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私は、いつの時代でも信教の自由が保障されるべきと思っているし、創価学会もその先達によって、戦前、国の神教から自由を勝ち取ることに死を賭したはずです。でも、戦後の泰平な時期に勢力を得た彼らは、日本共産党のように戦前、戦後の苦難を経験していません。その破壊に狂騒する諸外国との長期にわたる経験もありません。ですから、民主主義的な戦い方より、強権を持って臨んでいるようです。理論的に武装すること以前に、自分の宗教心が全てを圧して善とする独善的な集団だと思っています。まして、権力の一角についた宗教団体として、今後、いままでの反社会的行動を美化するかもしれません。でも、いったい、こういう団体が将来永劫、人口に膾炙するとは考えにくいのです。その宗教を信じるものは平凡な我々の同士です。彼らとその団体とを区別できるのでしょうか?

A 回答 (3件)

質問の趣旨からずれますが


宗教に頼らなければ善人が増えないのは寂しいですね。
信教の自由は無宗教の自由も認めるべきだと考えます。
ところで
現在の日本共産党の主張の一部は共感しますが
日本共産党の過去の反社会的行動をどう考えればよいのでしょう。

この回答への補足

biginerさん、創価学会の反共主義は異常です。自民党さえ建前では、議論の余地を残します。でも、彼らは、議論よりは戦前の特高警察の強権のような暴挙が目に余ります。そう考えるのは、私が共産党の立場に立つからではなくて、民主主義の土壌に立つことが社会の要請だからです。社会の要請とは、反社会的な行動を行ったなら、自ら反省する自浄作用がその組織に働くことを当然とするという意味です。
強権を持って行った『創価学会を斬る』等の出版妨害は、世間に指導者が謝罪した
ことであり、『宮本顕冶宅の傍聴事件』では、反社会的と断罪された事件です。
謙虚さを忘れた団体は、この先、世間の指弾を受けなければ、我々の民主主義は名ばかりのものと見下されるかもしれない。

補足日時:2001/08/13 01:08
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tokorotenさんの質問の趣旨にあうかどうかは、わかりませんが......。


政府に早急にやって貰いたいのが(公明党も政権与党だからムリか?)個人の布教の禁止。
これだけいろんな情報を個人個人自由に手に入れられる時代に、先に人間関係を作ってから、「今度、私の知り合いがあつまるから来ない?」とか「ごめん今月から三か月程新聞とってくれない?」とか他人の信仰の自由をおかすような行為を「信教の自由」の中に入れる必要はないとおもいます。こういう事をいいますとどこぞの新興宗教の信者が「断ればいい」といいますが、彼らのヤリ方が先に人間関係を作るというのが「ミソ」。
結局今の自民党の発想が「個人」ではなく、「団体」重視。やっとこの頃では消費者の苦情で企業へ「業務改善」などを即すようになりましたが、宗教のこういう国民の苦情を聞く様なセクションはあるのでしょうか?
「オーム」「法の華」等宗教団体の目に余る行為が続いてますが、どうも「信教の自由」をうまく悪用されているだけのように思います。もっとたくさんの国民が苦情を言いやすい場を作って貰いたいですねぇ。
biginerさんの
>日本共産党の過去の反社会的行動をどう考えればよいので>しょう。
天皇の責任も問えないあるいは問わない国ですから、共産党のぐらいは大目にみてやれば?かなり官憲がしかけた冤罪も多い様ですし。(笑)
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この回答へのお礼

masahumiさん、ありがとう。こういう問題は、自分の主張を明確にしないと相手の意向をくみ上げることが難しいので、たいへん危険な試みなのです。
私は、創価学会の多くの信者たちは、戦争中の日本人の意識と酷似して、非常に危険視しています。その信者達も、その第一級の戦犯(宗教団体の指導者)の被害者なのですが、自分の行動(戦前の思想では、米英鬼畜、神国日本・・・)を社会の鏡で見ることに慣れていません。民主主義の洗礼を受けていないのです。
でも、彼らを第一級の戦犯と同一に見なすことは出来ません。社会の鏡に映すことを彼らに自覚させることは宗教の壁の前で、徒労に終わることになるのかが問題なのですが。。。

お礼日時:2001/08/13 01:05

>日本共産党のように戦前、戦後の苦難を経験していません。



戦前、戦後の苦難を経験した創価学会は自ら法難と呼んでいます。
戦時中、初代会長牧口氏は宗教界を神道の下に統一したことに反対し投獄され獄死しています。

宗教やイデオロギーなど一つの考え方に染まるのは
危険だと考えています。
戦前の全体主義に反対します。
多様な考えを容認し少数意見に耳を傾ける民主主義であってほしいです。
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この回答へのお礼

biginerさん、あなたの最後の文章に対しては異議はありません。宗教やイデオロギーを堅持すること自体は、その組織の自由に係わること。今、問題にしているのはまさしく、その組織そのものが、民主主義に敵対しているかどうかということです。共産党の場合を例に挙げたのは、筋金入りの理論闘争を、ソ連、中国と長期に渡って戦ってきた経緯があります。大方の共産党が、その両陣営に跪いたにもかかわらず、この日本の共産党はその暴力と権威に屈しなかったことを例にしたまでです。ですから、恐らく、日本共産党は、創価学会との理論闘争くらいなら、喜んで受けて立つ器量を持ち合わせていることでしょう。もし、自分の主張や、宗教の正しさを人前に正すのなら、その闘争自体を通して、民主主義の厳しさを自ら学ばなければなりません。創価学会は、他の宗派や、共産党に対していったい何を学んだとでもいうのでしょうか?この宗教の組織は、理論闘争にかかわる試練の未熟さ、それにもまして、民主主義というルールを軽視する反社会的行為の無自覚さがあまねく世間に露呈してしまっているのですから。。。

お礼日時:2001/08/14 00:21

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