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特に哲学について大学などで学んだことは全くないのですが(経営学部)、自分の身体操作技術論の発展過程で、東洋武術的身体論に、釈迦の至った「悟り」と最近の国際的なマルクス論の展開とに共通性を感じています。

具体的に

1 物事全般における三次元性
人の物事に対する視点や認識は二次元的であり、平面的である。また、それはスポットを当てたかのような範囲的な狭さも含んでいる。

2 釈迦の「悟り」と身体操作技術的観点から見た身体論
身体操作において身体の分割を考えた場合。それを分割していき中国武術(意拳)の王郷齋が至った細胞レベルまでの意識的身体分割そしてその統合。その延長線上に釈迦の「悟り」、(私の解釈では)宇宙との同化であり、具体的には素粒子レベルでの意識的身体分割によって宇宙という存在と釈迦自身との差異がなくなったのではないか。そして統合=宇宙との同化を「修行」(=おそらくは呼吸法やヨガ的なもの)を進め、「宇宙=自身」というものを「体感」し得た。

3 最近の国際的なマルクス論の展開
身体の分割=分業であること。そして、資本主義(ネグリの帝国)において内部でうごめくグローバルとローカルの二元的対立は、=輪廻。最終的な「共産主義」(でなくても現在の資本主義という枠からパラダイムシフトしたポスト資本主義社会)とは釈迦の至った輪廻から抜け出ること。

(今のところ)以上から
4 我々は宇宙(=自然=神)の一端
その一端である限り現実にそれを超越することはできない。すなわち終局的には、宇宙との同化。「宇宙との同化」をピラミッドの頂点としたとき、人間の行動や思想はそこへいたるプロセスに過ぎない(中でうごめく物事について人間というフィルターを通してみたときの是非はあるが)。


自分でもまだ淀んだイメージなので非常にわかりにくいと思いますが、こういった考えに意見してください。

A 回答 (7件)

僕は仏教や身体論についてはあまり知らないのですが、がんばってみます。



共通するのは、複雑な相互連関を、空間的にも時間的にも立体的に、しかも単純化しないでとらえたいという志向なのだと思います。それは西洋哲学の言葉で、「弁証法」と表現してもいいのではないでしょうか。
しかし、sei260さんとは、別のページでお話したことと重なるのですが、マルクスの弁証法は二元的対立の世界観ではなく、同様のことは仏教の「縁起の理法」と重なります。
縁起とか輪廻とか無常とかにあたる考え方は、大雑把には同時代(「枢軸時代」)のギリシャや中国でも展開されているということができます。エンゲルスは、古代ギリシャ哲学者について「天成の弁証家」と評価していますが、同様の評価はインド思想や中国思想についても言えるのではないでしょうか。そして、近年東洋的なものに関心が集まる、というのは、科学が説明してくれないことを、天成の弁証家が説明してくれるように思われるからなのでしょう。実証主義的に科学をとらえれば、科学で説明のつかないものは存在しないのと同じような扱いになります。唯物論では、人間が理解できないものでも存在することを認め、東洋医学などで、科学的には証明されていないなくても、経験則として間違いないものと言えることは、将来の科学の発展によっていずれ解明されるものと考えます。科学の現在の水準だけを基準にするのは、裏返しの科学フェティシズムだと思います。
マルクスは、ヘーゲル弁証法が閉じた環になっていることを批判しました。そして、閉じた環ということであれば、輪廻も同様でしょう。ただし、仏教では数億年を単位に時間を語ることも多く、そのスケールはヘーゲルの比ではないと言うことも可能ですが、ヘーゲルはあくまで合理主義の哲学であろうとしたためだと言うこともできるでしょう。そして、マルクスは、歴史は決して永遠の繰り返しなのではなく開かれたもの(後世の言葉で「開放系」と表現してもいいでしょう)であると語り、繰り返しに見えてもその意味は同じではないことも語っています。ウォーラーステインは明らかに世界システムの運動を「永劫回帰」のようなものと見ており、マルクスからは退化していると思います。ネグリは読んでいませんが、書評等からの知識では、「帝国」の秩序からどう抜け出すか、という点ではウォーラーステインと同様の袋小路に迷い込んでいるようです。「世界同時革命」とでもいうような現実味のないところにでも行かない限り。

人間は宇宙の一部であり、わざわざ「同化」する必要はないと思いますが、しかし、それを追求したくなるほどには、人間は宇宙や自然から離れてしまった、ということもできるでしょう。しかし、人間が自然的な身体を基礎にしている限り、その遊離は人間自身の自然法則にしたがった、しっぺ返しにつながる、ということは19世紀末にすでにエンゲルスが指摘しています。近年の身体論の流行は、人間の自然からの遊離が危機的と意識されるほどにまで進んでしまったことの繁栄なのでしょう。
「悟り」なんて錯覚だ、とばっさりと切り捨ててしまうことへの誘惑は、僕には抗しがたいものがあります。少なくとも、西田幾多郎的な「無」の境地(西田はそれは禅的なものだと言います)は錯覚だと思います。個人の孤立した内面だけで、宇宙と自我との一体化は幻想だと思います。人間の自然的身体は、人間は社会的動物であるようにできていると僕は思いますから。そして、人間疎外の克服は、文明と自然的身体性を一致させることにこそあり、それは何ら神秘的なものではない、と僕は思います。個の孤立は、商品経済の論理でもたらされるものであり、きわめて近代=資本主義的な現象です。

