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歴史に詳しい方、当時生きていた方たちに質問です。

終戦直後の日本人たちって、日本に来ていたアメリカ人に対してどういった感情をお持ちだったのでしょうか?

恨みとか怒りとか抱いていましたか?

「空襲もやって、原爆二発も落としておいて日本に来てヘラヘラしやがってよお」

とか思いながら睨んでいたりしていた方が多かったとか?

A 回答 (9件)

はじめて米兵を見た大人が「実にスマートだ」と感心して話し合っているのを傍で聞いていて、スマートという言葉を覚えたものです。

子ども心に米兵に対する悪いイメージを抱いたことはありません。これが終戦直後の実態です。
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横溝正史がエッセイに書いてますが、戦後、米兵たちから古本屋にポケット本(文庫本みたいなもの)が大量に流れ、戦場にいても新しい本が読めたことを知り、日本がほとんどの本を発禁処分にしてたことと比較して、勝てないはずだ。

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戦争中、多数の人はただ「言われるがまま」に判断し行動していただけ。

思考停止していたのであり、これはアヤシイ新興宗教の信者と同じことです。
 ところが突然教祖様が居なくなる。自分で考えるということを全然してこなかったんだから、途方にくれるしかありません。そこへやってきたのがアメリカでありマッカーサー。すると、自分では考えない・考えられない人たちは、こっちこそがホントの教祖様だ、と乗り換えるだけで、結局は「言われるがまま」に判断し行動しようとする。(マッカーサーには熱烈なファンレターが大量に送られたそうです。)そして「国民を酷い目に遭わせた嘘つきの教祖」を恨み蔑む。
 もちろん、戦争中にも自分で考えていて、でも「言われるがままのふり」をしていた、という人も相当数いたわけで、彼らはマッカーサーを教祖様扱いするほど迂闊ではない。しかし「国民を酷い目に遭わせた過去の政権」を憎んだ。
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私の父と母は戦争経験者です。


父は11人兄弟の末っ子で、沢山の兄達を戦争で失ったそうです。
硫黄島やガダルカナル島の玉砕者に入っていたそうです。

母は小学校の校舎がアメリカのP-51戦闘機に機銃掃射されたのを目撃しています。
木造校舎のガラス窓が全てバラバラにされたそうです。
戦闘機が低飛行で飛来し、パイロットがニヤリと笑ったのが見えたそうです。
離島に住んでいたので、東京大空襲で真っ赤に燃えたいたのが綺麗に見えたそうですが、あの下で何人が焼け死んでいるのかと思ったら胸が張り裂けそうだったと言っていました。

断片的な話は聞きましたが、父も母もあまり戦争の話はしませんでした。
戦後になりTVが普及し、夜にアメリカドラマを一家でよく見ていました。
その中で、コンバットのサンダース軍曹がマシンガン(トミーガン)でドイツ兵をバラバラと撃ち殺すシーンを、父は歯を食いしばって見ていたのが印象に残っています。

父も母も天寿を全うしましたが、年を取ってから死ぬのが怖い怖いと言っていました。
戦争中には明日死ぬかもしれないと思っていたので、死ぬことが怖くなかった(むしろ、死ぬのが当たり前!)そうです。

アメリカに対して直接に恨みつらみを言った姿は見ませんでしたが、当時の日本政府(大本営)には、かなり恨みつらみを言っていましたね。
騙しやがってって感じでしたね・・・
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https://midomidomidorihaaoi.com/?p=2196

日本の一番長い日、
という映画があります。
ネットから参考になりそうな物を拾ってみました。
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異民族による侵攻と、それによる過酷な占領支配を経験したことのない日本人にとって、戦争とは一種の天災として捉えられていたように見受けられます。



また、アメリカ軍将兵も素行はさしてよろしくなかったもののソ連軍に比べれば天使のようなもので(比較対象が悪すぎますが)、戦地帰りの兵隊崩れや愚連隊、三国人に比べれば、ジープでパトロールしている程度のGIたちはまだマシな行状でした。

無論、心中で怨恨を抱いている人がいなかったわけではないですし、今日外国人観光客のオーバーツーリズムに対して不慣れな観光地の方が抱く程度には不快感を抱いていた方も少数ではなかったと思いますが、表向きは戦争に負けた結果として彼らを受け入れていた人が大半だったと考えられます。
少なくとも、米兵が闇討ちに遭うといった事例はほとんどありません(報道されていないだけでなく、当時を直接知る人に聞いた範囲で言えば、そうした米兵への直接的な反抗行為は噂レベルでもまず聞かない)。
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結果は完敗。



軍部は陸軍は中野学校出身者、海軍は軍令部が中心となって、GHQが昭和天皇を戦犯として処刑したら、皇族の誰かを奪ってテロや徹底抗戦に出る準備をしていました。
戦後数十年もフィリピンの山中に潜んでいた中野学校出身の情報将校だった小野田少尉は、フィリピンの米空軍基地から連日のようにベトナム戦争で北ベトナム爆撃に向かう大型爆撃機を見て、日本本土は米軍に占領されたらしいが、日本陸軍は天皇を擁して東南アジアで抗戦を続けていて、米軍爆撃機はそこへの攻撃に向かっていたと考えていたと述懐しています。

一般庶民は、夫や父親が戦地で捕虜となって帰れない家も多く、食料に日用品も全く足りていない状況。夫が消息不明・両親実家を爆撃で失って生活に困った子持ちの女性が米軍相手の売春に走らざるを得ない状況もあった。
そんな状況だから皆生きるのに必死で、恨んでいるヒマなどない。むしろ米軍相手の商売で一儲けという逞しい人もいたくらいだ。

軍部も昭和天皇が大丈夫と分かると、抗戦意識を完全に捨て、むしろ米軍に協力的になっています。
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終戦直後? 親や親族に聞いたこともあるけれど、人それぞれだったんじゃないかなあ。

恨みとか怒りもあったけれど生きる(食べる)のに精いっぱいで、食糧援助してくれることに感謝もしてたって言ってた。うちは何人か親族が戦死してるけどね。
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それ・・・・一概に言えるんでしょうか・・・・・



影響の受け具合も人それぞれでしょうし
考え方も人それぞれですよね

恨んでいる人もいれば
我慢してたけどずっと憧れてた人だっていたでしょう
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