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創価学会に入っても幸せになれない理由
熱心学会員の方は「誰でも一生懸命、信心すれば幸せになれる」と言いますがどうしてなんでしょうか・

逆に「なれるわけない」
と思っている方も沢山いるでしょうが

あなたが思う「創価学会で一生懸命信心しても絶対に幸せになれない、なれるわけがない」点とはなんですか?

A 回答 (10件)

学会人です



私はあまり関心ありませんが両親が熱心な信者です
前に交通事故にあった人の話を聞かされましたが、あなたは一生懸命信心してるから御本尊様に守っていただけてその怪我だけですんだのよ
と言ってました。

守ってくれてるのなら事故にはあわないのでは?と思いましたが本人が信じて満足してたので何も言いませんでした

本人のとりかたなんでしょうね
私は何度か脱退したいと言いましたが、脱退したら不幸になるだの必ず災いがふりかかるだの脅迫めいたことばっかり言われ両親が熱心というのもあり脱退できないでいます

物心ついた時からすでに学会人になってたのであきらめてますが、結婚して旦那は学会人じゃないので家にくるのとか無理矢理新聞とらされたりするのは迷惑なのでやめてくれと言いましたが、うちの地区は成績が悪いだの理由に強制的にとらされるので本当に迷惑です

信心するかしないかはその人次第だと思うのですがねぇ…
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幸不幸は相対的なものです


比べるものがあり自分が幸せだと思えば幸せなのです
あなたは幸せなんだと洗脳された人は幸せなんでしょうね
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創価学会の者です。



確かに、「信心していても、幸福になれない」と感じる人もいるでしょう。事実、私自身だって、時にはそう感じることもあります。

しかし、他宗教の神懸りな信心と違い、創価学会の日蓮仏法は、道理の信心なのです。手品ではありません。祈りさえすれば、何の努力もなく祈りがパッパッと叶い、お金がたまって裕福になるというのではないのです。それでは、人を堕落させてしまう宗教となってしまいます。

信心実践の結果、現れる功徳には「顕益(みょうやく)」と「冥益(けんやく)」とがあります。「顕益」とは、祈った結果、具体的に病気が治ったとか、問題が解決したとか、見に見える形ですぐに現れる功徳です。また「冥益」とは、祈ってもすぐさま結果はあらわれないが、信心を続け、年月を経て、気がついてみたら厳然と幸福になっていたという功徳です。

創価学会の信心は、この「冥益」が根本です。功徳といえば、たいていの人は、いわば即効性のある「顕益」のほうを当てにし、すぐに結果が出なければ、その信心は駄目だと決め付けがちです。しかし、こういう考えは、信心というものに対し、実に浅薄な考え方であるというほかはありません。

功徳が出る、出ないといっても、人はそれぞれ宿業があります。生命は永遠であり、前世に行った行為も様々だからです。それが今世の生き様に影響している。したがって、たとえ力ある南無妙法蓮華経の日蓮仏法であっても、すぐに幸せになれる人もいれば、幸せになるのに時間がかかる人がいるというように、個人差があります。しかし、最後は必ず幸福になっていくのです。「学会の信心をしている人を見ているが、ちっとも幸せではないではないか」と疑念を呈する人が多くいますけど、それはその学会員の人生の一部の期間だけを見て、そのように判断しているにすぎないのです。また、信心の熱心、不熱心の差ということもあります。それはあくまでも、その個人の信心の姿勢の問題であって、創価学会の信心それ自体の問題ではないのです。

あなたは、「創価学会で一生懸命信心しても絶対に幸せになれない、なれるわけがない」などと既成事実のように結論付けていますが、仏法の法理は、きわめて深遠なものです。仏法に関して大した知識もなく、学会の信心を実践したこともないし、実践するつもりもない。そういう向きが、学会の信心について噂話でもする調子で断定的に語るのは、凡夫の浅はかさと言わざるを得ません。
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本人たちは幸せなんでしょう。


それでいいんでしょう、きっと。

周りから見たら不幸でも。
便利な宗教ですね。

どこかの「地上の楽園」と同じなんでしょうか。

結局、幸せか不幸かは、本人の感じ方次第なんでしょうね。


ちなみに、そこの2代目の会長は、
「病人と貧乏人ばかりの創価学会」と言うのが決まり文句だったようですが。

いずれは健康で金持ちにしてやる、ということだったんでしょうけど。
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宗教というものの、本質がそこにあるからです。


これは創価学会に限ったことではありません。

そもそも宗教にはまる人々は、自分の生活や人生などに何らかの問題を抱えている人だといえます。もし、「今」がハッピーなら宗教(だけでなくなんであっても)頼って「幸せ」を得る必要は無いからです。
ですから宗教を信じることで「幸せ」を得ようと考える人々は「なにかにすがって」または「なにかに頼って」自分を幸せにしよう、と考えている人々だといえます。

大部分の人々の常識では「自分の幸せは、自分の努力によって作るものであり、なにかに頼って作るものではない」ということになるでしょう。
この常識(と思われているもの)と宗教にはまる人との意識の差が、一般的に、宗教に頼っても幸せにはなれない、とされる理由のひとつです。

次に、宗教自体の問題点もあります。この内容はどの宗教でも当てはまることですので、とくに創価学会の教義に問題があるわけではありません。それを言うならキリスト教でも仏教でもイスラム教でも信者以外は突っ込みどころ満載であるといえます。
宗教、それ自体の問題点は「信仰」というところにあります。あなたがもしどこかの宗教に入信するとして、一人しか信者がいないような宗教に入信するでしょうか?
普通はしないと思います。ですから宗教には他の人々を「入信してもいいかな」と思わせるだけの信者が必要になります。

