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1. ▲ (コリント前書 4:20) 神の国は言葉ではなく力にある

☆ ロゴスではなく デュナミスだと言います。

2. 一般および個別絶対性理論は 理論として(哲学として) 言葉による表現における説明です。

3. 一般絶対性として 神は 非知なる非経験の場と捉え 普遍神であると言います。

3-1. 有る神と無い神とは 互いにまったく同等であること。
3-2. 有る神について 名前がいかに呼ばれていようと やはり互いに同等であること。
3-3. 非知とは 《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ incomprehensible incomprehensibility 》を言います。
3-4. 非経験とは 人知を超えたところであり超自然また超経験を言います。


4. 個別絶対性として――おのが非思考の庭にあって―― 如何なる名で神を呼ぼうとそのひとの信仰は 絶対自由であること。

4-1. 人知ないし《感じる=感性の原野 / 考える=思考の緑野》を 《信じる》は超えているので 信仰の動態を《非思考の庭》と呼びます。
4-2. その信仰からみちびいた倫理規範や世界観は しかしながら いかにとうといオシヘと見なされたとしても 人間の言葉で表現されたからにはふつうの経験思想に属する。ゆえに オシヘは 神として信じる対象ではあり得ないということ。(宗教は 信仰とは別である)。
4-3. 個別絶対性は おのれのいだく神を 唯一の 絶対と見なさないことによって成り立つ。つまり 排他性を排除することにそのいのちがある。さもなければ その自由絶対が ただの思い込みとなる。
4-4. 信仰の相手は 普遍神であるのだから。



5. 特殊絶対性は おのが信仰が――その個別絶対性が―― 言葉にではなくチカラにあると仮説する場合を言う。

6. このチカラとは 霊性・生命性であり聖霊体験だとも言う。むろん霊とは 神のことであるが 経験世界における因果関係から自由な場を言う。

6-1. 聖霊体験は 非思考の庭なる動態にて あたかもあたえられる。
6-2. 信教・良心の自由が対応すると考えられるところの特殊絶対性たるおのおの主観である。

7. このチカラは どこから来るか? ――ひとつの仮説として 《ゆだねる》ことからかも知れないと思うけれど 問題は できるものなら 《特殊絶対性》とは如何にあるかにしぼってご見解をお聞かせください。

A 回答 (5件)

筍ご飯の話はなかなか分かりにくい回答だったかも知れません。



もし人を主役に見立てるなら白ごはんだと思います。毎日食べても飽きない主食という意味です。全く味がないのではなく、ほんのり甘い白ごはんの味。ハンバーグとか、鯵の干物ではなく、白ごはんのポジションが、人の立ち位置、在り方になると思います。

話を戻しますと。
真実が明らかになるそのいざという時は祭りの後、と言うのはその通りだと思います。ただ、その祭りを終わらせる機会、タイミングは、自分で決められる気がいたします。

こちらの問いはなかなか難しい話でした。

私たちはこの経験世界を不完全だと見ることが普通ですが、実は完成しているのだと見ることも、その特殊においては可能なのだと思います。それは一つのゴールであり、解決なのだと思います。
このゴールが一般化することはないと思います。
人生がそれぞれに固有であり、全部を共有することがないため、そのゴールもそれぞれのゴールとならざるを得ないし、それでよいのだと思います。

ただ、文明のずっと進んだ未来ではどうなるか分かりません。他の人の人生を仮想体験する方法もあるかも知れません。

或いは神が全てを、仔細にわたり知っていると言うなら、全人類が繋がっている集合知のような存在のことかも知れません。

こうではないか、と言うばかりの回答で申し訳ないですが、今のところこのように考えました。
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この回答へのお礼

★ 筍ご飯の話はなかなか分かりにくい回答だったかも知れません。
☆ はい。

★ もし人を主役に見立てるなら白ごはんだと思います。毎日食べても飽きない主食という意味です。全く味がないのではなく、ほんのり甘い白ごはんの味。ハンバーグとか、鯵の干物ではなく、白ごはんのポジションが、人の立ち位置、在り方になると思います。
☆ それは 分かる気がします。


