする為に、
許しと寛容の共感性!
聖徳!これをモテる人が多く必要なのです。
SNSやツイッター、そうこの知恵袋的な
ギューアンドぇーサイトにも。光をもたらす者たちが必要。
導きを!
@、これ、宗教じゃなくて義塾なので、そこんとこよろしくお願いしますね。
よくわからない人は私のツイッターか、私の回答&質問をよく、プロフィールから辿り、読んでくださいな
では、本日はこれまで
皆さん!一礼!
アリガトウ ゴザイマシタ!
礼に始まりて霊に終わる!
スピリチュアルも、侮れませんよ!フフフッ
令和!結ばれし、和の心
人の和を築かん
我ら和の民、橋の民!日本橋には、日の出登らん!!
オサラバです!
エルミルシスティーア☆
ご回答をありがとうございます。
色の分析から 光あるいは闇にせまったわけですね。
そして 視覚だけではなく聴覚の問題でもあると。
そのような感性にかかわる共感覚あるいは共通感覚(センスス・コム
ニス)にも触れておられます。
そうですね。この質問の焦点は――勝手な設定ですが―― 光が闇を
照らすことと闇を払う(晴らす)こととを対比させて取り上げていま
す。
闇を取っ払うことは 人間業ではないと見ています。また 闇の無い
経験世界はないであろうとも。
でも 光は射して来ないとも限らない。見えた・あるいは見たんだと
は 断定して言えないとしても 垣間見たと言える《とき》があるか
も知れない。
《ひかり‐やみ》から成る相対世界に ふとどこからか さらにつよ
い(闇をやぶる)光が射して来ないとも限らない。
言いかえると このナゾのひかりをあびた人は 経験事象として成り
立ち繰り広げられる《光 ‐ 闇》の世界から 或る種の仕方で自由であ
る。ことができる。かも知れない。
さとりとは そういう状態をかすかに思い描いて なおかつそれが実
現したと 経験科学的にみとめられる・・・ことでしょう。
ひとつには そのようにして:
★ 新世紀の幕開けです。
☆ と言って行く時代になることを思っています。
No.5
- 回答日時:
啓蒙思想の光ですね
光は伝二はでっすあkら
強すぎる光というか電磁波だとガンマ線で放射線ですから
せめて丘円が必要だったのでしょうか。
ご回答をありがとうございます。
★ 啓蒙思想の光ですね
☆ それもありました。(あります)。最澄の《一隅を照らす》光もあり
ます。
あるいは 医学のチカラも大きいでしょう。そのほか科学・技術も それ
ぞれ光となり得ます。理性も 光なんでしょう。
つまり これらの人間のチカラで得られはたらかせ得る光があって 闇を
照らします。
ですが 闇を晴らす光も そのほかに あるのでは?
No.4
- 回答日時:
ここで云う“光”を、神の心と解釈すれば、それを見るために必要なことは、釈尊の説いた四諦を理解し八正道を実践することでしょう。
若しこれを可能にしたならば、弁栄(べんねい)上人のように、釈尊と同じ境地を得ることが出来るはずです。
でも、普通には無理ですね。
そこで必要になるのが、懺悔の心と祈りです。
四諦の理解は不十分、八正道の実践もままならず。
この隙間を埋める必要があります。
その為には懺悔をし、祈ることです。
そうすれば、人は神にはなれなくても“救われる・光を見る”ことが可能でしょう。
質問の本文の、〇の文に付いて。
神が神であることを悟られずに去って行っては、何のために人間となってやってきたの?と、問いたくなります。
それとも、人間としての行動には神であるが故に、凡人ではない“何か”があると云う事なのでしょうか。
ご回答をありがとうございます。(なじみの質問かと思いますが 趣旨が
なお伝わって欲しいので幾度も掲げています)。
★ ここで云う“光”を、神の心と解釈すれば、
☆ そのようにズバリ言うのは 哲学の行き方としてまづいかも知れませ
んが そういうことです。
ただし 但し書きとしては おっしゃるように《解釈》なんです。忖度し
ているにすぎないという事情においてとなっています。
★ それを見るために必要なことは、釈尊の説いた四諦を理解し八正道を
実践することでしょう。
☆ どうでしょう? 遠まわしにではなくズバリ言うとすれば それはあ
くまでタテマヘなのではないでしょうか? ホンネは 《分からない》で
しょう。あるいは 《中身はまだ明らかにしていません》となりましょう。
あるいは さとりを得るという目的のために――光を目にするために――
修行するときの方程式なのでしょうがそれは どこまで行っても 輪郭だ
けなのではないですか? たまねぎ剥きが永遠につづくのでは?
★ 若しこれを可能にしたならば、弁栄(べんねい)上人のように、釈尊と
同じ境地を得ることが出来るはずです。
☆ という解釈ですね。おそらく推測交じりですよね?
つまり:
★ でも、普通には無理ですね。
☆ となるでしょうね。あるいは 《さとりを得ることができるかどうか
――得たかどうか―― 分からないし それが分かるか分からないかが分
からない》状態にみちびかれましょうね。(じつは そこにヒントが隠さ
れているかも知れないのですが)。
★ そこで必要になるのが、懺悔の心と祈りです。
☆ これはですね。ズバリ言いますが ザンゲは 自己満足にとどまりま
す。それ以上には まづ行きません。
祈りはですね。《わたしは ここにいます》という心の伸びなんです。そ
してさらに言うならば すでにめぐみを――光を浴びて生きているという
めぐみを――感謝する言葉なんです。
〔念仏は すでにアミターバ・ブッダの霊性(ブッダター)にわたしのい
のちはめぐまれていますと言う感謝の祈りです〕。
★ 懺悔をし、祈ることです。そうすれば、人は神にはなれなくても “救
われる・光を見る”ことが可能でしょう。
☆ いま光をあびていますか?