僕は仏教については何も知りませんが、釈迦の思想をこんな風に読み込むことも可能なのかもしれない、と思わなくもありません。
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この回答へのお礼

私の考えはあくまで、主に自分自身の身体操作技術の発展ともとに発展させたものなので、知識的な面でここにいる皆さんと比べて非常に劣っていると思います。その意味で細かい技術的論議については的を射ていないかもしれません。その点はご了承ください。

私は、アルチュセールがいうように、マルクスを初期と後期とに分断した上で後期は弁証法を棄てスピノザに戻った、としている点に共通性を見出したわけです。弁証法は内在する二項対立によって展開しますが、スピノザはその展開を外部とのインパクトによって求めたわけです。その点で、身体分割とはある意味で、自分の中に内部と外部を作り出す行為であると感じたのです。つまり、歴史がそうであったように内在的二項対立から内外のインパクトによってより大きな展開がなされるのではないか、ということです。

>>人間は宇宙の一部であり、・・・
もちろん、頭で考えて、知識をつなぎ合わせたときに「人間は宇宙の一部だ」ということは可能です。しかし釈迦はそれを「体感」として感じたのではないか、ということです。これは、身体論からの考えですので分かりにくいかもしれません。頭の中で考えたものは現実化しません。しかし釈迦は、修行によって宇宙が作られている分子や原子や電子といったレベルまでの意識的な身体分割をなし得たことによって「体感」として宇宙そのものを認識するに至ったのだと思います。身体分割については、イチロー選手など世界レベルの身体技術のあるスポーツ選手や多くの武術家に見られます(レベルによってのマルクスが指摘したのはまさにその点にあるのだと思います。マルクスは哲学者を批判(解釈のみで実践的行為をしないことに)し労働という実践的行為(=「行動)=広い意味での運動)をすることによって身体性を高めることが必要だとしたのでしょう(もちろん、「マルクスを再読する」からの発想です)。

私は、仏教というのは釈迦が思い至ったモノへの解釈する学問であると思っています。また、釈迦以後「悟り」に至った人間はいないと思います(もちろん、「悟り」へ近づいた人間はいたでしょうが)。その意味で、釈迦の「悟り」というものは未だ唯一のものでしょう。また、その点で先人の残した仏教という釈迦への解釈というのは、非常に実践的なもの(=修行=行動=運動)であったと思うのです。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/05/29 22:58

私は哲学とかなんも知識がありませんが、


直感的に似た感覚にさわりました。

最近悩んでる(かもしれなし、すっきりさせたいだけかも)事を解決させる手段に哲学があればいいのかなとおぼろげに
思い始めてこのページに行き着いたところです。

今はそう思ってますが、また違うところに行くかもしれません。
ひょっとしたら5行くらいしか頭に残ってないかもしれないし、それくらいしか
理解出来てないかもしれないです。

でもなんか感覚にヒットした気がしましたので書いてみました。

目に入ったのは

(1)宇宙の一部
(2)昔日の偉人たちが考えたことの後を追おうとしてしまう

この2点です。他の文面上での理解は私にとって難しかったのでご容赦ください。
(だからといってこの2点だけ書かれても印象に残らないと思うので少しは理解してる…気はしないんですが)

(1)宇宙を無視することは出来ないと感じています。
むしろその力を感じて少しでも使えたら想像を越える力がでるような気がします。
別に超能力が使えるという意味ではないのですが…

子供の頃から今で言う『気功』の操法を受けていたせいか、目に見えない『力』を
受け入れやすいのかもしれません。

気功という力がすごい作用をしてるかもしれないし、
自分の気のせいだけかもしれません。
でも私にとっては同じ事です。
ただやはり、雑念を捨て(意識せずに)無意識(潜在意識?)で『感じる事』って自分に直接的に働きかけてくる気が
しますし、力が出ます。

感じる事=悟り=α(?)波
科学的(医学的?)には脳波のなんとかが…であったり体温(?)であったりわかりませんが
宇宙の力を人体を通じて感じるってのは、私にとってすごく意味のある事のように思えるんです。

(2)の哲学なんですが、
科学が進歩し真実(みたいな物?)がわかる頃、哲学が実証できるものなのかもしれないなぁと思ってるんです。
たしかに昔の人が唱えた直感(?)いきついた事なんでしょうけど
科学的根拠がなくても無視できないものだから残ってるんでしょうか。
でもいつか科学で証明されるかもしれません。科学で証明できるというのは目に見えて実証できるってことかなぁと
思ってます。
ただ『わかった!』ってのは私の場合は感覚みたいです。説明しろと言われたら言えない事が多いです。
それはわかったとは言わないとよく言われるのですが、頭はすっきりしてます。

