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空誓上人は貴族ですが、大河ドラマのような百姓言葉を使っていたんですか?

質問者からの補足コメント

  • またドラマでは「あとで、おいで」と、巫女に自分の寝室?にくる様に言ってましたよね。
    煩悩を持ってるので、他の宗派とは違い、修行した僧という感じには見えなかった。
    自分の荘園を持っている貴族だったのではないのですか?だから武士政権に税を払わず、自分と価値観が合う仲間達を集めて、そこでユートピアを作っていた。

    とは、考えられない?

      補足日時:2023/02/26 06:46

A 回答 (1件)

空誓上人についての引用です。



「空誓上人」は、浄土真宗本願寺派、中興の祖である「蓮如」(れんにょ)の孫に当たる人物です。生没年は不明。

1561年(永禄4年)に、本證寺の9代目住職だった「玄海」(げんかい)が加賀国(現在の石川県南部)の一向一揆にて命を落としてしまいます。そこで空誓上人に白羽の矢が立ち、本願寺11代目宗主「顕如」(けんにょ)の猶子(ゆうし:親族の子を自身の子として迎えること)として本證寺の住職を継ぐこととなりました。

寺院側にとっても、「一家衆」(いっけしゅう:本願寺派の血縁者)が住職となるのは、本願寺教団内の立場を上昇させることができるため大きな意味を持ったのです。現にこの当時、本證寺を含め「三河三ヵ寺」と称される「勝鬘寺」(しょうまんじ:愛知県岡崎市)と「上宮寺」(じょうぐうじ:愛知県岡崎市)では、一家衆が住職を務めていました。

しかし、勝鬘寺と上宮寺の住職は一家衆のなかでも遠縁だったため、蓮如の孫でさらに本願寺の現宗主・顕如の猶子である空誓上人は三河本願寺派のなかでも最上位者となります。

空誓上人が本證寺住職を継いでから2年後の1563年(永禄6年)に、三河本願寺派による「三河一向一揆」が勃発。こうして空誓上人は、三河一向一揆における僧侶側の中心的存在となっていきます。(引用)

云われる様に血筋、家柄ともに空誓上人は本願寺顕如以下の後継最上位にあったようですね。ドラマ仕立てにする上で「庶民から慕われていた」人物像を気さくな言葉で表現したように思います。「生臭坊主」かどうか乞うご期待ですね。
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