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逆説の日本史を2巻古代怨霊編までよみました。
なかなかおもしろい説だと思うのですが、聖徳太子のあたりは引っ張った割りに説明不足で消化不良気味です。

それ以上に、どうしてもおかしいと気になるのが、天武天皇が本当は皇位を継げる身分ではなかったので、持統天皇が自分の子孫が皇位を継ぐことに固執した、という点です。

その説でいくのなら、大田皇女の大津皇子を草壁皇子のために陥れて、草壁も急死してしまっても、持統天皇と同じく天智天皇の娘である新田部皇女に舎人皇子と大江皇女に長皇子と弓削皇子がいるので、皇統を守るなら彼らでも良かったのではないでしょうか?
(ということは、持統天皇が自分の子孫に継がせたかっただけ?)

天智の娘が4人嫁いだという割りに、舎人皇子、長皇子、弓削皇子が無視されていて、天武の父が新羅人だったと言う説を信憑付けるためにあえて無視しているのだろうか?とも思ってしまいます。

この辺について、井沢氏のほかの本などで触れられているのでしょうか?
あるいは、大田皇女・持統天皇と新田部皇女・大江皇女の身分は明らかに違うなど、井沢氏が全く触れないにも自明のわけがなにかあるのでしょうか?

小説だと割り切ればいいのでしょうが、他の部分はけっこう詳しく検討しているに、この点が流されているのがとても気になります。

A 回答 (4件)

補足ありがとうございました。



井沢氏の「天武が天智の異父兄で父は新羅人だった(皇極が舒明と結婚する前の子)」とする説は、『日本書紀』において、天武の生年が不明であることを一つの切り口にしているのだと思います。そして後世の記録である『一代要記』『本朝皇胤招運録』にしたがえば、天智より天武が年上とされているところから、異父兄としているのではないでしょうか?しかし『一代要記』などは、中世に成立したものなので、信憑性は非常に怪しいです。

また皇統意識という点では、すでに他の方から回答があったように、推測しがたい点です。あまり過大な評価はしたくはないのですが、ご指摘のように「持統天皇が自分の子孫に継がせたかっただけ」と考えるほうが案外自然なのかもしれません。皇統の維持というなら、確かに他の妃の所生の皇子でも何らの問題がないということになりますよね。
おそらく井沢氏は、大津皇子の排除などを行ってまでも、持統の子である草壁及びその子孫に皇位を継がせていることに注目して、立論された結果、他の諸皇子との関連などを視野に置かなかったのではないでしょうか。つまり天武と天智の子である持統天皇という狭い血統の話でしか考えなかったのではないかと。
日本古代史の学界では・・・こんな話は聞きませんね・・・正直(苦笑)
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この回答へのお礼

再度ありがとうございます。詳しいお話を聞けてすっきりしました。
本当はそうだったのかな、と思わせる部分はあるのですが、読むときは良くできた歴史小説だという理解で読むようにします。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2005/04/25 22:59

井沢さんの本は読んだことはないのですが、日本古代史が大学での専攻だったので、少し調べてみたのですが、ご質問で若干疑問なところがあります。



>天武天皇が本当は皇位を継げる身分ではなかった
>天武の父が新羅人だったと言う説

血筋から言えば、天智天皇と同母弟です。父は舒明天皇、母は皇極(斉明)天皇です。身分的には、何ら問題がないはずだったと思うのです。この「天智天皇」が天智の息子の大友皇子だったとすれば、大友の母は采女(地方豪族が大王家に対して貢上した子女)ですから、身分が低いというのはうなづけるのですが、そうすると「持統天皇が自分の子孫が皇位を継ぐことに固執した」という部分がよくわからないのです。

すでに出されている回答も拝見したのですが、話の前提自体が問題となる部分はありそうですね。「皇統を守る」という話も、本当にそんな意識が当時あったのかという点でも疑問ですし。
正直なところ、この時代のことをかじった人間として、一読して頭をひねってしまう・・・井沢さんの説からはそんな感じを受けました。

この回答への補足

その井沢氏の説は、
「持統天皇が孫に皇位を譲るなど、天武の子の中でも持統の子孫に皇位を譲る事に固執した。それは、実は天武は天智の同母弟ではなく、異父兄で父は新羅人だった(皇極が舒明と結婚する前の子)。(本当は皇位を継げる身分ではなかったが、その時代の流れもいろいろあって周りの豪族が味方した。)壬申の乱の勝者天武側が、皇位簒奪を正当化するため記録上同母弟という事に改変した。持統天皇は天智の娘である自分の子が継ぐなら皇統が途切れずに済むと考え、だから史実にあるように自分の子孫に継がせる事に固執した」というものです。

一説としては(もちろん、学会では一説にすらなっていないのでしょうが)おもしろいと思うのですが、その説をそういう理由で主張するなら、最低でも私が疑問に思った舎人、長、弓削皇子のことが解消されていないとおかしいと思ったのです。発刊されてずいぶん経つし素人の私が気になるようなことなので、そのような大それた説を唱える井沢氏は既にどこかで私の疑問点に付いては述べているのだろうかと思って質問しました。

補足日時:2005/04/24 15:35
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仰る通り小説家の妄想の範囲なので学説として考えるには無理があるはずです。


正直この人の作風ってかなり強烈なイデオロギーがあって、1の方がおっしゃってる先に結論ありき、なヒトなのでまあそういう芸をたのしむかどうか、という読み方しかできないんじゃないかと。(私には無理)
そもそも天武の時代以前天皇家が天皇を名乗っていたかどうかという点も問題ですし、皇統を守るなんて意識はおそらく無かったでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
以前から話は聞いていて興味があった本です。
自分が、この説も有りかも知れない、と納得するには少なくとも疑問点無く解決されていないと納得できず、引っかかっていたのですが、先に結論ありき、といわれるとやはりそうなのかもしれないと思います。
皇統を守るという意識もまだないころということで勉強になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2005/04/24 15:32

一般論ですが、先に結論がある場合、都合の良い情報を根拠にし、そうでない情報は触れないで済ませることが多いですよね。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうござます。
やっぱりおっしゃる通り都合が悪いことなので触れないで済ませているのかもしれませんね。

お礼日時:2005/04/24 15:25

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