肉体と精神も別物で話しする事が多いみたいですがきっと一緒なんでしょうね。宇宙の一部としてみた場合。
ああ…理屈が駄目なんで破綻しまくってるとは思うのですが…

…何を言ってるかわからなくなってきましたが、幸せだと感じれたらそれでいいかな。

ほんと感覚で感じたまま書きたいと思い書いてみました…、失礼しました。

この回答への補足

はじめに私が記入した具体例4つですが、この場で自分の考えを記入しているうちにより明確になり、変化しています。
その過程で展開できたことが、下記の3段階です。
1.ひとつのもの(明確な区別はない)
2.多様化、分化(明確な区別化)→効率化
3.統一化(全体的には統一性と傾向性を持ち、その内的には明確な区別が存在する)
このように、大別して3つの段階があるのではないかと思います。もちろん、グラデーションはあります。

>>(1)
大きい側面で考えた場合、地球は太陽を中心として回っており、太陽は銀河を回っています。
小さい側面で考えた場合、原子は原子核を中心として電子がその周りを回っている構造です。
極論かもしれませんが、これはある意味で同じ構造といえるのかもしれません。(多少強引ではありますが)、導き出されるのは“我々は常にこの宇宙の影響下にいる”ということでしょう。
むしろ、逆が正しいのかもしれない。原子が原子核を中心に電子が回っているから、地球は太陽を中心として回っているのかもしれない。両方言うことが可能でしょう。だからこそ、「自分=宇宙」ということができるのでしょう。

>>肉体と精神も別物で…
人間というのは知性を持ってしまったが故に精神と身体の乖離を招いてしまった。
実は、ここにも上に挙げた3段階が当てはまるのではないでしょうか。
1.人間以外の動物は、知性によって「個」というもので強い意識ができないため、ある意味で「自然」と自分とに大きな差はないのでしょう。人間でいうと、赤ん坊の身体は非常にやわらかく、その身体性は動物的です。そのことから、この段階は赤ん坊の状態でもあります。肉体と精神との明確な区別がないため「自我」というものが育っていない状態でしょう。
2.「区別」というものを意識できるようになるのは、おそらく思春期というものが一番のターニングポイントであると思います。すなわち、この段階でオス・メスの明確な区別がなされることです。これは、「分化」ということで言い表すこともできるでしょう。肉体と精神との乖離もある意味で「分化」です。この段階は、我々の「個」が確立している状態とも言えるでしょう。自分と他人とに明確な区別がなされている。またこれは、内部と外部の区別ができているので、外部の影響によって内部が発展する状態です。
しかし、この段階では多くの問題が出てきます。その多くは、精神が肉体を超えて3へ近づくことによって起きてしまうのであると思います。この肉体を出てしまった精神をいかにして肉体と一致させていくのか。肉体を逸脱してしまった精神に近づけるのは、気功やヨガや呼吸法などによって「自分の肉体」の認識をより深めることであると思います。
3.最終的に肉体と精神は統一がなされる。しかし、これはいわば「悟り」なわけで、我々がそう簡単に得ることはできないとは思います。しかし、「感じる」ことをより深化させていくことでこの段階に近づくことはできるでしょう。

補足日時:2005/06/20 20:32
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この回答へのお礼

>>(2)
私は、過去の多くの哲学者たちも上記した2の段階から脱せていないと思います。つまり、頭の中で考えたことであり、それを自分の肉体に投影できていないということです。
しかし、このことは仕方がない。それが2の段階の状態だからです。


ご返答ありがとうございました。

お礼日時:2005/06/20 20:34

おはようございます。

いつもお元気そうですね
また、ご丁寧なお返事ありがとうございます
いろいろと、いろんな方、哲学者、宗教家の思想を
研究する事はお互い様にかぎらず多くの方々がオオイにすべし、といつも思っております。

私の基本的考えの根幹には神秘体験とも言うべき、この世ならざる認識を強く確信した事に起因いたしております。魂のコペルニクス的転換を余儀なくされました。ともすればまだまだ、邪教が跋扈している現代にこのような事をいうと勘ぐられることも多々ございますが、ナニブン自分自身はだませませんので正直になるしかありません。目に見えるはずのない仏神が
光の塊として、愛や慈悲の塊としてまさしく圧倒的
存在として、たち現れ光の滝に打たれたがごとく、
魂に大きな衝撃を受けました。

それ以来、唯物思想がいかに人間の魂を閉じた灰色の世界に閉じ込め、真実の世界から見れば全く逆の世界、地獄の大きな拡大原因になっている事を、少しでも食い止めねばと思っているわけなんですよ。
実際に唯物論を信じた人は地獄に落ちて苦しんでいるんです。事実です。