これが宗教の問題点です。入信した人からすれば「こんなに幸せになれるモノはないのに、どうしてみんな入信しないのだろう」と思うわけですが、それを宗教幹部は逆手にとって「入信していない人は、そのよさを知らないからだ、みんなを誘ってください」と勧誘を薦めます。
これにより信者が勧誘をすると、大多数の人々と交渉することになり、上記の一般常識「自分の努力」との摩擦が生じるのです。
信者からすれば「こんなにいいものなのに、どうしてみんなは分かってくれないのかしら?」であり、
大多数の人からすれば「あんなものを信じても、信じるだけでは幸せはやってこないのに、馬鹿な人」ということになるのです。
このように世間と摩擦を起こしては、そう簡単には幸せにはなりません。


もちろん宗教で幸せになることが不可能ということはありません。
心のそこから信じており、そこに喜びを感じるのであれば、その人は幸せでしょう。しかしこれはほかの行為にも当てはまります。たとえば、
・仕事が終わったらつめたいビールを飲みながら野球(サッカーでも可)を見るのが何よりの幸せ
  スポーツに興味の無い人だったら、苦痛以外のなにものでもありません。
・シャネルの服に、ビトンのバッグ、ブランドものを身に着けるのが最高のしあわせ
  服なんてなんでもいい、しまむらで十分、と考える人には何が幸せなのかまったく理解ができません。

どんなものでも、その人の心のありようが反映されます。スポーツだって「自分の人生にはまったく影響がない」と考えれば(事実その通りですが)、日本がW杯で負けたって関係ありませんし、ビトンやシャネルに価値を見出さない人なら、同じようなバッグにロゴが付くだけで数万円も高くなるのは理解しがたいでしょう。
宗教も「信じているから」幸せになれるわけです。

しかし宗教以外は、ビトンを持っていようが、セパタクローが好きだろうが、基本的には他人には無害です。それなりの愛好者がいれば、十分成り立つからです。
しかし宗教だけは「幸せ」を売り物にするモノであり、そのためには信者がおおいほど「幸せ」という言葉に説得力が増すことになります。
しかし「幸せ」には実態がなく、その人自身のこころの有り様に依存するものです。

とくに日本のような多神教国においてはこのような比較が一般常識として成り立つために、宗教を信じても「幸せ」はつかめない、という結論になるのです。
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私は無宗教論者ですが、先祖や親を敬う気持ちは強いです。


それは、先祖や親の存在が無ければ遺伝的に自らの存在も無いと理解出来るからです。
そして、子孫が残りましたから大切にしたいと思います。
子孫を産んでくれた配偶者にも感謝の気持ちがあります。
その配偶者の親や先祖にも敬う気持ちがあります。
ですから、他人の先祖も敬う気持ちになれますし、自然と高齢者も敬う事が出来ます。
しかし、創価学会の教義に先祖を敬う気持ちは無いようですし、他の宗教の教義を認めません。
私は、自らの前世や来世は無いと確信してますが、先祖や子孫の存在は現実にあるので大切にする気持ちだけで満足感がありますから幸せなのです。
創価学会の教義を信じて満足感があるなら、幸せなのかも知れません。
ただ、創価学会の教義を信じる事で身内や他人から白い目で見られる事が本当の幸せなのかは疑問なのです。
この世に出来るだけ敵を作らない事が真の幸せだと言う現実があります。
宗教の教義が違う事で意見が対立するほど馬鹿げた事はないと思うのです。
現実に、宗教で戦争まで起こしてる国もあります。
創価学会の信者同士は信頼関係が構築出来るのでしょうけど、創価学会の教義に疑問や反発のある人は創価学会の信者に真の信頼関係を築けない事が幸せになれない根拠になります。
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> 熱心学会員の方は「誰でも一生懸命、信心すれば幸せになれる」と言いますがどうしてなんでしょうか



そう信じ込んでいるからです。

しかし、外面は兎も角として内側も見てみると、幸せになっている人って見たことありませんね。むしろ不幸な人がはまり込んでいってますます不幸になっているようにすら見えます。

上の方の人は違うんですかね?
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創価学会を少しかじってしまったものですが、、、。


たぶん、ま、毎日のようにお経を唱えて
「真理」を見出せば「幸せ」が理解出来ると
言う事らしいですが、
幸せになれるなれないかはよくわかりませんが
しょせんは皆で幸せになろうと言うわりに
自己解決なのでー
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創価学会に入っても幸せになれない理由


熱心学会員の方は「誰でも一生懸命、信心すれば幸せになれる」と言いますがどうしてなんでしょうか?
>それはしょうでしょw 自分がその宗教を信じてやっているのだから。「熱心学会員の方は「誰でも一生懸命、信心すれば幸せになれる」と言って当たり前でしょ。嫌で信じてなければやりませんよw


あなたが思う「創価学会で一生懸命信心しても絶対に幸せになれない、なれるわけがない」点とはなんですか?
>創価学会をやって絶対に幸せになれないと言う点はありませんよ。やっていて、凄く幸せなひとだっているでしょ。

なんか、質問が矛盾してますよw
何が聞きたかったの?
あ。ちなみに私は創価学会信者でもないし、特定の宗教はやってませんから。しかし宗教の選択は誰も自由に選択しやるものだと考えております。ただ、私は特定の宗教を信教する事はまずないと思いますが。
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法華経の一部分しか知らないからです。


池田神様教だからかもしれません。
また、他力依存性の凡夫が法華経を理解するのは厳しいです。
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