10代と話して驚いたこと

どうも、見込みで事を起こして全部裏目に出たような気がするのですが・・・。

「細川親子は親戚だから味方につくだろう」
「筒井順慶は寄騎だから味方につくだろう」
「摂津の国人は京都を押さえた自分になびくだろう」
「近江の国人は信長がいなくなったら頼るものがないからなびくだろう」
「四国遠征軍が崩壊したら婿の津田信澄がこちらにつくだろう」
「事実が知れたら毛利も上杉も長曽我部もこちらについて他の織田重臣を攻撃して足止めするだろう(毛利の場合は先に秀吉に知られましたが)」
「朝廷も足利義昭も本願寺もこちらについて動くだろう」

どうも「だろう」が全部そうならなかったように見えます。
どうでしょうか?

A 回答 (5件)

光秀の反乱は多分に偶然の産物であったので根回しの余裕もなかったと考えられます。


彼の場合信長に対し含むところはありましたが、直接の引き金は、敵地への領地の国替えしかも当年の収穫も取り上げられ、京都という都会から因幡、伯耆という僻地への赴任、しかも羽柴秀吉の指揮下に入るという多くの屈辱に耐えかねての反乱でしたから。

質問に揚げられた種々の思惑は頭脳によぎったでしょうが、なにより頭に血が上った末のことですから前後のわきまえもなかったでしょう。
本能寺が焼け落ちた後呆然としていて、はかばかしい指揮も出来なかったといいます。

謀反の働きかけは天皇周辺、一説秀吉の陰謀説など色々考えられますが私は秀吉陰謀説を採ります。
彼の中国大返しはかなり周到な用意がないと出来ない筈ですから。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

秀吉が黒に近い灰色な感じはしますが
その理由がわからないですねぇ・・・。

お礼日時:2005/06/07 22:41

以前、NHK「そのとき歴史が動いた」では、光秀が雑賀衆に送った協力を仰ぐ手紙や、その他の状況証拠から、朝廷の有力者と足利義昭がバックにいたのではないか、と推測していました。

その権威が思ったほどには効果を発揮しなかったのはそうでしょうね。

その他、変の後の光秀の動きが不自然で、織田勢力の有力者と密約を結んでいたのだけど、裏切られたのではないかと指摘する向きがあります。それが誰かは諸説あって、特定できる証拠はないわけですが、僕も秀吉はあやしいと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

秀吉ですかねぇ。
やっぱり

お礼日時:2005/06/07 22:39

#2です。



本能寺の変に関しては様々な説がありますが、おそらく光秀には強力なバックがいたのではないでしょうか。
私的には時の正親町天皇かその周りの公家が絡んでいたのではないかと思います。
そのために光秀は成功する確率が高いと思って実行したと考えます。

もし、黒幕がいなくて光秀単独の考えだとしたら周到な計画をしたとは思われず、かなり衝動的な行動だったような気がします。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

天皇や普通の公家は京都が平安なら誰だってよかったんだと思いますが、危機感をもってる公家は動いたかもしれませんねぇ。

お礼日時:2005/06/07 22:44

結果論で考えてもあまり意味がないのではないでしょうか。


何事か行動を起こす時は誰でも成功することを考えるものだと思います。
また、打倒信長という大それたことを実行するのですから光秀にとっては大きな賭けだったと思います。

すなわち光秀にとって都合の良いように周りが動いてくれることを期待していたのだと思いますが、実際には期待したように回りが動かなかったとしても、結果として賭けに負けて失敗したというだけのことだと思います。

反対に関が原の戦いでは徳川家康の期待通りに周りが動いた為に結果として家康が勝った訳ですが、この戦いにしても両軍の兵力から考えると必ずしも徳川方が絶対的に有利だった訳ではないので結果として家康は賭けに勝っただけだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

光秀にしろ家康にしろ大博打だったというのはわかるんです。

でも家康はかなり手は打ってますよねぇ。
光秀はどうもそういうことをしたようにおもえないんですよ。どうなんでしょ?

お礼日時:2005/06/07 08:43

結果を知っていますからそのように言えますが、秀吉の中国大返しがなければみんなうまくいったかもしれません。


実際四国遠征軍は秀吉よりも近い位置にいたにもかかわらず崩壊してしまっていますから。
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