そんな立場ですのでsei260さんが率直に意見を言ってくれという事なので言いたい事を言わせてもらっているわけです。
ただ、世界的な流れではたくさんの偉い人が唯物国家を解体させてきていますので、残りかなり減ってますね。その中で日本においてもまだかなり社会主義的価値が根強く残ってはいますが、いま、団塊の世代のかたがたが、かなり、スピリチュアル的心の価値観に目が向き始めております。今、神秘思想がかなりの勢いで広がってるところと思います。神秘思想VS唯物思想もかなり神秘思想が優勢になってきました。マルクス思想が終わりを告げたからです。
世界的には宗教文明同士が激突している時です。
宗教の持つ地域性が当初からすれば、変わりましたね。昔はロバや、ラクダですから、今、インターネット、ジェット機ですから。教えが科学の発達についていけなくなってしまった時代性、を考えると、世界宗教も有効年数リミットである事がおおきな原因と思われます。科学の発展した現代、合理主義と神秘思想の融合した思想、そして、世界基準の統一した価値観、が今、たち現れておるところであります。ここ数年~10数年、新世界宗教が大きくたち立ち上がってまいります。大いに期待いただいて結構かと思います。
ちょっと周辺の背後あたりの説明をさせていただきました。また機会がありましたらよろしくお願いいたします。ありがとうございました。
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この回答へのお礼

まずお詫びです。
下で敬称を入れ忘れてしまっていたので、この場を借りて謝りたいと思います。
hw4183さん、申し訳ありませんでした。


>>私の基本的考えの根幹には神秘体験とも言うべき、・・・魂に大きな衝撃を受けました。
いえいえ、私自身そういうことに縁遠い人なので、hw4183さんの意見には、大変興味を持ちました。


>>そんな立場ですので・・・
率直な意見が聞きたくてこの「私の考えについて意見してほしいのですが。」という問題設定にしたので、大変有意義でした。


大変ありがとうございました。

お礼日時:2005/06/10 05:12

こんばんわ、hw4183です。

まずもってsei260さんの求道心と言いましょうか、
探究心といいましょうか、真面目に一途に求めておられる姿、その姿勢、
に対しまして心より敬意を称します。誠に素晴らしいと心より祝福させていただきます。

sei260さんの話の中で、身体操作技術論については
私自身、過去ヨガ歴少々、宗教的肉体行少々、経験した程度ですので、わからない事に関してはコメントを控えさせて頂きます。
そこで内容を勝手に絞って1点だけ述べさせていただきます。(スイマセン)また、私の意見は宗教的価値観を含んでおります。あくまで、一宗教家としての意見である事をご了承ください。

まず一つは、哲学で言えば、ソクラテス、プラトン、に対してエピクロス。
ヘーゲルに対してマルクス、
この図式に表せますように観念論、イデア世界の実在、対 実証的、合理的、科学的、いわゆる唯物論、
の闘いは人類の大きな大きなテーマの一つであったのです。
この目に見えない価値も大切にする考えと、目に見えるものだけを大切にする考えのこの二つは実は人類の
歴史上かなり古い時代から大変なテーマであり、魂の向上にとって大変意味のあるものだったです。

ソクラテスの時代も合理主義の世の中でした。
仏陀の時代も混沌とした時代で大変不平等の時代でした。孔子の時代もそうです。地域を越え同時代に違った角度で、普遍価値を持つ真理が説かれました。二千数百年経ってだいぶ形骸化してはいますが、その片鱗はまだまだリッパに残ってはいます。

時代の救世主たちが、唯物主義の怨嗟と阿鼻叫喚の世界から、その、考えの力で、心の念いの力で、智慧の力で、救ってきたのです。これは現実ですよ。
現代の法治国家の会社の中でさえ、社長が唯物的拝金主義人間の場合、社員、部下は皆大変な想いをするではないですか、(お隣にも国として似たようなのもありますが)
過去の偉人を見れば、歴史の中でこれらの思想がどれほど役立ってきたか、解かるはずです。
人類は魂を守られてきたと言ってよい、と思います。

sei260さんが比較するのはぜんぜん構いませんし
いろんな価値観もあり100人いれば100の考えがありますし人は皆自由ですから、それはいい事です。
ただし、はっきり申し上げる事は、
人間の魂を向上させ、育み、慈しんで下さっている存在と、(お釈迦様は永遠の本佛、イエスは神でもある。三位一体)
人を閉じた世界に押し込み、堕落させ、魂を腐らせ、
た思想、唯物論を並べ共通功を探す行為は、神と悪魔を同じものとして、比較するに等しい!善と悪を同じものとして扱うに等しい!真実と虚言を同じものとして比較することに等しい!と言わせて頂きたいと思います。
なぜなら、限りないほど、人を真実幸福にいざなった人と、
人を限りなく不幸のどん底に導いた人が、同じテーブルに着くことはありえないからです。
次元があまりにも違いすぎるからです。
天国と地獄がごっちゃになってますよって事なんです。

>>全ての思想家の伝えたことは、間違ってはいないと思います。ただ、「三次元性」を考えたとき、やはり一面的であったり、スポットを当てているだけであったりするのです。

