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経歴を見ていると、陸軍はドイツ、海軍はイギリスに多くが留学していますね。
軍隊をつくる際にその国を参考にしたからという理由は想像がつきますが、大正、昭和になっても相変わらず留学先の傾向は変わっていないようです。
しかも、WW(1)でドイツは敗戦国にも関わらず、石原莞爾をはじめ引き続いてドイツに留学しています。
例外として、宮家の陸軍人などはイギリス留学ですね。

それぞれの理由というか、その背景を教えてください。
又、そうした留学関係を扱っている著書などあればご教示ください。

A 回答 (4件)

 第1次大戦後もドイツ参謀本部の素晴らしさ自体は変わらなかったからではないでしょうか。

(敗戦は参謀本部と違ったところに原因があったことが分かっていたからだと思います)。日本は日露戦争前からドイツの参謀方式を取り入れて日露戦争に勝利しました。
 
 ドイツ参謀本部は大モルトケ参謀総長の時代に絶頂期に達します。当時のプロイセン首相ビスマルクとモルトケの名コンビで、ドイツ統一を成し遂げるのです。

 しかし、1890年にビスマルクが退いて以来、ドイツにはこれぞという政治的リーダーの出現がありませんでした。政治という大所高所から国を考えるリーダーが無く、スタッフである参謀本部だけに人材が集中してしまいました。つまりバランスが崩れたのです。リーダー無きスタッフの悲劇は歴然としていました。ドイツは第1次世界大戦で大敗を喫する結果となったのです。

 リーダー不在をよそにドイツ参謀本部の無敵だけを信じて戦いに入った国が、今度は何はともあれ強力な政治的リーダーを求めようとした。そこに現れたのがアドルフ・ヒトラーです。しかし、歴史は皮肉なもので、ヒトラーはドイツ参謀本部を一切無視しました。リーダーがスタッフの意見を完全に無視し、ここでもバランスが失われたのです。その結果が、第2次世界大戦の敗戦という形に出たのは歴史が示す通りです。
 
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この回答へのお礼

日本軍人もご指摘の「ビスマルク以後」を察知していたのでしょうか。
バーデンバーデンの4人も、「政治も軍が掌れば万事上手くいく」と思ったのでしょうか?

当時の軍人達が欧州で何を見て、何を感じたのか、興味が沸いてきました。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/04 22:24

海軍のみの説明になります。


幕末、アメリカの太平洋艦隊(黒船)は、木造でした。

それに対して、産業革命の最先端にいるイギリスは、機関、鋼鉄製の軍艦など、他国に比して抜きん出ていました。

軍艦、蒸気気機関車の殆どをイギリスから輸入。
海軍の技術や運用法は、当時のイギリスが模範になり、軍港ポーツマスは、憧れの地であったようです。

ド級戦艦とは、英国のドレットノード戦艦級と言う意味です。
超ド級戦艦とは、ドレットノードを凌駕する(超えた)戦艦を意味します。

大艦巨砲主義の時代、WW(2)直前まで、
海軍は、質、量、運用思想共にイギリスが基準であったようです。

一方、ドイツ留学ですが、医療分野では殆どがドイツ留学していました。
軍人もです。
その関係(学問はドイツ留学)だと思います。
この方面は#1さんが詳しく解説なされています。
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この回答へのお礼

海軍もWW1を研究していたでしょうが、ドイツをどんなふうに見ていたのでしょうか。

結局は敗戦まで大艦巨砲主義(大和、武蔵)に凝り固まったように見えますが、ひとえに斜陽となったイギリス海軍を精神的にストーキングし続けたからなのでしょうか。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/04 23:53

 No.1ですが、


 石原莞爾の陸士時代の同期性横山臣平氏著『秘録 石原莞爾(芙蓉書房)』のP128~P138にドイツ留学時代の記載(研究課題等)がありますが、当初、石原はシナ行きを望みドイツ行きには不服だったそうです。しかし、宇垣一成中将(陸大校長)と阿部信行少将(陸大時の戦史教官で当時幹事)が石原をシナ通だけに終わらせたくない、それには欧州の見聞をさせてからシナ問題その他に参与させた方が、彼の英智がさらに輝かしい実績を上げることができるだろうとの考えからドイツ留学を命じたとあります。
参考までに。
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この回答へのお礼

続けての回答ありがとうございます。

シナ通、シナ屋など、どこかで読んだ記憶があります。
もう少しそのあたりの文献を読んでみようと思います。

お礼日時:2005/02/05 00:02

明治以降、富国強兵策で模範を見渡したとき陸軍国としてはドイツ、海軍国としては英国でした。


ドイツは戦争学、戦術学に英才を輩出しており近代戦でも普仏戦争の勝利国でした。 
クラウゼウイッツの戦争学は軍人のバイブル視されその流れをくむドイツ参謀本部の組織は極めて強力且つ有能でした。
これを範にしたのは当然といえましょう。
WW(1)でも個々の戦闘(シュリーフェン作戦、タンネンベルクの殲滅戦など)では卓越した作戦で勝利しています。 ドイツが敗れたのは物量、総力戦になったからです。
WW(2)でも初期の電撃戦での勝利はそれに拍車をかけました。
軍人は保守的になりがちで、海軍は英国の大艦巨砲主義に習いましたがこれはそれなりに意味をもったものでした。  航空機で戦艦は沈められないというのが専らの常識だったので、航空攻撃の威力は山本五十六が日本の国力を考えてとった窮余の一策だったのです。
石原莞爾はクラウゼウイッツに比す日本の戦争学の権威というべき人材でしたのでドイツでの研修を薦めたのでしょう。
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