★ 真実が明らかになるそのいざという時は祭りの後、と言うのはその通りだと思います。
☆ 確かに祭りの最中には 気が付かない。

★ ただ、その祭りを終わらせる機会、タイミングは、自分で決められる気がいたします。
☆ あ つまり――わたしの感覚では――確かに祭りを延々と果てしなくやり続けるわけではないから 最初に終わる時期も決めておくとは思われます。

★ こちらの問いはなかなか難しい話でした。
☆ なにしろ神さんの話ですから。


★ 私たちはこの経験世界を不完全だと見ることが普通ですが、実は完成しているのだと見ることも、その特殊においては可能なのだと思います。それは一つのゴールであり、解決なのだと思います。
☆ 《一つのゴール》と条件づければ 難なく言えるかと。

★ このゴールが一般化することはないと思います。
☆ あぁ つまり 《特殊性》は あくまで一人の人間の主観世界として成り立つ。
次のように捉えられます。:
★ 人生がそれぞれに固有であり、全部を共有することがないため、そのゴールもそれぞれのゴールとならざるを得ないし、それでよいのだと思います。


★ ただ、文明のずっと進んだ未来ではどうなるか分かりません。他の人の人生を仮想体験する方法もあるかも知れません。
☆ うむ。これは いま何とも言えないような気がする。

★ 或いは神が全てを、仔細にわたり知っていると言うなら、全人類が繋がっている集合知のような存在のことかも知れません。
☆ そして そういった情況にまで到ったら 神は奥へ引っ込んでいるかと。

★ こうではないか、と言うばかりの回答で申し訳ないですが、今のところこのように考えました。
☆ なるほど。確かに絶対性が特殊である場合ということです。そこに焦点を当てていただいたと思います。

へんなことを 考えましたね わたしも。ただ この場合が 実践ですし 現実なんだとは思ったりします。

お礼日時:2023/04/11 23:47

力と言うのは、制御されて初めて活きてくる。


それを制御するのは言葉(法)です。
そして、最小の力で最大の仕事をすることが卓越なのであるから、人はそれを目指すのが良いと思います。
力のヴォリュームの大きさを目指すのはやはり二流なのではないでしょうか。

最小の力とは、力では無い(0 零)と言う事です。
最大の仕事とは、既に実現(完成)していると言う事です。

在る神(一 いち)とは完成していると言う事です。
それは、無い神によって実現しているのです。

7.このチカラ(デュナミス)はどこから来るか?

A.それは無いところから来るのだと思います。何故なら無いとはあらゆるもの(デュナミス)のゆるしだと考えられるからです。


・特殊性について。

信じると言う事は、いざと言う時にどうかと言う事でその真偽が定かになるものだと思います。それで、信じていたのに裏切られたとか、信じていなかったが、実は彼は本当の友だったとか、分かるようになります。
神との関係で、いざと言う時とはどういう時か、その真実が明らかになる時とはどういう時なのか、なかなか難しいです。

自分は既に救済されていたのだと気づくときは、いざと言う時であったと思います。

余談
人の営み、存在意義と言うのは、筍ご飯に乗せる山椒の葉みたいなものだと思います。あっても無くても良いが、なければ少し寂しい、あればちょっといいね、くらいのもので。それを大事に思えることが、人の心の価値というものだと思います。因みに、ここで言う筍ご飯は、完成された世界の事です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 力と言うのは、制御されて初めて活きてくる。
☆ なるほど。標的の妥当性。あるいは ねらいとする目的の適宜性のような。

★ それを制御するのは言葉(法)です。
☆ 選択肢の整理・選択にもかかわる。・・・

★ そして、最小の力で最大の仕事をすることが卓越なのであるから、人はそれを目指すのが良いと思います。

★ 力のヴォリュームの大きさを目指すのはやはり二流なのではないでしょうか。




★ 最小の力とは、力では無い(0 零)と言う事です。
☆ ん?

★ 最大の仕事とは、既に実現(完成)していると言う事です。
☆ ん? 《すでに》ですか?