思想家は一面的であったり、スポットを当てているだけ、、、では絶対いけないと思うのですよ。
宗教家や思想家は多くの人の人生に対して責任が生じるんです。少しの間違いが数千年間、間違った方向へ導いた場合、責任が取れませんね。数千年の間地獄へ落ち続けた人達は唯物論を信じたのです。
まさしく信じたのです。
ですから試験だとすれば唯物的観点が入ったら赤点で落第です。エピクロス、マルクス、ニーチェ、
カールポパー、理解できない事は黙るべきです。
理解できない事に屁理屈をつけ出すと、大変な事になってしまいます。残念ですが。

他の論点もまた機会があればお願いしたいと思います。ありがとうございました。

この回答への補足

まず、私の身体論というのは、非観念的な唯物論であると思っています。唯物論自体をまったく否定されてしまうとそこからの発展はできないのでどうしようもありません。

これは、「マルクスを再読する」を呼んで共感した最大のものです。的場氏のスピノザをベースとして考えたマルクス論は、マルクスは、観念的な唯物論から非観念的な唯物論へと変わったと書いています(つまり、初期と後期には「認識論的断絶」が存在すると)が、ここが非常に面白い。
つまり、認識は変わるものだ、としたのです。その点において、日本の明治期以前の身体への、また人間そのものへの認識と非常によく似ているのです。日本では古くから人は変わるものだという考え方があります。これは「個」というものを強く意識する西欧において(現代を見ても)ほとんどない考え方です(「名前」というものを大切にしていることからもそれがうかがい知れます)。
日本では元服のときに名前を変えてしまいますが、それはその人が変わったという認識です。「成長」によって認識というものが変わるのは当然とし、すなわち人が変わることが大前提として存在するという世界です。また、江戸は武術が最も栄えた時期ですので、そのような変わることが前提の非観念的な認識があって当然だといえるでしょう。もちろん、江戸は仏教の栄えた時期でもあるので、仏教が非観念的であることはいうまでもありません。

しかし残念ながら、我々は「哲学」というものを考えた場合、どうしても昔日の偉人たちが考えたことの後を追おうとしてしまいます。もちろん、その考えを真の意味で理解することは大事だと思います。しかし、そればかり追っていても良くない。そのほとんどの哲学者や思想家は死んでしまっているのですから、その理論は進展しないのです。ですから、それを追っている後世の人間も思考が変化せず「哲学」を観念としてとらえてしまいかねない。

マルクスがフォイエルバッハを批判した意味は同じ唯物論であっても、観念的か非観念的化というまったく別次元での違いが存在する、とした点です。

>>唯物論を並べ共通功を探す行為・・・
残念ながら、私は「神と悪魔」、「善と悪」、「真実と虚言」という二元論的な対立軸を作って話を展開しているわけではないので、やはりこれは理解できない(仕方ないことですが)。
確かに、マルクスは、hw4183のいうように「魂の向上」を阻んだのでしょう。しかしそれは、その起こったことは、その当時の人間社会の鏡でもあるのです。当時の社会主義(あるいは共産主義)は、資本主義という非人間的な生産を主とした制度への疑問を投げかける形で発生したのであって、ある意味で、当時の人間社会が社会主義(あるいは共産主義)という「理想」を求めていたということです。結局その試みは失敗し、悲惨な歴史となってしまったのだから、起こったほうが良かったなどとはまったく思えません。だが、批判すべきは人間社会のあり方であって、鏡を批判するのではなく、現実の人間社会のあり方を変えるべき、批判や疑問を投げかけるべきだと思います。そうでないと鏡には同じものが写っているままです。
それは、フォイエルバッハが宗教を批判したことと同じではないのでしょうか。


>>思想家は一面的であったり、スポットを当てているだけ
もちろん、私もそう思います。
しかし、物事が多面的である限り、全てを考えて論じるというのは、やはり無理がある。内容が細かくなればなるほどその度合いは増してきます。いくら偉人といえど、人間である限りその枠からは逃れられない訳で、人間の知性というのはそこまで発達したものではない。そして、物事を多面的に見ようとすればするほど、マクロ的になってしまい見る観点が大きくならざるを得ないのではないかと思うのです。たとえば、企業という観点で見たときと、個人という観点で見たときとは違いがあり、また、国や地域、宗教などによってもそれは異ならざるを得ない。これらの中で共通探した場合、たとえば愛とか共生とかといった本質的であるが抽象的で分かりにくくなってしまう。
そういうことを考えた場合、やはり、人というのは一面的や表面的、スポットというところでしか表現し得ない、と思います。そして、それを受け取る側もやはり一面的、表面的であり、スポットを当てた思考でしかない。これは、どうしても行き違い生じるのはしょうがないのではないかと思います。マルクスも釈迦もその限りではない。
だから、キリスト教や仏教というのは非常に意味がある。ほとんど全ての人間に共通して、必要である大切であるというものを認識させているのですから。長く続くということは、理由があることですし、それだけ意味深いものです。それだけ真を持っているという証明でもあるからです。

補足日時:2005/06/07 05:27
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この回答へのお礼