つづく
No.3
- 回答日時:
おはようございます。
システム科学の観点から見れば、問題=闇にたいして、解決策=光で照らすことはできても、すべての物事は、コインの両面として、闇=光、光=闇で成立してますから、先に提示した解決策=光が、別の状況では、問題=闇に変換されることが、多分にあります。闇から光、光から闇の繰り返しが、人生の在り方そのものなのではないでしょうか。ご回答をありがとうございます。
★ システム科学の観点から見れば、問題=闇にたいして、解決策=光で
照らすことはできても、
☆ 微妙なところですが はっきり解決策は 別なんです。
《闇を 科学の目や技術という光で 照らすことは出来ても 晴らすこと
は出来ない》。闇を晴らす光とは? が問いです。
★ すべての物事は、コインの両面として、闇=光、光=闇で成立してま
すから、
☆ これが 相対世界における実際ですね。つまり・ですから その闇を
光で照らすことは出来るのです。
光と闇とを超えた場については どうか? これが 問いです。
★ 先に提示した解決策=光が、別の状況では、問題=闇に変換されるこ
とが、多分にあります。闇から光、光から闇の繰り返しが、人生の在り方
そのものなのではないでしょうか。
☆ という経験世界をひとは 超えることができるか?
おそらくそれは 超経験の問題になるであろうから 《想定》という手法
によって哲学もやっと その問いに迫ることが出来るかも知れない。うん
ぬん。・・・とつづく問い求めになると思います。
No.2
- 回答日時:
必要なもっともふさわしい手段
=神が人間となって人間として去っていくこと
=不可能
=手段がない
=闇落ちしたらあがってこれない
ご回答をありがとうございます。
★ 必要なもっともふさわしい手段
=神が人間となって人間として去っていくこと
=不可能
☆☆ ~~~~
2.
① タトへ(あるいは 仮説法)による議論です。
③ 神とは 超自然・超経験として人知を超えたところの場ないしチカラを言い
ます。
~~~~~~~~~
したがって――想定上の仮説によるかぎりで――
★ =手段がない
☆ ということにはなりません。手段はあります。
★ =闇落ちしたらあがってこれない
☆ この想定を大前提とするかぎりで 闇の中にいたひとが――その闇が何ものか
のチカラによって晴らされたことによって―― ひかりの中にいる。ということが
推論され やはり想定の上で実現します。
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№4つづき
★ 神が神であることを悟られずに去って行っては、何のために人間とな
ってやってきたの?
☆ 《悟られた》かも知れませんが 光はまだ見えなかったはずです。
★ それとも、人間としての行動には神であるが故に、凡人ではない“何か”
があると云う事なのでしょうか。
☆ ここは 複雑です。経験合理性にもとづく哲学を超えています。
私見をのべます。イエスが出るまでは キリスト・イエスという《神が人
間となった存在》は 表現されなかったわけです。また 人間の言葉で表
現されたら それが 真理が実現した現実であるとは限りません。
十字架上に去って行ったら そのあと――光が人に見えるようになり――
その虚構つまり大嘘でもありうる表現は ひょっとして(霊性として)人
間と世界にとって おおいなる現実であると分かるようになる。
・・・というかたちが 採用されている。のだと見ます。
№4関連で イエスが生前に神の子だとは知られなかったという問題をめぐって
次の事情によると説明されます。
▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~
21: 更に、主は言われた。
「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。
あなたはその岩のそばに立ちなさい。
22: わが栄光が通り過ぎるとき、
わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、
わたしが通り過ぎるまで、
わたしの手であなたを覆う。
23: わたしが手を離すとき、
あなたはわたしの後ろを見るが、
わたしの顔は見えない。」
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☆ モーセのときの記事ですが これによる説明です。:
生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分から
なかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理その
もの――》は 見えない。
№11つづき
つまり イエスないし聖書の考えでは:
★ 突き詰めると そこまで致死量を越えさせてまで縦のものを横にし
ないと気が済まない考え方
☆ は 出て来ない・・・のでは?
★ 平和の実現
☆ については
★ 闇から光を見るということ
☆ というかたち(内容)として捉えることは イエスの指し示すとこ
ろではないと思います。
《闇の中に光を見る・または闇を照らす光》という主題は イエスには
――それを否定するのではないけれど――ないはずです。そうではなく
《闇を晴らす光〔を人びとがあびる〕》というのが その心であるとわ
たしは 受け取っていますから。
趣旨説明をおぎないます。
補足説明の上から二番目に書き込みました《出エジプト記》の一節は 重要
であると思っています。
そこから次が 帰結されます。
○ 《闇を照らす光を見る または そのような思いやりに満ちた光に自分
が成る》という問題ではなく 《闇を晴らす光を人間が見ることができた》
というのは その真理の光をそのまま見たというのではなく その光のうし
ろ姿を見た》という意味である。
☆ キリスト・イエスなる人間の《神の子キリスト》の部分 これをそのま
ま見たのではなく その背面を見た・・・というかたちになる。ということ
です。
十字架上に去って行ったイエスのまさにその死のあと このキリスト・イエ
スなる存在のうしろ姿を見ることができた。こういう意味です。
それが めぐみであり 元気印の力強さがあります。
《神なる真理の光 - 人間の真実の光》といった二層構造です。