★ 在る神(一 いち)とは完成していると言う事です。
☆ あ それは いわゆる全一性ですね。

ただしその《全体性》は なお神の次元から見てであって 経験世界では 未実現ではないかと思います。

★ それは、無い神によって実現しているのです。
☆ 神の手腕は分からないように発揮される? 

あぁ デウス・アブスコンディトゥス?


☆☆ 7.このチカラ(デュナミス)はどこから来るか?

★ A.それは無いところから来るのだと思います。何故なら無いとはあらゆるもの(デュナミス)のゆるしだと考えられるからです。
☆ 《〈無い神〉としての摂理》? ――いえ 分かりません。


★ ・特殊性について。
★ 信じると言う事は、いざと言う時にどうかと言う事でその真偽が定かになるものだと思います。・・・神との関係で、いざと言う時とはどういう時か、その真実が明らかになる時とはどういう時なのか、なかなか難しいです。
★ 自分は既に救済されていたのだと気づくときは、いざと言う時であったと思います。
☆ あ おれはすくわれていたと気づくのは たいてい 祭りのあとのような気がします。

★ 人の営み、存在意義と言うのは、筍ご飯に乗せる山椒の葉みたいなものだと思います。・・・それを大事に思えることが、人の心の価値というものだと思います。因みに、ここで言う筍ご飯は、完成された世界の事です。
☆ 豆ご飯や山菜ご飯 そして意外と コーンご飯がおいしかった。

ううーん。
★ あっても無くても良いが、なければ少し寂しい、あればちょっといいね
☆ ちょっと分かりにくかったです。《主役》になってはいけない?

お礼日時:2023/04/11 19:46

オ~中村元氏かっ!


『インド人の思惟方法』
『シナ人の思惟方法』
『日本人の思惟方法』
『チベット人・韓国人の思惟方法』
素晴らしい業績です・・・・・余談でした。
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この回答へのお礼

たしかに わたしも勉強させてもらった口です。

その後途中で 聖書のほうに移ったので 仏教については 中村元一点張りの状態が 長くつづきましたね。

その後 あたらしい研究をいくらか知りました。


そしてその後さらに 醒めた目で見るようになりました。

お礼日時:2023/04/11 14:18

>このチカラとは 霊性・生命性であり聖霊体験だとも言う。

むろん霊とは
>神のことであるが経験世界における因果関係から自由な場を言う。
この通りだと思いますが・・・
《特殊絶対性》とは完全なる自由であり神の世界。当然に完全平等も付随している。尚、生死が存在する様では、中途半端で未完成な自由です。
チカラの源は欲だと思うが、その欲は完全なる自由への欲望か・・・人はそのチカラを得ることなどできない筈だが、西欧宗教では来世にそれを保証している様です。仏教では、解脱によって到達できると説く。生老病死という苦からの解放は、同時に完全なる自由の取得であるが、その取得された自由も解放されねばならないのであろう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


☆☆ >このチカラとは 霊性・生命性であり聖霊体験だとも言う。
むろん霊とは神のことであるが経験世界における因果関係から自由な場を言う。
★ この通りだと思いますが・・・
☆ ありがとうございます。


★ 《特殊絶対性》とは完全なる自由であり神の世界。
☆ ただし それはあくまで《主観》の世界なんですよね。

どこまでも主観でしかない神観としての世界。むろん 自由ですが おのれの主観の外に出たなら その世界は崩れ落ちて行きます。自由が自由でなくなる。

なぜって 人と人とのヨコの関係では――あくまで相対性の世界ですから―― 主観として持ち得た絶対性は消えます。


★ 当然に完全平等も付随している。
☆ と言えそうですが じっさいには むしろ一般絶対性――神は 普遍神であること――にもとづき 人間の自由とその互いの平等が成り立つと見るべきでしょう。

一般絶対性は 理論であり 特殊絶対性は そこから派生する仮説なのだと考えられます。


★ 尚、生死が存在する様では、中途半端で未完成な自由です。
☆ その見方も あくまで主観内の思索の問題だと思います。


★ チカラの源は欲だと思うが、・・・西欧宗教では来世にそれを保証している様です。
☆ 来世を持ち出すのは 特殊絶対性――そういう主観としての神観――が 特殊であり 主観の外には有効性が及ばないからだと考えます。