ちなみに、マルクスは、「欠乏は、人間にとって最大の富であるほかの人間を、欲求として感じさせる受動的な紐帯である」と述べています。つまり、欠乏こそ豊かさだとしているのです。もちろんそれは物的なものではなく、人間的な欠乏です。欠乏は欲求を生み、それを充足する方向へ向かいます。すなわち、人間が人間を望むことこそ必要であるとしているのです。資本主義や今までにあった社会主義というのはまったく逆であったと思います。生産性のために、物的欠乏の解消のために、人間性の欠乏からの欲求を否定してしまったのですから。


これはあくまでも、私の今現在の考え方です。
だから、ひょっとして明日によっぽどのインパクトのある出来事が起こり、それによってまったく別のことを言っているかもしれない(そのときは、もちろん自分の言葉の責任は持ちます。別のことをいう根拠やそのプロセスも存在するでしょうから)。根拠があるからこそ「変わる」わけです。自分の考えていることに進展のないのは、人間として成長していないことでもあると思います。しかし人間は成長する。


大変ありがとうございます。私自身、身体論からこういった話まで考えがより進展するので非常にためになります。

お礼日時:2005/06/07 05:41

「細かい技術的論議」になるかもしれませんが、スピノザ=非弁証法、ヘーゲル=弁証法という図式化はいかがなものかと思います。

スピノザの議論だって立派に弁証法だと思います。こういう言い方は、哲学的には正確ではないんですが、sei260さんの問題意識を活かすためにわかりやすく言えば、マルクスは、ヘーゲル弁証法の単純さをスピノザ的な弁証法によって補足した、とも言えるかもしれません。
そうしてみれば、仏教はスピノザ弁証法とヘーゲル弁証法の両方をそのうちに包摂していた、と言え、まさに「天成の弁証家」なのでしょう。

sei260さんはそうではないのでしょうが、釈迦の後世の仏教家たちは、「悟り」を神秘的なものと解釈してきました。釈迦の本来の思想がどのようなものであったか、ということは、とても僕の手に負えることでありませんが、少なくとも、後世の仏教家たちの見解には僕は賛同できないのです。マルクス自身と後世のマルクス主義者たちが違うように、釈迦自身と後世の仏教家たちが違う、ということが、sei260さんの前提のような気がしますから、面白いことを考える人がいるもんだな、と僕はむしろ感心しています。

この回答への補足

>>「細かい技術的論議」になるかもしれませんが、・・・
ご指摘ありがとうございます、大変勉強になります。
そうですね、私の認識不足です。「ヘーゲル的弁証法」とするべきでした。

ご回答ありがとうございました。

補足日時:2005/06/01 01:54
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この回答へのお礼

↓↓No.3のhw4183さんへの追加補足ですが、ここに書かせていただきます↓↓

>>全く正反対のものを同類のものとは出来ない・・・
まったく正反対のものであっても、紙の裏表のように”見えない”だけなのではないのか。まして、物事は紙のような薄っぺらな存在ではないし、三次元の物事は表面的に見るといくつかに分けられるが、その中は見ることができない、となればさらに構造は複雑化します。それが、1に挙げた「三次元性」です。これは、万物は宇宙から成っているのであり、何人であってもそれを逸脱することは絶対に不可能ではないか、とするところからです。簡単で当然のことのように思えますが、考えてみると簡単に理解し難いことかと思います。
それ故、人間の知性とは基本的に非常に低いもので、過去のものを現在をして判断しようとするのは、いささか早計ではないかと感じます。


>>確かに釈迦は宇宙即我の悟りを得ています・・・秘めていたと思われます。
申し訳ありませんが、出来るならもうすこし分かりやすく説明してもらえないでしょうか。仏教用語が・・・。


私は、釈迦自身もそれを伝えた仏教も、デカルト・カント・ヘーゲルやスピノザ・マルクス・アルチュセール・ネグリなどの全ての思想家の伝えたことは、間違ってはいないと思います。ただ、「三次元性」を考えたとき、やはり一面的であったり、スポットを当てているだけであったりするのです。
人間自体が宇宙の産物であり、その産物が本体を目指し、常にそれを見ているのだから、まったく外れるということはありえないと思います。(その点で、確かに釈迦はすばらしいと思います。「宇宙即我」というところまで行き着いたのですから。最も根本的で簡単な結論でありながら体現することはもっとも困難なことでしょう)。
人間は、考える頭脳を持ちえたからこそだと思います。もちろん、階層を分けて考えた場合、スポーツと同様にその時点時点見えるものが異なりますが、宇宙という大枠を外す事は人間にはできないと思います。
もちろん、下記したように、宇宙の「中でうごめくもの」について、hw4183さんがマルクスを批判するようにその是非は存在します。


