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今現在でも中国では、方言や独立した言語がありますが、三国志の時代も方言はあっただろうと、あくまで素人範囲ですが予想できます。この時代、国同士、もしくは武将同士の意思の疎通の際に、お互いの言葉がわからないということはなかったのでしょうか?文書であれば、読めばわかると思いますが、たとえば呉の使者が、魏に行って、重要な用件などを伝えるとき、現在の普通語のような、なんらかの共通言語があったのでしょうか?よろしくお願いいたします。

A 回答 (3件)

中国の標準語は北京語ですが周辺の自治区の民族は当然だが、漢民族であっても、使っている言葉は多種多様です。

一応中国語というくくりですが、例えば北京語では発音の高低を四声(高い発音・低い発音・高く始まり低く終わる・低く始まり高く終わる物の四つ)、南に行けば、5・7・8と増える。学者の中には、北京語と広東語は、英語とドイツ語以上に開きがある、ともいわれてるようです。
三国時代はもっと言葉は多様だったと言う可能性は高そうですね。(勿論、専制政治の状態から、現代より言語の統一が為されていたという仮定もできますが)
 三国時代においては、よく学閥の存在が出てきます。漢の人材登用制度が地元の名士からの評価によって行われる物であることから、人物評価で有名な者のいるところで名士の学閥が形成されやすい。それ以外にも、学閥の形成に重要なファクターが言語だったのかもしれません。
 諸葛亮と魏延の対立も、諸葛亮が徐州出身、魏延が荊州出身と考えると、もしかしたら言葉の問題で理解し合えなかったのかもしれないですしね。

 政治や軍事など、高度な分野について話をしようとすれば、言葉の壁は大きく、日常の英会話は可能でも、専門用語が頻発する分野での会話は難しいのと同じです。政庁にあっても、同じ方言を喋る者はやはり、交流を深めやすかったのではないかということです。
 また、発展していた中原では言語の統一も地方よりは為されていたとなると、魏がそれほど異民族統治にあくせくしていなかったのに対し、呉や蜀が、国内の異民族統治に手を焼いていたのももしかしたら地方の方が、言語がバラバラで、意思の伝達・政令の伝達が容易でなかったんじゃないでしょうか

 
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この回答へのお礼

言葉一つでも本当に多種多様だなと思いました。興味深い回答ありがとうございました。参考になりました。

お礼日時:2005/04/08 15:13

方言が違うから、三顧の礼の時、


「劉備と諸葛亮は、筆談だったのではないか」
という話を聞いたことがあります。

まぁー、諸葛亮なら、いろんな方言話せると思うが。
実際、その後、呉に交渉に行ってるわけですし。

使者は、その相手国の言葉が話せたのではないでしょうか
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この回答へのお礼

回答を頂きありがとうございました。三顧の礼につていは、初耳でした。いろいろな説があるのだな~と勉強になりました。ありがとうございました

お礼日時:2005/04/08 15:11

日本でも共通語教育が始まったのは明治維新以降のことです。


それまでは日本各地に無数の言語が存在し、いまも方言として根強く残っています。
日本と比べはるかに広大な国土を有する中国では、地域ごとに異なった言語を使っていたことは確実でしょう。

たとえば三顧の礼を例にとれば、北の河北省出身の劉備と、南の山東省出身の孔明とで、言葉が通じたとは思えません。
しかし、中国の文章表現は春秋・戦国時代の文献を見ても解るとおり、数千年前から確立されています。
おそらく筆談を用いて、二人は天下三分の計を語り合ったのではないでしょうか。(二人が出会った荊州の言語を共通語として使ったとも考えられますが)

また、三国志の文献に「筆談を用い~」といった表現が使われないことは、逆に、筆談の技術が発達しており、きわめて日常的に行われていたことを物語る傍証であるとも考えられます。

※参考URLは、参考文献に用いた『〈三国志の謎〉徹底検証』加来耕三著 講談社文庫刊 です。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062636 …
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この回答へのお礼

回答を頂きありがとうございました。紹介いただいた本は、あとでぜひ読んでみたいと思います。

お礼日時:2005/04/08 15:10

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