アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

中ソ論争で中国共産党が反発した理由を教えてください!

A 回答 (3件)

中ソ論争は、毛沢東のフルシチョフに対する反発です。

毛沢東は、中国共産党内での権力基盤を固める為にソ連を利用した。つまり党内の権力闘争にソ連を利用したのです。それが中ソ論争の本質であります。毛沢東は、スターリンが健在の頃はスターリンに対して全く頭が上がらなかったが、スターリンが死ねば何の遠慮もいらないという事情もあります。
    • good
    • 1

1,建前は以下のようになっています。



きっかけは1956年のソ連のスターリン批判であり、
平和共存路線をとるようになったことであった。

中国共産党の毛沢東はスターリン路線の継承する立場から
フルシチョフらソ連共産党の転身を修正主義であるとし、
また平和共存路線は帝国主義への屈服であるとして
受け入れないと姿勢をとった。



2,本質はソ連がスターリン批判をしたからです。

ああした独裁政権は、自分を正当化するため
前政権の独裁者を悪者にする場合が多いのです。
ソ連もその踏襲というわけで、フルシチョフが
スターリン批判を展開しました。

スターリン批判は、政策の批判もありましたが
スターリン、という個人の崇拝をヤメロ、という
批判でした。

これが、毛沢東への個人崇拝路線を採っていた
中国と相容れなかったのです。
    • good
    • 1

スターリン批判を契機とし,1960年ころから表面化した。

ソ連が米国との平和共存を主張するのに対し,中国は米国に対する反帝国主義闘争を強めアジア・アフリカの解放を主張,ソ連の態度を修正主義として批判した。この対立は国際共産主義運動の進め方にかかわるため,中ソ以外の各国の共産党にも論争を呼び起こした。1968年のソ連のチェコ侵入を契機に中ソ論争は様相を大きく変えた。中国はソ連を〈社会帝国主義〉と規定,一方ソ連も中国を反レーニン主義・反共主義であると規定,ともに相手を社会主義国として認めない段階に入った。さらに中ソの対立は,理論闘争から国境での武力対決にまで発展した。1985年のゴルバチョフ書記長登場を機に両国の対立は次第に和解へと向かい,1989年には30年ぶりの中ソ首脳会談がもたれた。1991年には江沢民(こうたくみん)総書記が訪ソし,中ソ東部国境協定に正式調印した。
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!