↓↓ありがとうございます。大変勉強になります↓↓

お礼日時:2005/06/01 04:02

率直な意見として述べさせていただきます。

あくまで私見として、そして参考までに、という事でお願いいたします。
また、部分的な見解になると思いますのでご了承ください。
>>東洋武術的身体論に、釈迦の至った「悟り」と最近の国際的なマルクス論の展開とに共通性を感じています。
まずもって未だかつて釈迦とマルクスの共通性という話は始めて聞きましたが、一つだけ言わせていただくとするならば、マルクスは世界の半分を唯物史観に染め上げ、人間の魂を只の肉のかたまりに貶めた、人類史上まれに見る低級な思想です。世界人類にどれだけの不幸を与えたか、どれだけ悲惨な結果を残したか、検証してみてください。100年の文明実験の結果、地上にもたらした地獄はいまだ、消えていません。
明らかに検証不足と思います。それを見て、2600年の悠久の時を世界の半分を幸福に導き続けた釈尊の「慈悲の教え、」「悟りへの道への説法」と比較検討すること自体、いやはやなんとも
堪えられない事であると思います。比較の対象として
は全く正反対のものを同類のものとは出来ないとおもいます。また、釈尊は大悟前に苦楽の中道を悟っておりますが、これは肉体的苦行の中にも快楽の生活の中にも悟りへ至る道は無しと喝破しております。
釈尊の教えの中に武術的なものはありません。後の世の人によって創られたもの(創法)です。

>>2 釈迦の「悟り」と身体操作技術的観点から見た身体論


確かに釈迦は宇宙即我の悟りを得ています、小悟を重ね大悟の瞬間といわれています。(体験した事ないですがしてみたいとおもいますが、笑)これは意識、魂が宇宙大に広がり一体化したといわれています。あくまで意識であって、肉体物質が分解したわけではありません。意識は物質ではありませんから。物質でない世界(空、無)無限大に広がる事も出来ると。呼吸法でなるものではありません。魂本来(握一点、開無限)はその可能性を秘めていると思われます。
(空海、西田幾多郎、等類似する記述あり)
また
>>3 ???
>>4 ???
わかるような解からぬような、むむむ、、、イメージとしては少し解かる様な気もしますが。
只、自然=神としてしまうとそれは古い宗教に留まってしまう。(アニミズム)ありのままで尊いって事ですから。確かにそれも真理でしょうが、あまり魂の向上はないですね。高等宗教は人格神としての存在があり、教えがありますね。教えがあるので精神的向上があり悟りのプロセスが理解できるわけですよね。
釈迦の教えの大きなものの一つに「縁起」がありますがこれは、種が蒔かれて(原因)水をやり(縁)果実が実り(果)報いあり(報) 原因結果の法則といわれておりますが、マルクスは最悪の原因となっている事、最悪の結果を招いたということ。再確認したいとおもいます、
いまこの愛なく、智慧なく、喜びなく、つらく、悲しく、最大の粛清を繰り返した、大罪の唯物思想、を学ぶ事はその失敗を二度としないための教材にしかすぎないということを知っていただきたいと思います。

*お釈迦様はあの世を明確に説いています。(心の在りようによって天国、地獄があり、いろんな段階、世界がある)あの世でもこの世でも幸福に生きるための教えを生涯説き続け伝道し続けた。五百羅漢、弟子を育成し2,600年間幸福な人を排出し続けた。
*マルクスは唯物的合理主義者、人間は労働力としての存在と位置づけ、(ニンゲンロボット社会)個人の幸福をないがしろにした。おかげで大変な国がたくさん出来不幸な人を輩出しつづけている。

この回答への補足

確かに、私の知識は乏しいといえます。仏教用語の意味もあまり知りませんし。

私はあくまで自分の得た身体感覚や理論(甲野義紀氏、光岡英稔氏、高岡英夫氏など)から求めているので、私の前提である「身体分割」という”感覚”(=意識、イメージ、体感)を分かってくれないとどうしようもないと思います。
私は、身体操作技術論や東洋武術の身体論を実践している過程で「マルクスを再読する」に出会ったのですが、武術本に書かれてことと一致する箇所が多いのです。

私のマルクスへの認識は、日本で流行したようなマルキシズムであったり、歴史が示したような「共産主義」と名乗った中央集権的資本主義の国々の考え方(=マルクスが痛烈に批判した「粗野な共産主義」。例えば、個人の私有財を国の私有財とした)ではありません。従来のマルクス論というのは、hw4183さんの言うとおりの認識でまったく正しいと思います。現に歴史が証明しているわけですから。
しかし、私の認識は下の「お礼」で示したように「マルクスを再読する」から得たものです(的場氏によるとアルチュセール論を基盤とした国際的なマルクス論解釈の流れ)。つまり、マルクスは特に後期においては、へーゲルではなくスピノザ(デカルトとは対極)的なのです。これはまさに根本的に違います。
当然ですが、「マルクス自身」と「マルクス後」というのは異なるものです。17世紀のスピノザがずっと後になって理解されたことと同じです。それは、小乗仏教や大乗仏教などのように分かれていった釈迦自身にもいえることではないでしょうか。特に釈迦はマルクスのように近代ではないので、その度合いは非常に高いのではないでしょうか。そうした上で、このマルクス観というのは十分にありえます。