★ 仏教では、解脱によって到達できると説く。
☆ 説くのは 自由です。でも おそらくただの(普通の)経験思想でしかないと思います。

これまでに《解脱》を実現した人って聞いたことがありません。


★ 生老病死という苦からの解放は、同時に完全なる自由の取得であるが、その取得された自由も解放されねばならないのであろう。

▲ スッタニパータ ~~~
http://hosai02.la.coocan.jp/dammapada-01/suttani …

1  蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
~~~
☆ 《生》苦からの解脱とは 《この世とかの世とをともに捨て去る》ことなんですよ!?

お礼日時:2023/04/11 13:27

神の国は 言葉にではなく行為にある、それは楽観主義にある。



言語の虚構性の自覚・・ロゴスで表現される理論が現実を説明し尽くすことは絶対にない。
出発点とすべきは、ロゴスではなく、人間の「行」である。
懐中電灯の光は、自らの責任で一歩一歩前進しようとする人がいて、
はじめて生かされるのです。

人間には不可能を可能にする力がある 、矛盾した具体的問題を解決する知恵がある。 その力、知恵の発揮、行動から出発すべきであって、それなしに、どんな立派な理論を作ってもだめだ。
こうした人間の可能性を信じ「楽観主義」への信頼にこそ力があるのではないでしょうか。
「無条件に成り立っ透徹した"自信"」、また 「人間の精神的な力への無限の信頼」、そのカを信じる"自信"の中にこそ真の楽観主義はある。
「何とかなる」というのではなく、「自分には目の前を課題をのりこえる力がる」という信念こそが、楽観主義 に違いありません
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 神の国は 言葉にではなく行為にある、それは楽観主義にある。
☆ 楽観主義 ですか。

ううーん。普通一般の思想ですよね。つまり 信仰に関係なくその主義でありうる。

★ 言語の虚構性の自覚・・ロゴスで表現される理論が現実を説明し尽くすことは絶対にない。
☆ これも ううーむ。

つまり 言語表現が 何を表わし示せるか? 限界があり 仮象である。言語は ただのシルシ(記号)でしかない。――このことは これも 一般的な事態ですし 理論は理論で 理論と実践といった問題をはらみますし。

しかも 言葉にも利点があって これらの実態を示すのは 言葉である。


★ 出発点とすべきは、ロゴスではなく、人間の「行」である。
☆ まぁ それは ゲーテが言ったかも知れないし あるいは 世界ないしその現実は 言葉と振る舞いとさらに感情・雰囲気・クウキといった事態がふくまれている。


★ 懐中電灯の光は、自らの責任で一歩一歩前進しようとする人がいて、
はじめて生かされるのです。
☆ あぁ。その《一歩一歩のあゆみ》というのは いいですね。ひょっとすると 《言葉にではなく ちからにある》につながるかに思われます。


★ 人間には不可能を可能にする力がある 、矛盾した具体的問題を解決する知恵がある。 その力、知恵の発揮、行動から出発すべきであって、それなしに、どんな立派な理論を作ってもだめだ。
☆ そうですね。神の国と大きく出たのなら 結果がやはり問われるでしょうね。


★ こうした人間の可能性を信じ「楽観主義」への信頼にこそ力があるのではないでしょうか。
☆ ふうーむ。《地道なあゆみ あるいは 長期的視野のとうとさ》ですかね。そんな感じですね。

★ 「無条件に成り立っ透徹した"自信"」、また 「人間の精神的な力への無限の信頼」、そのカを信じる"自信"の中にこそ真の楽観主義はある。
☆ あぁ。ここでは わたしは やはり成り行きという要因をも付け加えますね。いわゆる運です。――人によるでしょうか。


★ 「何とかなる」というのではなく、「自分には目の前を課題をのりこえる力がる」という信念こそが、楽観主義 に違いありません
☆ 敢えて異見を言えば 《ちから》は成るように成るをふくむと思うのですが?

お礼日時:2023/04/11 09:11

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