>>確かに釈迦は宇宙即我の悟りを得ています、・・・秘めていたと思われます。
「呼吸法」というのは、あくまで身体感覚を高めるための方法論です。釈迦自身がどのような方法を使ったのかは私の知るところではありません。釈迦は本来的にすばらしい身体性を有していたのでしょう。その上で、何らかの修行によって、”感覚”として、身体の意識的な無限の分割を行えるに至ったのでしょう。ちなみに、もっとも高次にある”方法”は瞑想などの静的運動(意拳では站椿(立禅))です。また、「仏足」というまっ平らな足跡も、黒田鉄山氏が体現している(氏の本にも書いている。完璧かどうかは分かりません。)ように、すぐれた身体操作技術のなしえるものです。

自然というのは、草花、水、岩などの単体的なものではなく、それらを全て(地球も太陽もブラックホールも)をあらわしているので、「システム」であり、自然の摂理のことです。その上で、神は自然を創ったのですから、それはすなわち神=自然としてもあながち間違いではないと思います。確かに、そのものである、とはいえないかもしれません。しかし、神は矛盾のない存在であるなら、本性として、それから発せられたすべてに矛盾は存在し得ないのではないか、と思います。それらは、すべて神の一端であるからです。

補足日時:2005/06/01 01:39
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この回答へのお礼

>>3.
意拳によると、3段階的に分けられます。(私の理解)
1.レギュラーな硬い身体。安定しているが、レベルは低い(一般的な人間)
2.身体の分割。より分割を進めていき、各部を別々に作動させる。
3.分割された身体の再統一。分割した身体を全てに連関性を持たせ、ひとつの動作に対して、分割した全てを使う
となります。

マルクスの社会構造への考察は、
1.村的共同体(閉鎖的)。
2.資本主義による分業をすることによっての生産性の効率化をする
3.資本主義を経た上での共産主義(=マルクスの究極的理想)
であると思います。(しかし、「粗野な共産主義」はどこへ位置するのか?という疑問はあります。わたしは、1(=回帰)である場合、2と3の間である場合、集権的資本主義として2に含む場合、とがあると考えています。)

釈迦については分かりませんが、いわゆる東洋的な思想の発生でありそれに近いと考えられるので、意拳の段階とに似ていると思います。特に、1と2は「悟り」に至る前であり、それはすなわち輪廻の中にいると捉えるることができると思います。その上で、3を考えたとき、3は宇宙との同化であり、釈迦の「悟り」であり、輪廻から離れたといえるのではないか、ということです。

>>4.
ピラミッドの頂点とは、いうなれば、アリストテレスのいう究極目的である「最高善」、「幸福」であり、釈迦はそれを「悟り」として、「体感」したのです。
上記したように、自然(宇宙)は神の一部であり、すなわちそれは神であることと本質的には違いません。
アニミズムとは、いうなれば村的共同体がそこら中に散らばっているともいえる状態でしょう。そうではなく、それをより発展させていく(私的にですが)と、それをひとつの統一体として「自然」というシステムであるといえます。(ジェームズ・E・ラヴロックに言わせると「ガイア」です)
知識として、我々は当然のことですがその一端です。
これは、あくまで大枠で捉えたことで、その中には雑多に存在しうごめくものがあるわけです。


ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2005/06/01 02:44

あなたの意見を読んだ限り、


「人間とは?」といった質問に感じます。
ようするに、「自分は何のために生まれてきたのか?」と言う人間一度は考えたことがあるもんだいですね。

考えるに、神が創造したものならば理由は神にしかわからない。
と言ったことでしょうか。

ただ、個人的には三つの共通性があまり理解できないです。
強引にある事象やある考えの共通点を導き出すと・・・
と言ったことはできるでしょうが、万物はすべてつながっていてすべて別のもの。といったような、「なぞなぞ」みたいな答えくらいしか見つからないと思っています。

自然とは結局人間もその一部に組み込まれ、人間自体の破壊や創造も自然の一部です。
人間の住む世界の外の世界は大きな一つの世界として存在し、結局は宇宙と同化しているのと同義なのではないかと思う次第です。


と、書いてきましたが、そんなことを考えなくても今生きているし、考えたっていつかは死にますし。
「人間は考える葦である」ってことですかね。
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この回答へのお礼

詰めて書いたのに800字以内と決められていたのを知らなくて、400字ほど削ってしまったので、多々至らないところがあると思います。

>>「人間とは?」・・・「自分は何のために生まれてきたのか?」
実はそこまで深くも考えていません。
私は、体感したを頼りに、今ある自分の身体性を基としてそれを知識と複合して頭で考えようとしているので、
「分割」のおぼろげな意識はあれど、「人間とは?」といった最も本質的であろうことまで考え付きませんでした。

>>ただ、個人的には三つの共通性があまり理解できないです。
もちろん、「三次元性」のとおり、見る側面、当てているスポットの場所が違うので、
理解できても、できなくても、それはある意味で真実であると思います。
私は、宇宙に存在しうる限りにおいて、すべて矛盾なくつながっていると考えています。
もしそれが矛盾に見えるのなら、私自身の知識、知性、体感力が乏しいのだと思っています。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/05/29 00:32

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